LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

ありがちなフリーゲーム批評論(カオス・ゲーム・ラビリンス)

フリーのRPGにおける、ありがちな欠点や個人的な希望をあげていこうと思う。

 

・戦闘に参加できる人数が3~4人(少数精鋭)

→微妙に足りない。理想的には8人連れ回したい。戦闘に参加できる人数は、戦闘中に編成を選択し、入れ替えられると良いと思う。

 

・麻痺すると死ぬ(麻痺毒無双)

→麻痺の効果が3~5ターン行動不能といったものだと、確実にオラオラの憂き目に遭う。範囲麻痺攻撃とか死ぬ。

 

・状態異常耐性アクセサリという縛り(バッド・ステータス)

→かと言って「リボン」のようなアクセサリを付けていると、他のアクセサリが付けられなくなり、無駄アイテムと化す。経験値2倍や獲得金額2倍も同様。「呪われたアイテム」のようにスロットを占領する。

・スキルを限られたスロットに付けるシステム(占領領域)

→毒無効(1スロット使用)のようなシステムだと「リボン」と変わらない状況を生み出す。ステータスUP系のパッシブスキルも同様。私は限られたスロットにスキルを嵌めるシステムは大抵肌に合わない。

 

思うに状態異常が強すぎるのがいけないのだと思う。だから、ボスには全耐性が備わるのである。私はボスにもバンバン状態異常にかけるのが好きだ。だから、完全無効だったり、一度効いた状態異常に耐性が付いたりというボスは嫌いである。

 

ボスを嵌めさせないための耐性にしても、状態異常職のようなジョブキャラが一気に戦力外になったり、戦闘から戦略の要素が大きく抜けていくものだと思う。

 

また全体攻撃もそうだ。ヒーラーが必ず全体回復をかけなければならなくなるようなボス。そうするとヒーラーというより全体回復の装置と化す。

 

私的には消費しないアイテムを幾つか用意して主にヒーラーの活躍手段を増やして欲しい。某RPGの「賢者の石」のような回復手段。

 

・消費すると回復しないMPや殴っても増えないTP(リソース隔絶)

→MPを不用意に使えないから「たたかう」連打。TPが増えないから「技」使用不可。スキルが豊富なのにそれが使えない「システム」

 

MPが使えないから魔法職が死ぬ。TPやMPは「自動回復」を持たせるべきである。「防御で回復」「待機で回復」「アスピルで回復」「アイテムで回復」など応急処置はあるが、それらも無いゲームも散見するような気がする。

 

・「盗む」コマンド(強迫観念)/(ヒーリング・マシーン)

「盗む」技能を盗賊しか持たないという場合、必ず盗賊をパーティに入れなさい…という神のお告げである。レアアイテムが設定されているなら「盗まない」という選択は無い。これで4名までしかPTが組めない場合、「狩人」のような職業が追い払われる。

 

またPTの盗賊は通常戦闘において「盗む」を連打する要員になり果てる。ヒールマシーンのヒーラーと同様である。「ぶんどる」のような+盗効果のあるスキルを複数登場させれば良いのに。

 

・思うに毒という概念が自然発生したことは非常に不思議である(不可解なる超常進化論/ダーウィニズム)

→毒や麻痺は何故生まれたのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

膝矢

ブログの更新が333日ぶりだったとか、どういう因果か知らないが、ゾロ目に遭うことが多い。

 

私の運命であるとか、他の高位存在からの干渉であるのだろうか、とか答えは出ない。ただ、この間は膝に矢を受けてしまってブログの更新をする機会が訪れ無かったのだった。

 

 

爆ぜろリアル!弾けろシナプス!バニッシュメント・ディス・ワールド!

