LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

ゲームらしいゲーム うたわれるもの 二人の白皇感想(ネタバレ)

うたわれるもの 二人の白皇 をクリア。非常に楽しめた。

ADVにシミュレーションバトルが入っている作品なのだが、シミュレーション部分の作り込みが凝っていて、楽しめる。個人的にはスパロボより面白いし「攻撃の際タイミング良くボタンを押すと会心」のようなシステムも楽しめた。尚、入力のやり直し、というシステムもあり親切。

 

「FF8」のスコールの戦闘でガンブレードを振る瞬間にR1を押すとクリティカルになる、みたいなやつである。シミュレーションRPGに非常に相性は良いと思った。

 

戦場のヴァルキュリア」なんかも、シミュレーションRPGにアクション要素を加味しているが、やはり相性は良いように思う。

 

まぁ、ムネチカの試練や夢想幻舞等は、難易度が高く、例えばクリティカルアクションを全て成功させる必要があるなど、厳しい。その辺りをもう少し緩くして貰えると自分のようなアクションが苦手な人間でも楽しめるように思えた。

 

自分が好きだったキャラクターを上げてみる。

1.オシュトル(ハクトル)

2.アンジュ

3.ムネチカ

4.ウルゥル・サラァナ

5.ネコネ

6.ルルティエ

7.マロロ

8.クギュ

9.オウギ

10.ヤクトワルト

 

まぁ、そんな感じ。逆に「クオン」はあまり好きになれなかった。シナリオにケチを付けるとしたら、ハクトルさんが、ハクバレしそうなことをし過ぎたこと。特にクオンはハクだと悟らせるようなことをし過ぎ。

 

私としてはオシュトルを演じるハクの葛藤やネコネが2人の兄の生き様に罪悪感を感じる部分などをもう少し細かく描いて欲しかった。ネコネが眠れなかったり病んでたりした部分は2回だけ描かれたきり、特に回復に至るまでのイベントがあまり緻密に描かれなかったし、ハクが死んでいく部分もはやり描写不足かな、と思った。

 

ADVパートはハクの外面と内面が描かれる部分が大半を締めていて、声優さんは大変だな、とつくづく感じた。実際、クリア後の声優のコメントではゲームの仕事は大変だと語られていた。近年はフルボイス化がほぼ必須で台詞量が膨大になるからだ、と思う。

 

それでオシュトル(ハク)なのだが、こう内面を描いた際にハク的な部分が出てきて面白かった。特に秘奥義関連のイベントは必見であろう。とはいえ、後半は仮面(アクルカ)の力により、多分秘奥義も普通に使えただろうし、本物のオシュトルも越えていた気がする。

 

ハクトルさんを支えてくれたネコネやウルゥル・サラァナは好感度が高い。特にウルゥル・サラァナは「主様」に仕えていたので、誰よりもハクという存在を理解していたし、だからハクは自分の名が違っても「自分は自分」ということを忘れずにいられたと思う。

 

ネコネはハクが自分を殺してオシュトルになってしまうことに心痛を覚え、また実兄であるオシュトルが居なくなってしまうような気がして更に追い詰められていたような気がする。ネコネを戦犯と呼ぶ人も居たが、何というか、男を庇って、逆に男を殺してしまうのは、様式美である。ガンツの泉なんかも彼女を庇って死んでるし、そういう死に方は死に方の一つの様式である。

 

ハクにとってはネコネは義妹であり、ネコネにとってもハクは義兄であるということで、実である必要は無い、というのは「うたわれるもの」のテーマの一つだと思う。

 

それはウォシスにとってもそうであったし、クオンにとってもそうであった。まぁ、あとは感情が作られたものであっても、それが己を支えている、とか、割と考えさせられるシーンが多い。

 

好きなキャラランキングでハク(オシュトル)が1位なのは、やはり格好良いからである。特にラストステージのハクは非常に格好良かった。そしてやはりネコネは庇われる、という。アークエンジェルのような妹である。

 

ウルゥルとサラァナは全ては主様のため、というブレない部分が良い。ちなみに魂の色関連のイベントは面白かった。土色なの…という。

 

アンジュは非常に快活で、帝として堂々としているところが良かった。クーヤと比べる人がいたが、重責を負っても潰れない強さがアンジュにはあり、まぁ、それは帝の器として作られたからかもしれないけれども、芯の強さを終始貫いたアンジュは好きになれた。泣きながらも進む強さが魅力的である。

 

「聖上だが、先陣を切る」という勝手なイメージを付けたかったので、戦闘では出来る限り参加させたが、足が遅く、敵まで辿り着けないということが多い。キャラ的にはカルラを継いだ感じで超火力であり、後半の防御力やHPの高い敵に対しては非常に有効であり、

イメージ的にも、何というか「皆の上に立つ帝」という感じがした。

 

逆にクオンは好きになれなかったが、それはアンジュと比べた時に、皇女としての責務を果たしてないにも関わらず、アンジュやオシュトルを痛めつけた、辺りが原因だと思う。

 

前作、偽りの仮面はアニメのみ見たが、皇女としてのクオンは出る幕は無かったし、クオンが責任を語るような部分が少なかったから、そんなに悪感情を抱かなかったのでは無いだろうか。

 

今作、二人の白皇では、皇女クオンが出てくるので、鼻につくというか、声を変えたりとか、重圧的というか、そういう部分が嫌いになった原因かなー、みたいな。

 

