LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

バイキング化というのを考えた結果(~放題サービス)

読んでいる本の問題でバイキング化出来るものをあげよ、ってのがあって、割と良い案が出たので書いてみる。

 

幾つかあるんだけど、その辺は割愛する。ずばり買い物代行サービスである。

 

ウォーターサーバーを例にしたんだけど、そこからペットボトルの毎月配達サービスに転用して、更に冷凍食品・レトルト・保存食品・缶詰・米といった品を月額◯◯円で配送して提供する。◯◯円は主に配送料・サービス料(選んで入れて計算する)となる。

 

そうすると独居でスーパーが仮に潰れてしまったり遠くても、コンビニとかスーパーでこういうサービスをしててくれたら、毎月配達されるもので食べてけるので良いと思う。何をどの程度買えるのか、というのはサイトで入力して毎月変更可能とする。まぁスーパーがこういうサービスしてくれて品物の料金はスーパー価格ってのが理想。配送料とサービス料を払う(月額◯◯円固定)。

 

ちなみに、そういうのが既にあるかどうかはこれから調べる…考える力を養うのがこのブログの真の目的なのだ…(´・ω・`)

 

 

ミニマリストを考えてみる

部屋に何も置いていない、っていうのをミニマリストというらしい。ビジネスホテルの一室…みたいな。TVで見たのは暖房使わない生活~とかだった。

 

SNSで見たのが、全く生活感のない、不動産屋さんで部屋の見学に行った時の何も無い状態、みたいなやつ。よく芸能人のお家見学みたいのでも、非常に綺麗でしかし生活感が全く無いというのがある。

 

一方で、ゴミ屋敷寸前みたいなやつが例えば「ウチくる」みたいな番組では良くある。それは要するに対極だと思うが。例えばADHDのような片付けられない人の部屋はそうなるだろう。一方で、行き過ぎた潔癖症みたいな人はミニマリスト的な部屋になってしまうのでは無いだろうか。

 

中庸がいい、と昔は何かと聞いたものだが、私も同意である。全くものの無い部屋は「帰ってきて寝るだけの部屋」みたいな感じだろう。私が見たものでは「ベッド」さえ無かった。床に寝てた。流石に嘘だろ…という話である。まぁ、嘘なのだろう。

 

断捨離というのも流行ったし、現在も実行している人はいるだろう。私はとりあえず書物は残しておこうかな、と思っている。確かに自分の生活範囲において増えすぎた物は減らした方が良いこともあるが、許される限りは残して置くと良いと私は思う。

 

まぁ、勝手に捨てられてしまったので幼い頃のものは残っていない。でもそれらは私の履歴書のようなものであり、今の私と切り離すことも出来ないものなのだ。それを捨ててしまう…というのは酷い話であった。

 

本なんかは増えてしまうものだが、今は電子書籍があるので、本に押し潰されるような家にしなくて済む。ただフィギュアとか玩具とかはそれなりに場所を食う。電子機器にしてもそうだ。ゲームソフトも溜まっていくが、これもダウンロード版にした方が良いのかもしれない。

 

古いメモ等は残しておいた方が、振り返った時に省みることが出来る。それらはアルバムのようなものなのだ。そうしたものを自分の中にあるからいい、問題ないという人もいる。

 

まぁ、ものには捨てていいものと捨てると勿体ないものと捨てていいものが存在する、という話なのかもしれない。デジタルで残せるものは残す、というようにバックアップはしておいて損はない。

 

 

知識が無い状態で差別の如何を問う

まぁ、主題は黒人差別に関してなんですが、私は深い知識は持っていないことを明記しておきます。じゃあ、書くなよって話なんですが、「何でもそれを語るには専門知識が必要」ってなって、論文100本読んでから出直せというのでは結局じゃあやめとくか、ってなって考えないわけです。

 

なので私としては「知識無いけど、考えて見るわ」ってのが自分のスタンスです。後で知識を得て認識が変わるとしても、今考えるのと後で考えるのと、何れも経験にはなるかな、と思います。

 

黒人差別は根深い、ということをある方のブログで知っています。ただ、ここでは、そういう歴史的背景は持ってこず「肌の色で差別するな」というシュプレヒコールを持ってきて語ろうかと。

 

私自身黒人差別はあります。なんとなく「怖い」印象。暴力的な印象を抱きます。ただそうでないタイプの人もいます。有名な俳優等ですね。私はまず外見で判断し、その態度で更に判断します。

 

見た目で差別するな、という話ですが、人は見た目で判断します。見た目で判断するな、と言うと例えば、相手が子供、女性、老人、盲人等の判断もするな、ということですよね。逆説的に言うと、そうした判断はしているし、する必要もあるということです。

 

勿論、そうした判断をしても、それはまずは私の頭の中に保留しておきます。必要がある時だけ、そうした情報を参照し、どういう行動をするか判断します。私から見て、白人・黒人というのは、まず「会話が成立するか」という辺りからスタンスが始まります。