名言である。

そして、顔を上げ、眼からビームが照射されて、異世界結界が構築される。出典は『中二病でも恋がしたい』。

 

存在理由・存在価値・・・レゾンデートル(Raison d'etre(ドイツ語)/raison d'etre(英語))。変わらないのか…。

 

発音記号的にレイゾーインデトルと読むのだろうか。

 

不可視境界線・・・。

 

今は忘れてしまったものの、『セラフィック・ブルー』も言葉当て、主に技名だが…というか言葉を当て嵌めるセンス(sense)が非常に良かった。中二病で無くとも、使ってみたい格好の良い言葉の数々である。

 

不可視境界線と言って思うのは、「行動」で「表す」ことによって、事象が「発生し進行し帰結する」という当たり前の事実のこと。

 

所謂、要するに、それは科学を信じるということなのだ。誰であろうとも「決められた手段で同じ段階を同じ条件で踏めば必ず同様の結果に至る」という真理である。それを科学と呼ぶ。

 

科学を信じられるか否かということが、この世界での生き易さに関わる。私は科学を信仰していないのか、科学を理解する意欲に乏しいのだろう。科学を理解するということが人間の一生には付きまとう。

 

科学とは生活であり仕事であり生理であり行為の未来予測を可能とする必然を想像するための、あるいは確信するための術である

 

生活の動線の全てには、科学が関わっている。法律や暗黙の規則(ルール)を私の頭で了解して、その予測演算機能を信頼し扱って、不可視の現実内で目的を持った活動を結末に向けて一歩ずつ進むことを、科学は可能とする。

 

私たちが普通の人間らしく生きていくには、不可視境界線を不確かな現実感覚の中から見つけて、それを活用していけなければならない。

 

自転車の乗り方やタイピングの打ち方や、コンビニへの道のりや、仕事の進め方…etc

 

人間は空の状態では不可視境界線を視ることはできない。視るには知識が必要なのだから。知識には頭脳が必要なのだから。

 

例えば「空気が読めない(KY)」とは不可視境界線が見えない状態を指すと言ってみてもいいだろう。状況に対する対応能力は未来予知/未来予測を必要とする。

 

そうした生活上必要とされている想像力を持つには明晰な頭脳と知識、数学的な計算が必要となるだろう。

 

まとめるなら…。

自分の不可知境界線を視る能力を研いでいくこと。それによって、上手く道を辿ることができるようになっていくのだろう。

 

見えない自分の想像力を使いこなすこと。そう言えば、それは中二病に帰結するかもしれない。『未来予測線』を見切る能力。

 

なんてものを想像する。

 

生存報告

自分は何歳まで生きるのか。

どのように死ぬのか。

 

そんなことを考えてみる。

誰しも病気や事故で死ぬのだろうか。老衰とはどういうものか。

生物の生死に関して考えてみる。安寧なる死なんてものがあるのだろうか。苦痛や惨めさの中で、苦しみと疲労の中で、痛苦の中で、鈍痛のようにままならない生理の中で、死んでいくのか。

 

そう考えると死を迎えるということは怖いような気がする。もし、転生するとしたなら、繰り返し繰り返し、そんな苦痛を味合わさせる輪廻というのは、地獄だろう。

 

様々な人が死を恐れ、生に挫ける。私達は何のために生を得たのだろう。何のために働くのだろう。世の中は、何故、生に苦痛を感じていても、楽に殺して貰えないのだろう。

 

そして、死んだところで、永遠にグロテスクな肉塊へと転生し、なり続けるとしたら。その巡回は何時終わるのだろう。

 

沢山の人が頑張って働いている。何故そんなにも働けるのだろうか。何のために働くのだろうか。死や生に絶望を覚えない程に、何を生きる糧としているのだろうか。

 

何故、そんなにも笑って生きることができるのだろうか。私はそうでは無いから、そんな人たちのことが分からない。

 

 

 

 

黒の魔王 感想 途中 550話前後?(愚痴)

とりあえず、フィオナ要らないな…と( 一一)

 

初期は正義感と倫理観が多少あってよかったんだけど、魔女の加護を得るために、それらを捨ててキャラクターとしての芯が無くなったと思う。

 

クロノのため、と言いつつ、結局終始自分の欲望のため、という風に見える。ストーリー上、サリエルを顎で使い、クロノも物扱いで奪い合っているように見える。

そして、クロノは、なぜあからさまにサリエルを奴隷扱いするフィオナと恋人関係を続けようとするのか(=_=)普通、引くわ。

 

「クロノという物が無ければならない」という感じで、同時に他者を廃絶する。色欲に囚われた時にリリィが死んでいたように「自分とクロノ以外は世界に必要無い」という神経なので、クロノというキャラと合わない。

 

にも拘らず、なぜかクロノはフィオナと付き合い、愛しているとか、君だけを愛していると言えるといいな、などとモノローグしているので気持ち悪い。

 