あとオシュトルに対して当たりが厳しい、という。ハクの死に関してオシュトルが生きていたなら、彼の死を悼んだだろうに、クオンはオシュトルに対して鉄槌を下した訳で…しかもネコネの前である。

 

このシーンはやらない方が良かった。ネコネはクオンを恨んでも良いと思う。みんなオシュトルの死を軽く扱いすぎである。オシュトルの死ということに対して周りのキャラクターが淡白であることが、個人的には薄情に思え、ネコネなんかは不満に思っても良かったし、オシュトルの死が忘れられていくことにハクとネコネが暗に負い目とか心痛を感じていても良かった。

 

前述したイベントやトゥスクル関連で「クオンは自分勝手」というイメージがやはり付いてしまったかなー、と思うし、そういうことで(自分の中では)ヒロイン闘争からドロップアウトしたのでキスシーンは要らなかった。(高い能力で主人公一行を支えたのは確かなのだが…)。

 

偽りの仮面までならば、クオンを恩人とハクが思っても良かったのだが、二人の白皇では「国へ帰れ」という感じであった。結局のところ、クオンはハクのストーカーであるだけだ、というのがよくわかったので…。自分にはハクがいるからヤマトを助ける、ように見えた。

 

まあ、だからといって、最後にクオンを救いに来たハクの株が落ちるということもなく、それよりもハクという人間が大分懐の広い人間であるなぁ、と自分は感じた…というかね。ハクからすればクオンは恩人なんだなぁ、とハンカチを噛み締めながら自分は納得するしか無かったりもするが…。だがエルルゥと比べてあまりにも器が…。

 

最後の場面はやはりクオンがいたから、ハクが復活できた部分もあるだろうし、逆説的ではあるが。とはいえクオンはやはりハクのことしか頭にない…。対してハクはクオンを含め全員のために、という感じに見える。

 

まぁ、ハクオロさんの仮面の影響とかで恐らくは、クオンの望みに反しない状態でハクが助けに参じることが出来たのだろう。

 

そのシーンで背中を見せた辺りがやはりハクさんの見せ場であった。そして、能力が酷い…(褒め言葉)というね。あの辺はアニメでは描けそうに無い名場面だと思う。

 

ラストのハクオロさんの力を全部持っていったハクさんの「休暇貰うわ。お前は仕事しろ」という感じの台詞も実にハクさんらしくてよかった。ハクオロさんもイケメンだったし、まぁ、なぜコンタクトが取れるようになっていたのか、とかわからない部分もあったが…。

 

なんというか、ハクはハクオロが人体実験されることの切っ掛けになってしまっていたのかな?まぁ、そういう意味ではハクオロの役を奪うというのは贖罪なのかもしれない。とはいえ、ハクはハクオロと違い、割と自由度がある感じがしたが…。

 

ハクオロさんについては声優のコメントも、ハクオロさんとして喋っておられたので必見である。(他の声優さんは地で感想とかであり、キャラとしてコメントされたのはハクオロさんだけであった)

 

最終的にハクは何になったのか分からないが…。まぁ、いいや。

 

以前、本好きにてパートナーを当てたが、今回はネコネ推しだったのだが、まぁ、あれである。兄さまであるハクと結ばれるルートはネコネには無かった…添い寝してくれただけ…か。時点はウルゥル・サラァナということで。これは有りである。ただ運命的な何かによって宿命付けられたアレであるので、結局のところ二人はメイドのようなものである。

 

二人は少なくとも片方は子を宿すことを求めているので、ハクとそうなる可能性は少なからずあると考えるべきである。ただ最終的にハクはマシロ様になったと思われるので、個人的にはクオンが復活させた際に精霊的な何かになっており、そのハクの複製的な存在に生殖能力があるかと問われれば疑問であり、血を残すことは出来なさそうである。

 

そもそも再誕したハクが以前のハクと同一存在であるかどうかさえ、定かではない。

 

その他コメント

ネコネ:理想的な妹キャラ。ヤンデレていたがいつの間にか完治。今は眠れているのだろうか。兄さま呼びであり、ルートに入るには禁忌を侵さねばなるまい。

 

ウルゥル・サラァナ:運命。尽くしてくれるだろう。彼女たちは有能な主に仕える運命にある…。可愛いし、エロいが、下半身はあまりカメラに映らない。R18であれば…実に惜しい。エロ可愛い全肯定してくれる従者、というなかなかお目にかかれない属性を持っている、実に希少価値がある存在。全肯定なのは予め定められているからで、決して駄目人間を肯定してくれるものでは無いだろう。あくまでも彼女らが使える主は常に有能である。

 

ルルティエ:家事能力の高い嫁。だが16人の兄や恐ろしい戦乙女である姉が付いてくる。知能が高く太い鳥も付いてくる。そして、ルルティエは腐女子である…。とはいえ、二人の白皇では、腐女子の面は見せず、尽くしてくれた。有能であり声も可愛い。

 

クギュ(カミュ):クギュであった。素晴らしいクギュ。喋るだけで麻薬のような中毒性を発揮する。アルルゥはもう幼女分が足りない…。年月が奪い去ってしまったのだ、ロリを…。だがクギュはクギュであった…流石である。

 

マロロ:真の友であるが前作をやっていないと一見敵っぽい。

 