 

黒人差別が朝鮮人差別と類似のものという意見を見ましたが、理解出来る話です。今でも外国からの実技研修生に対する現状にも、そうした差別を見ることが出来るかもしれません。

 

あるいは先日見た終身刑の老人達の話等も微妙な話です。別に黒人だから犯罪の話をしたわけでは無いのですが、彼らの場合、見た目ではなく中身を差別されるわけですね。犯罪者→その心理の異常さ、という類推です。黒人→暴力的傾向、という風に考えてしまう人もいるかもしれません。

 

とは言え、私は日本人でも怖そうな人は無理ですね。主に男性となるわけですが、暴力的な雰囲気がある人は無理です。所謂、男らしい性格の人も難しいですね。そうすると、私の接しうる人は軟弱だったり柔和な人、となるわけですが。

 

ガンダムで例えるとドズル・ザビリュウ・ホセイは駄目で、カイ・シデンガルマ・ザビはOKという感じでしょうか…。「この軟弱者!」って叱られるような人の方が私はシンパシーを感じます。

 

有名人で言えば、ボブ・サップみたいなイメージが威圧的な黒人という感じです。ゲームで言えば、FF7のバレット辺りも私は無理だなぁと思います。彼を見てアバランチってやばい連中なんじゃ…って私は思うわけです。要するにそこには黒人差別があるわけですね。まぁ、黒人の中でも厳つい人に対する差別と私は思うのですが。

 

日本人の中ではそういう暴力的なステレオタイプと、ファンキーなステレオタイプが主に存在すると思います。まぁ、主に後者は、山寺さんの演じる黒人ですね。なんかジーニーみたいな。

 

まぁ、そういうわけなんで私は「男塾」みたいなのや「龍が如く」みたいなヤクザっぽい人は普通に差別します。日本人でも日本人に差別するわけですね。そこには黒人に似たものを感じます。要するに、反社会的であるような雰囲気を感じると駄目、みたいなやつですね。

 

じゃあ、反社会的な人物に対して差別は良くないよ、といったらどう反応するでしょうか。そうだな、と思うか、いや差別はすべきと思うか。警察ならプロファイリングするでしょう。そういう傾向がある場所は洗うし、人を穿って見るでしょう。コナンだって、見た目でものを判断しています。

 

問題は黒人に対してそういう傾向を読み取った場合です。黒人だから差別したのか、犯罪係数が高いから注意して身構えたのか。件の黒人は犯罪歴がありましたから、そういう虫眼鏡で見られても仕方ないのかな…と思う部分がありました。

 

勿論、そこから人種差別問題に行ったのは飛躍しているのかもしれません。黒人を結果的に死なせてしまった白人が、彼を人種差別したのか犯罪係数を測って対処したのか、それによっても、事件の見方は変わるはずです。最初「反抗的だった」というような情報も耳にします。

 

そこから暴動に発展し、被害者の弟という人がデモに対して声を挙げるまで、色々な人が勝手をしたわけですが…。まぁ、リアルの炎上という感じですね。一方で同じ白人に対する警官の暴行というニュースも私は見ました。警官の性質の話なんだろうか…という気もします。警察の中にも、やはり暴力的な雰囲気の人はいますし、私はそういう人はやはり無理です。

 

私は正直、朝鮮人と黒人が同レベルかと言われると、どうかと思います。また韓国と北朝鮮でどうか、と言われればまぁ韓国かなとも思います。韓国人と黒人なら比べられるのかもしれません。ただ韓国の国としてのスタンスは友好的では無いんだろうな、と思います。そういう意味で黒人が白人に対して対等であろうとする(国柄だと思う…)のに対して、韓国人はどうなのかな、という感じもあります。

 

まぁ、そういう大きな枠組みの差別は兎も角、日常レベルで言えば、分かり合えない人や、分かり合おうと思えない人はいるし、彼らと対等になろうとか理解し合えるとは思わないので、私は差別を語る資格ないかな、と思います。

 

人種差別←抽象レベルの差別の話

個人に対する差別←具体レベルの差別の話

 

という違いですね。抽象化というのは具体化からある要素を削ぎ落として成立する概念です。取り除いているのは個人レベルの性質でしょう。なので人種差別問題を語るなら、個人レベルでの差別も視野に入るのかもしれません。私は関わり合いになりたくない人には近づかない、ことを決めています。

 

駄目な人には近寄らない、これが真理だと思います。ただ現実にはそれが家族であるとか、近寄せてしまう要因があって、関わり合いになってしまう、という感じの不可避なことが多いです。

 

例を挙げれば「学校」「勤務先」等です。それらは「触らぬ神に祟りなし」とすれば近付かないで居られるかと言うと、近付かざるを得ないわけで。

 