クロノから見て、フィオナは面倒な娘としか見えないと思う。拒絶してしまったリリィを放置して直後にフィオナと付き合い、肉体関係を得る、とかありえない( 一一)

 

サリエルを抱いた以上にリリィを裏切ってると思う。その辺りのシナリオが矛盾しているし、フィオナに魅力を感じなかったのでストーリー上、サリエルが虐げられているだけ、に見える(=_=)

 

なんか、前にも書いたようなデジャビュを感じるが…。

 

ネルはクロノでオナニーしてただけで、他の罪状も無く、ヒーラーとして人助けしまくってるので、同情の余地は十二分にあると思う。

 

リリィはホムンクルスを操るという風に落ち着いたのでまだ忌避感が薄いし、クロノの意に沿うように賢明な様子が見えるのでまだ好ましい。

 

フィオナは魔法の威力以上に無神経さ、他者への関心の無さが、彼女を孤独たらしめているし、自業自得だと思う。だからこそ、私はフィオナというキャラが嫌いだし、フィオナを愛しているとかモノローグで言うクロノも「いや、おかしいだろ」と思い、嫌いになる。

 

リリィと再会後にリリィの気持ち(異性として愛している)を知ってから、直ぐにフィオナと肉体関係を結んでしまったという方がサリエルを救うためにHした件よりも無神経に過ぎる。

 

フィオナは恐らくメインヒロインの一人だと思われるので、ヘイトが集まるネロなんかより、余程、作品を貶めていると思う。多少の正義感や良心は失うべきでは無かった。

 

ネロは王族という立場さえなければ正統派主人公で描写も格好良いと思う。あからさまに権威を自然に振り翳している感があるのが癪というだけで。ヒールキャラとして描かれてると明らかなのでそうイラつくことは無い。

 

性欲を爆発させているネルと比較してフィオナの何が違うと言うのか…(苦笑)お前も発情期だろ、と( 一一)フィオナは意図的にクロノを思考誘導している点で印象は悪化する。

 

シナリオに合わせるためにクロノが馬鹿になってしまう点もいただけない。クロノ思考停止である。個人的にリリィにはフィオナを蹴散らしていただきたい。

 

リリィを拒絶したように、フィオナも拒絶すべきだろう(´-ω-`)でないと筋が通らないと思う。その辺りが気持ち悪くて後感が悪く、作品に対する評価を落とす。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

異世界系の死に方の1つ

孤独で惨めなニートか底辺ブラック社畜が転生して、

家族と子供と孫に恵まれて、それなりに満足して死んだ(end)

 

という「なろう」作品を少し読んだけれど、なんというか、20世紀的幸福論かなぁ、みたいな。

 

そもそも孤独で惨めなニートあるいは底辺ブラック社畜という設定が、最早古いのかもしれない。そして、大抵「家族と子供と孫に恵まれて」という。

 

端的に言うと「コミュ症が非コミュ症になる」

あるいは「底辺が(底辺の想像上の)リア充になる」

 

というテンプレの物語であることが多い。そのリア充像というのが、「家族と子供と孫に恵まれる」ことだったりするわけで、その「それがあれば幸せ」と思う条項が、なんか古いなぁ、と思う。

 

発達障害者と関連付けて考えてしまうが、僕らは基本コミュ症なので、友達・家族・伴侶・子供に恵まれて、自分の役割を上手く果たせていて、過剰に人から必要とされており…云々という、胸焼けしそうな幸福像を描いているような気がする。

 

私は障害者として孤独であることを良しと思うので、コミュ症にはコミュ症の幸せがあると思う。そして、コミュ症の感性というのは、非コミュ症の感性とは相容れない。

 

友達・家族・伴侶・子供、云々はコミュ症においては祝福では無く呪いになる(かもしれない)。その場合、その性格を持った人間の幸福の条項は、そうでない人間とは異なる。

 

「他人と同じものを持っていれば幸せ」とは限らないということである。少なくとも私にとっては、友達・家族・伴侶・子供、云々は普遍的にそれによって幸せとなる条件では無い。

 

こうした物語の大抵の矛盾は、主人公が「友達・家族・伴侶・子供」と言った他人によって幸せになり得る人格で無いにも関わらず、それを得ることを最終的な物語の目的としてしまうことにあると思う。

 