…シミュレーションパートに対するコメント。

有能な攻撃について。

オシュトル:攻撃力低下(一撃目で止める)

ルルティエ:防御力低下

キウル:素早さ低下

ネコネ・双子:呪い(回復・気力回復無効)

クオン:攻撃力UP

ムネチカ:強化解除・挑発

 

その辺を押さえておけば、戦いやすいかな。

特に攻撃力低下は何かと役に立つ。

 

 …

最後のみんなに声を掛けていく場面は正直要らなかったと思う。3年B組金八先生を思い出す。あるいは前作、うたわれるもの

その2(ネタバレ注意)

結論:スパロボをやると人間に対する誤解が生じる。

 

とりあえず、Vについては、

・主人公の頭が悪い

・敵が完璧な機械であるにも関わらず、愛を知らない

・愛を知らないから負ける

・敵が仲間になったが明らかに何百人と殺した重犯罪者である

・それにも関わらず逮捕されない

 

といった、リアルじゃない、まさにスーパーな思考を行っているため、リアルじゃない。だがスーパーを謳っているので許されるのかもしれない。

 

私は女性主人公を選んだのですが、彼女については、

・突拍子もない

・明るいが頭が悪い

・AIを人間扱いする

・姉気取りをする

・その場の考えだけで動く

・精神論だけで動く

 

など、自分の名前にしなくてよかったな…と言わざるを得ない。その頭の悪い子もラスボスにいちゃもんを付けて、波動砲を突きつけながら「お前は愛を知らないから負けるんだ」と言うのである。

 

ラスボスのAIもAIで、その意を汲んで愛は形而上学的でファンタジックで言葉に尽くせない概念だ、ということにして、やられてくれるので始末に悪い。

 

超文明なら愛なんてものは既に研究されつくされていて当然である。そもそも自ら超と付けているだけで、気を遣ってくれているのかもしれない。普通、どこまでいっても文明は文明である。文明はどこかで終わらない限り、その時点での文明を超越し得ないからである。また、例えばタイムマシーンがあって、過去・現在・未来に行き来出来る場合の、現在から見て未来の技術を「超」文明ということは可能だが、未来に行ききった(技術的発展がもう無い)現在文明は、未来が無い文明がとりあえず超文明を名乗り得るとは思うが…実際、そういうことは無いと思う。

 

スパロボのシナリオは、所詮…という感じもする。戦争系のゲームで一番良かったのは、初期のGジェネだろう。アクシズVに関してはジャンルが違うので比較はしない。Gジェネにしてもifや時代を越えて参戦してくるごった煮的システムを入れてしまったことで、過去の歴史再現シナリオには最早帰れない時点で過去作に勝てない気がする。

ただ改変にしてもリアリティがあれば許容出来る場合もある。

 

まぁ、大凡、原作再現シナリオゲームこそが至高と、私は思うので、アニメを見る代わりに大雑把にストーリーを知りたいなみたいな、感じではGジェネF辺りが最高であり、そこに今どきのアニメーションやUIを組み込んでくれると良い感じになると思う。今Fをやると、ifシナリオで無闇にご都合主義を入れてしまうことで最終的に、石波ラブラブ天驚拳で全部クリアみたいな、今回の愛こそ全て、技量とか関係無いから、みたいなスーパーなシナリオになってしまうのは残念なところである。

 

スパロボVの戦闘アニメーションについては、やはり進歩しているし、個人的に良かったのは、Zやνガンダム、ヤマト、ダナン(フルメタル・パニック)、マイトガインのダブル動輪剣辺りのアニメーションが良かった。逆にエヴァ13号機や、ダイターン3のザンバー、ザンボット3等、分かりにくかったり、くどいと感じるものもあったが、そういうアニメは最初だけみてスルーした。結果的にレーヴァテインを駆る宗介がエースになった。ボクサーを一発撃つだけ、みたいな…。ラムダ・ドライバ時と通常時のアニメの演出が変わるのも良い点。

50機にエースプラウドというスキルを付けた際にエースになるというシステム上のエースではなく、主にボスを削る役としてのエースに宗介がなった。あとはルリかな。盛ったのは…。あと、おすすめはマジンガー系の装甲を最大強化して援護防御を付けること。その周辺に運動性の高い機体を置いとくと、結構、保険になる。

 

宗介の攻撃は気力200、アタッカー、ラムダ・ドライバ、サイズ補正差無視、再攻撃から繰り出され、良い時は、6万くらいのダメージになったりした。あとAIが熱血を覚えるので、効果があるかは微妙だが、熱血と魂を重ねられる。また戦術待機により、二回行動する。強すぎるので削り役に向かず、ボス戦専用みたいな感じなので、戦術待機で置いておくのに向いてる。

 

ナデシコは最大改造でグラビティブラストがだいたい1万を超えるし、燃費が良いのでそんな攻撃を打ち放題だと思う。また援護攻撃と援護防御を付けることで盾になり、追撃になり、指揮範囲(+電子の妖精)の恩恵も受けられると良いこと尽くめである。戦術待機もとりあえず付けてみた。

 

他のおすすめはブライト艦長の駆るラー・カイラム。クロス・アンジュから参戦のサラマンドラ様。この二人は周囲の機体の気力を毎ターン上げてくれる地味ながら効果的な補助効果を得られる。

 

主人公機は一応全改造したのだが、主人公の性格が好きになれなかったのであまりスキル改造はしなかった。あと主人公機のアクションもあまり好みでは無かった。ミサイル系が私は好きなのだが、一番良かったのは、Zのグレネードランチャーかな…。地味だが、発射から直撃までの時間が短くかつ兵器としての説得力があるというか…。

 

νガンダムアムロを外してリアルガンダム系の人たちの撃墜数稼ぎに役に立った。勿論全改造で、あとはエンブレムを付けて常にポイント2倍にし、希望の精神コマンドを付けて、1ターンに5回くらいの行動を可能にして戦わせた。νガンダムの戦闘アニメはスタイリッシュなので何回も見た。バズーカの打ち方とか、驚く。構える必要も無いのか…。ちなみに最大攻撃力もかなりのものになる。おおおおおお!

