LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

孤立したい

しばらくツイッターをやっていたんだけれど、孤立したいなと思えてきた。内面世界に引きこもりたいな、と。

 

そういうのが私だなぁと思う。それは私らしい。孤独で孤立した世界を生きて来た私にとって、その静寂が生活に不可欠なのだ。

 

だから、一人ぼっちにしない、ということを毎日のように強制されるとすれば、それは私にとって望む処遇では無い。

 

一人になりたいときにはずっと一人になれること、これが不可欠だ。私が私としての在り方を保つためには。

 

私は早朝の静けさが好きだ。まだ人の起き出さない、他人の喧騒に掻き消されていない自然の静寂が見つけられる。

 

ツイッターというのは言わば、商店街やデパートみたいな場所だと思う。喧騒の最中だ。ウィンドウショッピングをするには良いが、それは旅行で非日常である。帰ってくると精神的疲労を感じる。

 

私は居場所を見つけたいというが、正直引きこもっていればここが居場所になっている。問題は無い。外の居場所というのは所謂、保健室登校みたいなもので一時避難所に過ぎない気がしている。

 

人とのコミュニティの中に私の居場所は見つけられないのだと思うし、所謂、社会への登校を強要されない限りはその必要も無い。

 

社会にでなければならない、というバイアスがベクトルが摩擦を引き起こしている。精神の軋轢を生み出す。10代の頃から、あるいはそれ以前から、少なからずそのようであった。

 

そういう人は、もうそれでいいのだと思う。

 

 私は今まで社会の中に飛び込んで居場所を何とか探そうとしてみたけれど、それでは行き詰ってしまった。だから、それを止めることで、自己承認、自己肯定に結びつく道があるんじゃないか、と探してみたいわけである。

 

私の腑にスッと落ちる生き方をして、そして死にたい。

 

 

 

 

 

発達障害とは

能力に凹凸があるから発達障害では無くて、

発達障害があるから結果的に能力に凹凸ができてしまうのである。

 

発達障害があるから生き難いのでは無くて、

社会が要請する能力に対して能力の低い人間は生き難いから、

発達障害者もそれに倣い生き難くなるのである。

 

 

学校に行きたくない人

思うに、学校に居場所が無くて行くことが苦痛だった、という人は社会に出ることも向いていないんだろうな、と思う。

 

集団の中に入っていくのは苦痛、そういう風にインプットされる。

毎日学校に行って授業を受けるのは苦痛、そういう風にインプットされる。

 

その型から出ることが出来ないから、毎日会社に行って同じ仕事をして帰る、という反復ができない。その生活に身体が調整されてこなかったから。

 

その人にとっては家にいることこそ普通で学校に行くことは日常でも無いし普通でも無い。

 

普通の人にとって学校に行くことは普通で日常である。だから会社に行くことも普通で日常であると受け入れられるのだろう。

 

私は学校生活が非日常だと思っていたので、社会人の生活もまた非日常であり、耐えられないのだ。

 

療育等で大切なのはその人の日常生活の範疇に療育に通う生活があることで、それが普通で日常であると受け入れられることだろう。その先の生活もそれが日常で普通で当たり前なのだと受け入れられることが重要なのだと思う。

 

そして、それは無意識的な学習である。意識して認めようとしても無理なのだ。私は私として固定されていると思う。

 

 学校に通う、ということは、家から外に出て学校と言う会社に通勤して一定の仕事をして帰る、という生活習慣を作る過程である。

 

だから、自分をそこにフィットさせられなければ、当然、社会人生活の上で前提となる必要な生活習慣が無いのだから社会に出てもやっていけないのである。

 

 殆どの人間にとって学校に通うことは当たり前の習慣で、だから会社で働くことも当たり前の習慣だとして飲み込める。けれど、学校に行くことが当たり前で無かった子供は大人になって会社に行くことも同じように当たり前では無いのである。

 

その子にとっての当たり前の生活をさせる、ということが人間らしい生き方であると思う。

 

 療育というのは基本的に、どこかに行って、何かしら作業をして、家に帰ってくる、というライフスタイルを自然に身に付けさせることが最も重要なんじゃ無いだろうか。

 

まぁ、働かせたいならば、という話だが。 

 

 

 

障害受容とは

うん。

 

なんだろう。

 

ツイッターも障害のことばかり話してるよ…(>_<)

なんか嫌になってきたよ。

 

要するに、障害に呪われてるじゃないですか(>_<)

違うんですよ。

障害のことなんて話題にも上らないくらいに気にしなくなって、

それが障害受容。

 

障害以外のことを気にしたい。好きになりたい。喋りたい。つまり、そういう風にできること。

 

障害が気にするものでは無くなる、ということ。

気にかけなくなること。

それが理想だよね。

 

 

それが私のレーゾンデードルだから

ごめんなさい。タイトルに意味はありません。

 

ツイッターを見ていると気づいたら10時間くらい経っていますね。恐ろしい。

 

人間が生きていく時に、その人らしく生きたい、生きるべきだ、という。私の家族には明らかに働くのに向いていない人がいて、私はその人が働くと言い出したのが辛かった。経済的な問題で働かなければならないということだけれど、明らかに向いていないから。