底辺転生系の彼らの多くは、他人を幸福のために必要としていない。しかし、そのことを彼ら自身が分かっていない。発達障害者も他人を必要としないにも関わらず、他人が必要なのだと思い込んでいる節がある。

 

少なからず僕らにとぅてライフラインとしての繋がりは必要だとしても、情緒的交流は労苦に過ぎないのかもしれない。

 

だから、私がコミュ症が多くの(幸福的な)人間関係を築くハッピーエンドに不快を覚えるのは、彼らが情緒的な交流を望んでいないことに依るのではないかと思う。

 

まぁ、その一つの証明は大抵の主人公が自分一人で大体の問題を解決できるほどの能力を有していて、無双できることだったりする気がする。

 

彼は助け合う必要が無い能力を有するが、転じて、つまりは一人で何でもできる能力が欲しい、ということであり、あるいは「誰にも頼らずに完結したい」と望んでいるということである。

 

彼にとって他人は役に立たない。つまり、必要無いのである。

別に全ての物語がそうだとは言わないが、とりわけ底辺の人間が成り上がる物語の多くは「主人公は自分一人である程度どうとでもしていける人間になってしまう」。

 

協調を描く描写は薄いものが多いような気がする。仮に最終的に「家族や友人、子供に囲まれて幸せな人生でした」とする場合、その関係性に対する主人公の関心をメインに持ってくるべきだろう。

 

それは他者とのコミュニケーションに対する見解等、そういうものである。けれど、その描写が少ないのに「最終的に何故か、それを持っていたから幸せでした」というのは腑に落ちない。

 

『無職転生』なんかは「スプーン乗せた生卵を落ちて割れないように道を進み続ける」みたいな話で、生卵を割ったら絶望しかないのである。そして、生卵自体に価値があるというよりは、生卵を割ったらダメなのだ、という強迫観念に縛られている風に思える。

 

敷かれたレールから一度でも落ちたらダメなのだ、とかそういう風なヒステリックさを感じる。それを以てして、一つも取りこぼさない言い訳を「ご都合主義」というタグに張り付けていたりするが…。

 

私的には、そういう形で「幸せになりました」というのは、つまらない、浅い人生だなあ、という感じである。艱難辛苦を噛み絞めて、結果として、どう思ったのか…みたいな結末なら未だしも、噛み絞めたらば『シンデレラ・ストーリー』になってしまうのは子供騙しと思う。

 

まぁ、一部の富良野作品みたいに皆殺しにしろという訳では無いけれども、荒波に飲み込まれている割に主人公の周りだけ被害無さすぎでしょ…という感じである(=_=)

 

特に底辺主人公であるほど、完璧なご都合主義ストーリーをやってしまうと、どんな痛みも失望も許容できないセンチメンタルな人間になってしまう気がする(=_=)

 

=「大切な人間はみんな守るんだ!」と言って、物語上もそうなるわけだが、それは「大切なものを失うことを許容できない人間」でしか無くなるわけで。あるいは「失敗を許容することができない人間」であることを語ることになる。

 

底辺系の人間のやり直しにとって、完璧の反対は、失敗への恐怖である。失敗体験を重ねた人間は、成功を願うより、もう失敗しないことを願う。その結果として、行動が抑制され、精神が抑圧され、行動や考えに影響を及ぼす。

 

そういう人に対する大雑把過ぎるカバーストーリーが「何をやっても失敗しない」という主人公補正のついた『シンデレラ・ストーリー』である。

 

まぁ、だから、底辺系主人公を主役にする場合、ストーリー上で更生させねばならない、という難しい手間が掛かるし、それを書けてると思う作品は少ないんじゃないかと思う。

 

個人的に好きなのは、悪役令嬢系で、失敗人格に成功人格がとって変わって、逆転劇を起こす、という系の物語である。まともな人格者が性格破綻者に転生して取って代わることで「更生させる」という手間が省ける。

 

劣等感だらけの主人公が馬鹿魔力で他人から信頼を勝ち得てハーレムを築くよりは、説得力がある、というか( 一一)

 

その、まともな人格者ならば、別に嫁や子宝に恵まれても「ふーん」って感じだけれど、コンプレックスだらけの劣等感のそこに居る人間が(幸せな)ハーレムを築いても「そんな馬鹿な…」って感じである。

 