伊達じゃない。

 

閑話休題

 

平行世界、多数宇宙みたいな分岐世界系にして、無理やり作品を同一世界上に多数出演しなければならないご都合を付けないといけないという厳しいルールがあるが、そのルールのために、こうずいぶん昔の作品の頭の悪い事情で地球に侵略してくる敵とかが、参戦してくるのもどうかと思う…。

 

スパロボスパロボであるために誂えた設定の割を食らってるのがボスキャラでは無いだろうか…。みんな愛を知らないからやられた、ということになってしまった…。エンブリオさんとか、戦闘アニメは、なんかガンダムWのリリーナのEDみたいな微妙にモデルっぽい格好いいものだったのに、シナリオ上やってることは、どうみても愚かで哀れでエロ同人にいそうな感じであった。神のような設定なのにやってることが明らかに駄目な人選によるハーレムの形成とか…。

 

とりあえず世界をまたにかけて暗躍するにしてはしょっぱい残念な性癖のあるボスであり、それ故、ヒロインの殆どから死体蹴りを喰らって退場するとか、哀れでしか無い…。

 

生理的に無理とかモラハラですよ。敵だからモラハラして良いのか、ということをスパロボには考えてほしいな…。とりあえず、彼のような哀れなボスキャラを増やしてはいけないと私は思う。味方であるはずのレナードにも最終的に蹴られた…。キモいって。酷すぎる。道徳性も格好良いボスキャラを作って欲しい。仲間になる必要はない。

 

やはりロリコンでマザコンの疑惑のあるシャア総帥に出張ってもらうしか無いのだろうか…。

 

プレイヤーとしては、何というか、いじめの現場に居合わせて、いじめられっ子を罵倒した挙げ句、自分の分身たる主人公まで、そこに参戦して、最終的に精神コマンドで物理でフルボッコ…という状況に出食わす、というのが信じられないが実際に起ったことだ…。いじめられっ子の自業自得と言う人もいるだろうが、いじめられっ子の自業自得だとしても虐めてはならないというのが現実のルールである。

 

そんなことも知らず勧善懲悪を騙る酷いシナリオが良シナリオだったとか、そういう評価を受ける事自体がもう、スパロボのシナリオにみんなあまり期待していないんじゃないだろうか…と私に思わせた。

 

ガンツの西君が受けた仕打ちみたいな感じ…といえば分かるだろうか。西君は、最初自業自得であるものの、ネコ殺してたキモい、と言われ、最終的にみんなに胴上げされて、教室の窓、恐らく3階?(2階?)から放り投げられた(普通は死んでる)ちょっと普通はあり得ない状況である。

 

エンブリオだけじゃなく、色んなボスがだいたい精神論で口撃された挙げ句物理的に沈黙させられる…という感じで、私としては敵側に対して正当性を持たせた方がシナリオは楽しいと思うのだが、残念ながらあんまり正当性を無いことにしないと、参戦作品のパイロットたちの頭の残念さが露呈してしまうから出来ないのかもしれない…。

 

つまり、雑多なキャラに適当なセリフをライターが想起して描きにくい、みたいな事情があるためなのでは無いのだろうか…。まぁ、だからといって、そのために、なんかとっても頭が悪そうなシナリオを突きつけられるのはどうかと思う…。銃を向けて「あいつNTじゃないからわからないんだぜ」とか言われる敵キャラが…。

 

そんなシナリオになるならば、もう定評のある原作の再現でいいよね、みたいな…。うん。色んな世界をごった煮にした現場で、舵を取るのはやはり難しいのかもしれない…。

 

若干、ガンツっぽかったかもしれない…。ガンツも最終的に自称超文明との戦いで、愛は世界を救う的な話だったような…。タエちゃん…。

 

ストーリーの感想を少し補完しておくと、ボゾンジャンプで時空を越えたり、3つの世界を行き来したりしなければまだ良かった…。とりあえず、ヤマトがワープでイスカンダルを目指す、と言っている時点までは良いと思った…。そのまま一直線にイスカンダルまで行ければよかったのだが…寄り道しすぎた。

 

閑話休題

 

最近ニーア・オートマタをやって思ったのは、オート戦闘には勝てない、ということですね…。私はEasyでプレイしたので、キツイ戦闘は全部、自動戦闘に任せたんですが、まぁ、まず負けないです。

 

これで思ったのは、AI制御で自動化した機械が最強になる、ということで、パイロット要らないよね、という話ですね。パイロットが乗ることで機械兵器は明らかに弱くなると思う。ゲームでは勇者になれても、それは不条理な条件を付けられずにプレイできるからでしか無い。

 