 

家の周囲50m範囲に出ていくのにすら向いていないと思う(笑)そういう人が労働の義務を果たすために社会で雇用されなければならない、というのはその人の性質を歪めてしまい、不当だと思う。

 

その人が面接に行ったというので辛かった。案の定、落ちたそうだが。特にコミュニケーションを必要とする場に向いていないし、肉体労働も向いていないのである。

 

ここで言いたいのは家族側として、そういう認識を家族に対して持ちうるのだ、ということ。

 

社会常識とは異なるし相容れないと思うのだが。自分らしく生きるということだけを鑑みて言うならば、一般社会に出なければ自分らしくいられるだろうに…と思わざるを得ない人が結構いるのだろうな…と思う。

 

自営業が多かった頃は、家族でそうした個性を守って位置付けられたのかもしれないが、今は社会に出れば社会の常識に照らして常識的な態度を取らざるを得ないだろう。常識的で無い人でも。

 

発達障害者はそういう器用な真似がそう長く続かないだろうと思うと、それを機に病んでしまうことになるのだろう。本来の精彩を欠いて生きることになりかねない。そういう暗い生き方をせねばならない人々が気の毒だし、生物としての美しさを損なう。

 

動物園の話もそうだが、壊れた動物を見て楽しいだろうか…。そこに本来あるべき美しさはあるのだろうか。という感じ。

 

多様性を謳いながら、社会の中ではそれを満足に発揮することは出来ない。丸い人間は許されず、四角い人間で統一されねばならない。その統一され排除される半径が狭いのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Twitterをやってみた感想

新奇性のある発達障害者にとっては、動きを封じられてしまうツールだなと思った。そこから抜け出せなくなりそうだ。

 

自分の考えを発信して反応を見るのには良いが、自分の考えをまとめるのには向いていない。一々レスポンスが付いてしまうから。

 

考えをまとめるには、ある程度の分量自分で思考を進めなければならないと思う。その中で論理的な整合性を自分で測る。ツイッターでは他者のご機嫌を窺って、その辺を決めざるを得なくなる。それに意味の無い呟きは出来ない。

 

考察を長々と書きながら深めるためのツールでは無いのだ。

 

周囲のフォロワーの意見に流され、彼らを気にかけなければならない。他人の意見を傾聴する分には良いだろうが思考を形成しようと思うなら、別の落ち着いた場所で展開した方が良い。

 

社会的な道徳性が割り込むと、理論的な考察を深めることは難しいと思う。

 

まぁ、会話で思考回路を形成している一般人が物事を強く現実や社会的道徳に結びつけて考えてしまうのは、他者と連結した前提の思考で多くの物事を考えてきたためだろう。

 

人間には一人でものを考える時間が必要である。でなければ、考えを共同体の外へ広げることが出来ない。それは視野を狭くしてしまう。

 

まぁ、共同体の中で生きる分には常識に肩までどっぷり浸かるのも良いのだろうが…。

 

自己肯定感を得やすいツールだなと感じた。優しい関係?けど炎上している場所では炎上しているんだよね…。

 

チャット等のように発達障害者にとっては良いコミュニケーションツールだと思うが、それだけに帰ってこれなくなりそうだ(苦笑)まぁ、既に話したいことも無いような気もするが。

 

自分の中身が人に披瀝するには空っぽだと気づくのも早いんじゃなかろうか…。私は既に自分の限界が見えた気がしたな(´・ω・`;)

二日で(笑)私の人生は二日分の暇つぶしくらいにしかならないか…。良いけどね。

 

まぁ、だからバカッターとか安易なネタの仕込みに走るのか…。語れるほど自分の中身が無いから…。自分を消費する場のような気がしたな。だから発散という意味にも向いているんだろう。

 

もう少し思考を深めたいな、と思える場所だったかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私にとって障害は私の一部である

人が自分の容姿を愛しているように、私は自分のこの脳を愛しているのだ。だから、私の障害が中傷された時、私は私が攻撃されているのだ、と感じる。

 

私が不細工だったとして、顔を中傷された時に、怒りを感じるように、私は脳の不出来を中傷された時に、怒りを感じる。

 

脳を治療せよ、と言われれば、整形を受けろ、と言われように感じるのである。だから、発達障害が成長して健常者になれると言われることは、ブスが成長したら美人になると言われているように、現在の私を貶める話である。

 

私の障害を悪く言わないで貰いたい、ということである。これはこういうものなのだ。同性愛者を異性に手術して治療のと同様に、発達障害を治療しようというのも、当事者がそれを望んでいるのか、よく考えて欲しいものだ。間接的にそのようにするべきだと誘導されているのでは無いのか。

 

容姿に自信が無くなるように、性格に自信が無くなるように誘導され、変えるように奨励されている。

 

そこに怒りを覚えては行けないのか?顔や脳までも相手の都合でコロコロと変えなければいけないのか?そこまでこの障害はあってはならないものだと言うのか?治療の対象なのか。

 

別に社会で障害者が自立しようとしない限り困らないのだ。自分を改造してまで自立しなければならないものなのか?なら私で無くても良いだろう。