大抵、なんかの大家族みたいになるのが目に見えた話であり、根本的な頭の悪さはどうしようもないと思う。

 

そして、だからと言って「次こそは人並みな人生を」と言って、発達障害者を転生させたところで、発達障害者なのでどうしようもない。

 

コミュ症をそのまま転生させるのと同じで、発達障害という人格を転生させても、それは発達障害を抱えているので、その時点で障害者である。惨めな人生だったと語る主人公は多くの失敗体験なり心的外傷を抱えて異世界に行っている訳で、その病気の根本的な治療がなされなければどうしようもないと思う。

 

「馬鹿は死ななきゃ治らない」と思う。そして、馬鹿を治そうとする話は読んでいてあまり面白いものではない(苦笑)

 

底辺救済の物語をまともに書くなら、それは読んでいて苦痛になるだろうと思う。そして、大抵の場合、まともにやっても、そんなには報われるわけも無いのでエンターテインメントとして、あまりパッとしない気がする。

 

「そんなに報われないでも幸せだった」のハッピーエンドのささやかなラインだと考えられたものが「家族に見守られて死んだ」みたいな時代錯誤な観念だったりするのだろう( 一一)

 

「家族に恵まれた」とか。まぁ、その手の終わらせ方は言い訳臭いラストだなあと思う(笑)

 

なんか研究者が研究を突き詰めて、ここまでは出来たけどもう寿命か、やれやれ…みたいな最後の方が好きだな。

だいたい、家族か伴侶かに看取られて、人間関係に恵まれた幸せな人生だったなーとか、物語的に面白味が無いですよ。なんか英雄みたいな活躍したとしても、そういう感想で死ぬわけじゃないですか。

 

「一般人か!」ってツッコみたいわ。

 

人生で色んな偉業を達成してきた主人公に目指すべきものとか通すべき筋とか人生の目標とか、大抵掛けていて、「孤独じゃ無い悔いの無い人生」とか大雑把な希望が最初にあって、最終的に「家族がいたので幸せでした」とか凡庸な感想で終わるんですよね…。

 

その割に魔王とか邪神とか倒してるわけじゃないですか。もう少し、立場に見合った違う感想あるでしょ。みたいなね。

 

それこそ研究者的な心残りじゃないけどね。なんか「家族が」云々というのは最後まで底辺臭が抜けてないんですよね(=_=)英雄になって、ハーレム築いてまだそんなこと言ってんの?みたいな…。

 

結局、それって、自分、三種の神器とか持ってるから幸せだよね、みたいな感じで。「家族」というアイテムを持ってるから「自分は」幸せだった、という話で。

 

なんか、それなら童貞で不幸なやつは、風俗に行って童貞捨てた瞬間に死ねば幸せな死に方でしょ?ぅて感じ(´・ω・`)

 

まぁ、そういう雰囲気の作品は拙い気がするな。

個人的には、復讐系とかも嫌いでは無い。あと人外転生系とか。

女主人公も結構好きですね。ハーレムになりようが無いから。

それ系で考えたのだけれど『ドラえもん』とか男たちの中に紅一点の静香ちゃん的人物がいる作品って、逆ハーレムですよね(´・ω・`)

 

あぁ、静香ちゃんって逆ハーだったんだなぁ、と思って、その視点で『ドラえもん』を見てみると面白かったですね。

 

リアルな話をすると、家族に見守られて死ぬ人って普通に減っていて、病院とかで死ぬのが普通なのかなーって思いがありますね。あとは、急死したりとか。老衰って死因は殆ど他の要因に因るんじゃ無かったかな…。

 

 

それにしても、龍、魔王、邪神とか安売りされすぎじゃないかな。それと人間強すぎ(´・ω・)剣で龍とか倒せるわけ無いでしょ…。そういう意味でも人外転生は有りだと思うんですよね。

 

こう…ゴジラに人間が真っ向から挑む感じの話が多いですよね。そこはもう同じスケールにならないと話にならないんじゃないかなー?みたいな。

 

いや、でも核ミサイルとか撃ち込むイメージなのだろうか…。

 

冒険者ギルドとかある場合に、A級でなんか大陸破滅させる怪物を倒せるとか、おかしくね?って思う作品があったり(´・ω・`)

 

そんな世界でよく村人とか畑耕して生きてるなぁ…って感じですね。長期的視点を持って生きる気になれないでしょ(゜-゜)