FF12ガンビットみたいなものをもっと突き詰めていけば、というか将棋やチェスのマシーンに人間が勝てなくなるのと同様のことが機械制御によるマシーン操作(戦闘ロボット)でも言えると思う。

 

エヴァで言えばダミープラグにしとけばok…と。サイコフレームとかラムダ・ドライバが人間でしか扱えない、みたいな設定でなんとか勝ってるけど…。愛もそのうちの一つですが…。

 

結論としては完全な機械に対して人間は勝てない、という話である。処理能力が違うので。ただ問題は命題の立て方なんじゃないか、と想う。ルールあるいは命令が無ければ機械は動けないので、どういう命令を下すか、という思考をする機械が必要になって…と、そういう過程を繰り返す。現代は自らプログラミングするプログラムとか、その辺までは研究されている模様である。

 

自ら思考して行動に移せるコンピュータを作って、そこに手足となるドローンとか、身体なんかを与えて、自ら行動に移せる状況を作り上げれば機械の方が優秀な労働力になるだろう、と考えると何時かは、そういう時代も来るのかもしれない。

 

ただ現代はまだそこまでには至っていない。家事ロボットにしてもルンバが精々である。目指すべきは、ハリーポッターとか魔法で片付けするくらいのロボットだろう。

 

まぁ、そういう時代に自分が生まれなかった、という話である。私が生まれたのは丁度、コンピュータの黎明期で、そういう話は過去にしたけど、win98辺りから、順を追って、IT社会が出来ていく過程を追っていくように生きてきた。それ自体貴重な体験であるかもしれない。

 

電話ボックスが町からなくなっていき、人は携帯を持ち、そのうちタッチ操作が出来るスマホへと変わった。またVRやAR技術も最近では取り入れられるようになってきた。あるいは、グーグルでは自動自動車を開発したり、あるいはドローンの研究は、戦争を遠いものにするのかもしれない。

 

まぁ、今のVRはお粗末な技術であるが、ARの方が現実的にやれることが多いような気がする。要するに拡張現実である。

 昭和生まれというと、色んなことの黎明期を見てきた世代だと思う。とは言え、私が生きている間には、未来的なテクノロジーを見ることは無いのかもしれない、とも思う。

 

閑話休題

 

ゲームに関して思うのは、PS4やスイッチ辺りになってきて、大体、スペックとしては色んなゲームを作るのに充実してきたんじゃないかなー、とか。今のマシンスペックで大抵のゲームは作れるんじゃ無いだろうか…。それとも今後も数年置きによりハイスペックな家庭機が出るのだろうか?

 

とはいえ、ゲーム史からすると、PS4やスイッチはある種の到達点でだからこそ、過去の作品がリメイクされたりHDで提供されたり、ということが多くなってきたのではないだろうか。

 

VRに関しては、画質の向上の余地はかなりあると思うが…。また、VRの可能性として全身の運動を用いるというものもあると思うのだが、現段階ではユーザーは座った状態を基本として、180度くらいの要するに前方に向いた状態でプレイすることを是というか、縛りがあるために、ゲーム側も限られたゲーム性でしか応えられていないと思う。

 

PSVRなら無線化(ブルートゥースなり)して、ベッドに座ってプレイ出来るとか、TV画面から離れた開かれた場所でプレイするスタイルに適応しないと、製作は随分制限を加える必要に駆られると思う。現状の問題は有線であること…だと思う。無線化はそう難しいことでは無いと思うのだが…。

 

vitaをプレイしていると、とはいえバッテリーの問題は結構大きいように思える。あとは疲労の問題だろうか。VRにしてもゲームにしても市場がある程度以上広がらないのは、やはりプレイが疲れるというのがあると思う。

 

ゲームは娯楽とされているが、同時に頭を疲れさせる。仕事とゲームを両立させることは、それなりに体力を必要とさせる。MMORPG等は疲れている状態でプレイするとミスを誘発する。

 

私の場合、そのような疲労感は8時間眠ったとしても晴れず、より大きい休息を必要とさせる。睡眠は8時間で十分とする話があるが、頭の疲れを取るには十分であるとは言い難いと私は考える。

 

蓄積された疲労を取ることをできなければ8時間で十分とは言えないということである。ここは話の逆転しているところで、休息を取ることが本来目的であるのに、8時間の睡眠で十分という命題を先に上げてしまうと、疲労を取るという目的に応えられる解では無いと思う。

 

疲労を取るには?

→8時間の睡眠を取る

 

という風に応えているとして、8時間では疲労が抜けない、という実感を持って、8時間の睡眠を取れば良いという解は否定される。十分であるという実感が得られない以上、8時間の睡眠という提示は不十分であり、全般に言えることではない。

 

元来必要なのは、何もしない時間とかリラックスする時間とかそういうものであり、つまりは働かない時間を持たないと疲労を完全に取ることは出来ず、慢性的な疲労状態になってしまうのではないだろうか。

 

例えば、スマホ疲労みたいな話で、スマホを弄る行為自体も、労働と言える。運動と言い換えても良いが、働くという言葉は経済的な活動以外にも、非経済的活動にも及ぶのは当然の話しである。その辺りが分かっていない人もいるが…。

 

発達障害の場合、非経済的な働いてしまうという行為をしがちであり、それで慢性的に疲れてしまっているという人が多いのではないだろうか。まぁ、現状、私はそれほど発達障害者について追っていないので他者の症例まではわからないのであるが…。

 

一般的なサラリーマンについて考えれば、自由時間は休憩しなければ疲労が残るということが多いのでは無いだろうか。私がもう少し若い頃は、自由時間をどれだけ埋めるか、みたいな時間が勿体無い精神が学問に関して必要みたいな風潮があったが、それは若さでクリアしていたようなところがあって、

 

少し歳を取ってみると、休憩することの必然性は体感的に感じるようになってきた。歳を経るごとに、必要な休憩時間は増えていくのでは無いだろうか。その分自由時間を休憩に当てなければ、慢性的に疲労してしまう、ということになるんじゃないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

徒然草~お題:ゲーム

社会の歯車になって…とか、昔は良く耳にして、社会の、仕事のネガティブな印象を振りまいていた。今にして思うに、仕事というものは、そこに自分の思考の多くを割かねばならないことであるのだろうと私は考えている。毎日、あれをしてこれをしてこうしてああして終わり。という風に8時間なら8時間、思考を割かねばならない。

 

思考と(身体的な)実行はセットであるため、その一日の大半の時間、自分は拘束される。それは「思うこと」も拘束される、ことが多いと思う。多くの仕事がプロフェッショナルなものなので、尚更、思考のスペースをそこに費やさねばならない。それが「仕事をする」「働く」ということである。寝て、働いて、食べる。自由時間は少しだし、仮に自由時間があっても、そこにプロフェッショナルな仕事を支える予習や復習の時間を取ることもある。

 

それが出来ていないと仕事が成立しないからである。慣れてもそれはそれほど変化しないのではないだろうか。継続するための勉強が必要とされるのだと私はイメージする。

 

学生の本分は勉強である、というが、プロフェッショナルな仕事をする人間はベースに勉学があると私は思う。ある種の単純作業の仕事は、そうではないのかもしれないが、そういう仕事だけではやはり社会は回らないだろう。多くの人が自分の容量の多くを割いて働いてくれることで社会は維持されている。

 

そういったことが私がもう少し若かった頃は、あまりイメージしていなかったので、ここに書いておこうと思う。まぁ、このブログは趣旨一貫していないので、あまり役に立つことも無いかもしれないが。

 

最近、スパロボVをプレイしたのだが「他人と分かり合う」というテーマがあった。いろんな種類の宇宙人と戦って「分かりあえるはずだ」とニュータイプとかインベーターとか言うある種の真の人類の人が言う訳である。人はわかりあえる。分かりあえたとき世界は平和になる。つまり、最終的には平和になる。という3段階の論理武装を見せてくれる。

 

ただ、この3段論法の論理は最初に破綻する。人は分かりあえないのである。だから敵は絶えず、スパロボはどんどん世に出るのだ。

 

実際、シナリオではNTを含めた「分かりあえるはず」教の自軍の人たちも波動砲やストナーサンシャインやトマホークミサイルで敵対するものを物理的な対話によって退けている。

 

ではなぜ人は分かりあえないのだろうか。結局のところ、それは人があまり勤勉では無いからでは無いだろうか。そして、自然が過酷であり、そこで働く必要がある人達が一定数居て、中にはキツイ労働もあったりして、一方で全く働く必要の無い人や、あるいは労働環境に恵まれた人等がおり、それに対する不満等、つまりは環境のストレスによって人は人に当たり散らすこととなり、結果、争ってしまうと考えられる。

 

MMORPGをプレイする時も人は分かりあえない。予習必須ですよ、と言われた時点で分かりあえない。言い換えるとこれは「即戦力」というものであり、MMOも仕事もあったものではない。だから、人は分かりあえないのである。

 

ゲームの方が分かりやすいが「きちんと役目を果たす」ことが当たり前に求められる場合、退場する人は後を立たないということが分かる。極論すればPTSDになるからである。プロゲーマーになれない人というのは恐らくある程度の数が出てしまうし、そうなると、彼らは自分の責任を取れない=大人ではない、という風になる。

 

大人でない人を市場は求めていないので、彼らの居場所が無くなるし、そうじゃないようにしよう、と言っても、この格差をクリアするには、やれる人がやらなければならない、ということが増えて行くし、対して無責任な人を容認しなければならないことに不満を覚えるかもしれない、という話である。

 

社会の何割かは他人の尻を拭けと言われており、そこに不満を覚えても突っ込んでは行けないのである。そうじゃなければ人に対する憎しみ…というより、ある種類の人に対するストレスによって、人と人の仲は決裂し敵対するのである。

 

自分の役割に従順になれない人に対して、それを要求する限り、人は分かり合えない。翻って言えば、分かり合えると主張する人は、自分のことが自分で出来ることが当たり前だよね?と私や子供や老人や障害者等の弱者に対して要求しているのである。

 

老人の介護等の問題を見ていけば、そういう不公平に対する不満が吹き出す事実を何件も見ることが出来るだろう。弱者は何も出来ないということに対して、どう容赦すれば良いのかということが上手く合っていかないと、不均衡とか不公平とか不満とかストレス等が生じ、退場する人が出るだろう。分かり合えないから、と言って退場する人をスパロボはどうしたか、相手が強情で時間も無いことから「仕方ない」と言って魂をこめたフィン・ファンネルで撃墜するという暴挙に出るわけである。まだキラさんの方が愛がある気もするが、彼の場合、そこに放置してどこかへ行ってしまうので、微妙な気もする。