 

フェンリルとか、結構、学校の裏山にいるレベルでしょ。

 

まぁ、ジュラシックパーク的なティラノサウルスクラスを龍種と考えると殺れなくもないのかな…( 一一)マンモス狩る感じで。

 

海だと、シャチとかかな。

 

まぁ、そう考えるとジュラ紀に中世を持ち込めばいいのか。それで、ちょろっと魔法設定しとく、と。

 

魔族=1ティラノ。

人族=1/10ティラノ。くらいに考えると落ち着くだろうか…( 一一)

 

…農村とか無理じゃね、と思うな。そんな世界じゃポイズンでしょ。人類を壁の中に隔離しないとダメだと思うなぁ。

 

いや、でも。邪神ってなんだろ…魔王は、まぁなんか生物枠に収まるとして、なんで邪神とか倒せてるんだろ(=_=)倒せない作品もあるけどね。「人から神になりました」って展開多いですよね。

 

「永遠の寿命を得ました。めでたし」って言われてもね。なんか、その後、修羅場だと思う。

 

もうね。邪神とか出てくると、村人とか冒険者とか何だろ?ってなるから。邪神に勝てるような人がすぐ傍でフレンドリーな感じで話しかけて来たら嫌だな(=_=)

 

ほら、不発弾持った人が傍に居たら嫌でしょ。いくら強くても、ちょっと強すぎて引く。そんな人に話しかけられる人間(村人とか)のメンタルはかなり強いと思う。

 

もう星とか銀河とか壊せるレベルの人は地球にいちゃいけないと思うんだよね(=_=)

 

そう考えると主人公とか敵のレベルは常識の範囲内に収めて欲しいな…とか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

異世界転生系の不満

『魔導書を書く人』という作品を読んだが、気になったのは、主人公が拳骨によって矯正されたので、教え子にもそうする、という態度。

 

体罰教師の考えと一緒である(=_=)「自分がそうされて良かったから他人にもそうする」というだけの筋の通らないことをしている。

 

一昔前の道徳観というか。そこから進歩しない。『先生』になろうとするのに、その辺りは描かれていない。作者の技量的に書けない領域なのだろうか。人を頼れというのに、最後まで自分だけで何とかしようとし、かつ家父長制的である。

 

その辺りは『無職転生』と似ている。

 

私が思うのは「引きこもりや脱落者が転生して勇者になる」という物語の多くの引きこもりや脱落者は「発達障害的」でそれ故に「心を開く」行為では救われない。にも拘らず、物語的には心を開いたから友達が出来て、改心したから超強化されて、悪徳貴族以外の誰からも好かれる人間になってしまう。

 

発達障害者のためのシンデレラストーリー」みたいな感じであり、要するに子供騙しであり、そこに気が付けば興醒めになる。

 

コミュ障に必要なのは「心を開く」ということでも「他人を信頼する」ということでも無い。

 

「それが出来れば苦労しないよ」というのが当事者の想いだろう。その辺の乗り越え方の説得力が無い作品だらけ、というのが割と転生もの好きの私の感想である。

 

過去にも書いた記憶があるけれど、一般人か天才が転生してチートするのが最も説得力がある。要するに「人生やり直し系異世界転生物語」は私は好きじゃないのだ。

 

それなりに優秀で道徳観念もある人物が転生して異世界物語に巻き込まれる、というなら私も「いいかな」と思うやもしれない。

 

敢えて、脱落者を失敗作と呼ぶとすれば、転生して過去の記憶を持つことは呪いだろう。生まれ変わりたいと思う時、全てが根源的に解体されなければならない。それ故の死というのであれば救いもあるだろうが。

 

閑話休題

 

それにしても、なぜ異世界人は異世界を日本風にしようと必死なのか…(笑)流行の「日本サイコー」系本の系譜のように、現代日本AGEである。

 

ある作品では、異国人に「寿司」を振舞っていたが、なぜか食べる人全員が「素晴らしい」と言う。私は寿司が嫌いだし、生食に忌避感を感じる人もいる。ましてや異世界だというのに、全員が「素晴らしい」と感じるわけないでしょ(苦笑)

 

他に「酒」とか。作者(主人公)が好きなものは異世界人全員の舌に合わなければならないのだろうか(=_=)