 

私自身を鑑みたとき、助けを求めるとか、どうしたら妥協できるか、とかそういう分かり合える条件を自分で導き出せない、ということが挙げられるだろう。大抵は「甘え」と見做され、容赦を引き出すことが出来ず、また自分も「甘え」であるかのように思われる微妙な問題であることが多そうである。

 

「甘え」という言葉に対して私は苦々しい思いを抱くが、この言葉が「熱血」とか「魂」と同じような作用をして、自分にカウンターを叩き込む際の重要なパーツの一つだと私は思う。発達障害者の多くが自分がどうこう出来ないことに対して「自分が甘えているせいだ」と考えてしまう、という思考自体が自分を追い詰めている。

 

まぁ、それによって奮起することがある場合もある、という問題がまたまだるっこしいところである。その辺は日本の体育会系のクラブやサークルや仕事等に良く見られる。「甘えてるから出来ないんですね」みたいな言葉は良く聞いた気がする。

 

最近は、パワハラという言葉、モラハラという言葉が台頭したと言っても、やはり、何故か、強い言葉は愛情とか後押しであるということにされて、要するにアントニオ猪木氏のやる気合みたいなニュアンスで現場で強行されたりしているのだろうと思う。

 

とりわけ、その部活なりサークルが有力で、かつ体育系の場合は、そういう「甘え」に対する「活」が入れられることになるのかもしれない。私がそれに対して意見を述べたとしても、実際、それでやってきたのだから、とかやれたのだから、みたいなことで、その悪習を改めようとせず、中にはそのために世の中に「不道徳」の新しいサンプルとして提示されたりしている。

 

所感としては、それは走る馬に鞭打って走らせているようなもので、相手側はどこかで、騎手を振り落として、後ろ足で蹴り落とした方が早いと思う気になることがあるような気がする。有り体に言って、ついて行けない人がやめることによって、そのエンドコンテンツ的空間

は保たれるのである。要するにそれが「弱者の排除」である。

 

簡単にできることだから簡単にそうしてしまい結果として改まらないという空間である。エンドコンテンツには、それを越えられる人しかいかないし、彼らにはやって当然のことという疑問の余地も無い。

 

ゲームの話である。実際においても当て嵌まる。トッププレイヤーは予習して当然、出来て当たり前、ドーピング上等である(注:ゲームでの話である)。

 

ゼルダの伝説・ブレスオブワイルドはRTAが盛んだが、そこに挑んでトップを目指していく過程に、それは似ている。出来てからが始まりである。

 

だから「悪い作用を持つ」「悪いことである」という感覚を持ち難く、かつ、寧ろ、そうするべきであるとさえ考えてしまいがちになる。

 

「暴力で問題を解決してきた人間は他人に対して暴力によって問題を解決しようとする」

 

ということは私いわく経験則である。恫喝したり、手を出したりする。介護系の漫画によれば、そうした行為から暴力へ発展し、虐待へ至る。そういうサンプルが近くにいるので非常に厄介である。

 

人が自分に甘えるから争いが絶えないのだろうか?まぁ、そうとも言えるだろう。ポジティブに言えば。けどそれは意志による制御であり、言ったように、その力が無い人を(それが自然的である)否定する。にもかかわらず彼らはそれが人間だと(それ以外は排除)と言う訳である。つまり分かり合えない。

 

分かり合うには自分のことは自分で出来る(言葉だけではなく現実を伴う)と宣言する必要がある。でも、やはり出来ない人もいるのだということを認めなければどうしょうもない。

 

つまり、分かり合えない、ということを、分かり合う、ことが出来れば、じゃあどうなるのか、と言っても、まぁ、分かってもらうしか無いんじゃないかなぁ。それが受け身でしか無いという辺りに、無責任さがあるが…。自分で責任を持てないということは、弱者になるということであり、立場も弱くなる。責任が持てて、こちらを分かっている人がまともであることを祈るしか無いんじゃなかろうか。

 

自分のことは自分でやる、という当たり前なことが当たり前であるが、しかし、実は当たり前でないことだってあるということも分かること、が結局、平和へ至る一歩なんじゃ無いだろうか。

 

分かり合えることを期待しても仕方がないと、どこかで諦めた方が良いんじゃないだろうか。話し合っても分かり合うことは出来ないかもしれないということをわかれば良いんじゃ無いだろうか。

 

つまり結論を導くために、人と人が分かり合うには、という問い自体を捨てれば良いんじゃ無いだろうか。最終的に「平和」を維持したいのなら、分かり合うことは必ずしも必要ではないということでは無いか。まぁ、それはあくまでもスパロボvのテーマに関する話である。

 

自分としてはオークアンタのガンダム様の力で量子空間に行っても他人と分かり合うことは出来ないに違いない。やはりテーマがそれっぽいという詐欺なんじゃないだろうかNTというものは…。

 

結局の所、気の合うやつ同士でしか分かり合えないのだろう。どちらかといえば、どのくらいの距離感を相手に取ったら良いのか、と考えた方が有益ではなかろうか。みんなが平和への意志とか、毅然とした態度とか、要するに大人じゃないわけで。

 

テーマが重くなったので分けます。

 

 

 

オープンワールドRPG系の好き嫌い

スカイリム・ウィッチャー3・Horizon Zero Dawn…、ニーア・オートマタ、ゼルダの伝説(ブレス・オブ・ワイルド)辺りをプレイして思ったこと。

 

スカイリムやウィッチャー3はグロテスクな生物が敵として出てくるが、私はこれが苦手。Horizonやニーアは主に機械を相手とする。ゼルダはトゥーン化してある。リアル化・機械化・グロテスク化…とかあって、ワタシ的にはトゥーン化してあるのが良いかなぁ…と思った。

 

要は、ゼルダが一番灰汁が無かったというか、入り込みやすかった…か。人を殺したり、動物を殺したりすることも私は抵抗があると思った。まぁ、だから、倒した(殺しては居ない)という風に解せる描き方をして貰うと遊びやすいのかもしれない。

 

ニーア・オートマタは、ストーリー上の敵が、殆ど人型の機械生命体であるとか、自分たちは「アンドロイド」であるとか、人間のようでいて人間じゃないアピールをしているが、まぁ、人間にしか見えないので、グロい。

 

それとストーリーに突っ込んでおくと、主人公のアンドロイドは人間味が有りすぎるし、いや人間じゃん、と言っても良く、アンドロイドですよ感情とか飾りですよ、といったアピールが少なすぎるので、機械とアンドロイドと人間の境界を描きたかったのだとすれば、それぞれの設定にリアリティが無くなる訳である。つまり、それぞれの存在としての限界を線引して描かないと、ただの猫耳少女と変わらない「擬人化しただけ」の普通に人というフラットな世界にしかならないと私は思う。

 

つまり、各々変装した人間に依る人間劇に過ぎなくなる。とりあえず一周だけした感じでは私としてはアンドロイドはデータをバックアップしているため、エラーが生じても「巻き戻せる」ならば、涙する程の損失ではない、と普通に人でも思うと思う。

 

それに対するB2の人間的感情は人間味が有り過ぎる。そして、また機械生命体に対する「感情が無い」発言やアンドロイドに対する「感情が無い」発言にせよ、どう違うのか分かり難い。

 

まぁ、ニーア・オートマタの評価についてはアンドロイドの定義に依ると思う。機械生命体とアンドロイドの存在が=なのか、あるいはその他であるのか…。まぁ、何れにしても高度な機械は知性を持ちうるのか?という問いや、じゃあそこに命という概念を認めるのか、みたいな問題が提起され、じゃあ考えてみてよ、みたいな話なのかなぁ。

 

これは他に、自分の記憶すらもコピーしたクローンはその人であり得るか、みたいな問いも含んでいる。後半の9Sに対するb2の感情はそういった分別の問題では無いだろうか。けれども、ワープしている時点で、常に自分を複製していぅてるんじゃ…とか言う問いも、これはエミールが体現しているが…。

 

まぁ、そうした世界観で無慈悲に機械生命体を蹂躙し、装備を強化するためにその辺の無抵抗な鹿やイノシシを屠殺することにプレイヤーとしては気怠さを覚える。通常の人倫と比べて「ゲームだから」と言い切れない部分が、確実に自分にあって、殺すのも破壊するのにも抵抗を感じる。

 

特に、人と変わらない機械生命体を殺した際には、それなりに衝撃を受ける。まぁ、その辺りも作品のテーゼなのかもしれないのだが…。

 

Horizonの場合もやはり機械を倒すのはエゴによる部分、無責任な部分がある感じがした。襲ってくる機械は仕方無いとしても、やはり自分から壊すのは気が引けるかな、と思う。

 

現実に、猟師になりたいというような人も、猟友会に入っている人もいるだろうが、命を奪うという行為に対して、やはり私はあまり興奮を覚えない。では、まあスニーキングプレイをすれば良いんじゃないか、という話になり、それで良いような気もするのだが…。

 

とはいえ、良く考えてみるとゼルダが一番、罪もない動物を殺戮して回っている気がしてきた…。トカゲにカエルにカブトムシ…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

うつ病と言語の関連なんか

日本語と比べて英語の方がうつ病になり難いのでは無いだろうか…と最近考えている。

要因の一つは、感情の平坦さ、なのではないか。英語はアクセントを重視して発音されるので、アップテンポな部分がある。逆に、日本語は容易に平坦に話すことが出来る。アクセントを特に付けなくても喋ることが可能だ。

 

英語を話していると、嫌でも感情を励起させなければならないが、日本語の場合は、そうでも無い…そういう部分が、うつに関連するのでは無いだろうか。

 

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平成が終わりになる年に、いつもの一年よりも色々な問題が生じてきたような気がする。著名な人の死や、災害、引退する人たち。

 

私にとってもこの一年は特殊であった。私は運命論者であり、そういうことを関連付けられるのではないか、などと考えることもある。

 

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あまり関係無いのだが、天体の大きさ比較のまとめ、を見ていて、太陽の大きさに比べて地球は点であったり、より大きい恒星と比べた超天元突破グレンラガンの大きさがほぼ同じ?みたいな話だったりである。

 

グレンラガンは一番でかいロボットであるらしい。恐るべき、螺旋力。デカイほうが強いのだろうか…。

 

ロボに対していつも思うことというと、その大きさが、人間にとって都合の良いスケールに収まっていることへの疑問を覚える。ロボットの大きさは何故その大きさになったのか、ということをゲームをやると良く感じる。

 

まぁ、殆どのロボや怪獣の大きさは、惑星とか宇宙スケールの話と比べれば可愛い程度ではある。