そういう状態に対しては医者のような方々のセオリーを教えて貰うのが良いのかな、という気がします。特に精神科医は難しい患者でも対応しなければならない、という状況が不可避でしょう。

 

彼らの対応のエッセンスが学べれば、不可避な人間関係に関して、有効な対応と対策を考えることが出来るかもしれません。

 

私の黒人差別は具体的なものかな、と思います。同様に、具体的に人種差別している、という人もいるでしょう。結局のところ、オール・オア・ナッシングでは無いので、選り分ける必要がありそうです。

 

 

 

 

障害は性格の難に至る

「障害を理由にするのは性格に問題があるのだ」とO氏が言った。O氏には四肢欠損という障害がある。

 

一方、自閉症の私は人とうまくやれない。コミュニケーション能力の欠如、等、私の障害はコミュニケーションに関わる問題だからである。要するに、障害の良い悪いというのは性格の問題では無いのだ。

 

身体障害者にとっては、性格と思えるものも、精神障害者にとっては、心の病気である。事実、人の精神というものは不動のものではなく、時には病むものである。発達障害者にとっては性格の云々とは関わりなく、というよりも性格と障害は殆ど区切ることの出来ない問題として表出している。

 

ということは「性格」というものは、人間の根底に下敷きに出来るような要素ではないことを示す。精神鑑定というものが法にはある。精神鑑定において、疾病が認められれば、責任能力の有無を考え直さなければならない。

 

人と上手くやれる、という能力は複雑なもので、ネジが一つ外れただけで上手くやれなくなってしまうものだと私は考える。知的障害者であってもIQが低くなるほど、モラルは低下すると私の記憶ではある。知的障害者の性犯罪という問題はちょくちょく耳に聞く。

 

であれば人の尊厳のようなものを、障害と品性に分けることは出来ない。そのような例外的な症例でなくとも、赤子、幼児、少年、老人、等、その精神が未熟である時期というものがあり、認知症等は、当人のどうこうできる問題を越えている。

 

であれば性格を障害のせいとして片付ける理屈は理に適っていると言えるだろう。性格は先天性のものと後天性のものに分けられるだろう。そして、二つが撚り合わさって人格が形成されると思われる。

 

したがって、これも偶然性のあるものとも考えられ、完全にその人、自身の落ち度でそのように嫌われる性質に育ったとは言い難い。寧ろ、人は科学によって道理を知るのだ、と考えた方が未来はある。

 

科学には教育的手法も含まれる。様々な人格の逸脱に対してどのような処方箋を出すのか、というのが人間の仕事である。私は人は科学的に犯罪を抑止していくもの、と考える。

 

 

TVでは変わった人間を持て囃すが現実は逆である

同調圧力…というものが日本ではあると思う。

一方で、マスメディアは変わった人を取り上げて「色んな個性の人がいますね」なんてやる。しかし、それは単に変な人を募集しただけであったりする。

 

まぁ、司会者等はちゃんとした人を出来るだけ選ぼうとしているように見える。問題はレギュラーではない取り上げる人間の質であるのかなと思う。

 

食レポを最近良く見るが「おうちごはん」なんてものもリアクションは基本的に同じであるから、結局、外で食べるのと自炊との間に最早差異は無いのではないだろうか。勿論、ちゃんと美味しそうなものはあるが、毎日のように繰り返す企画の場合は怪しくなってくる。

 

そもそも美味しいものを食べて、数秒で表情が笑顔になって、などということは実際は無いわけで、みんなでリアクション芸を見守っている風になっているわけで。別に特別な場所に行かなくても、その辺のコンビニでも十分に美味しいご飯が食べられることは、それもTVメディアが放送していたわけで。

 

ある本ではNHK以外、見る価値は無い、という方針だった親がいたとか聞くが、さもありなんという気もする。ただ時折良い企画というのはやはりあるので玉石混交であると思う。

 

ただTVというのは常に流すものではないな、と私は感じている。まぁ常に流していた頃があったから気づいたような気もするが。

 

病院なんかは娯楽が無いからと言ってTVを流すが、それより書棚を充実させて欲しいと思う。誰が読むのか子供向けの絵本と、面白味のない週刊誌くらいしかない。散髪屋の方が漫画の品揃えが良い。賞を取った小説や漫画くらいは揃えて欲しい。雑誌は流行りものだから止めた方が良いと思う。何年前の雑誌だろう、みたいなヨレヨレの雑誌がおいてあったりするのだ。その点、漫画や小説はある程度、年月に耐えうる。

 

TVよりは漫画を読んだ方が、自分の好みに合うものと出会える。TV番組はずっと見てれば、マンネリになってる部分が把握できるようになると思う。今は毎日「コロナ」「コロナ」しか言わないし。

 

タレントを見ていると経年で人が入れ替わるから、まぁ大体の場合は人当たりが良く、人格が安定している人間が残っていくように感ぜられる。この辺りは刹那的な人間を切り売りしているコーナーとは違い、経年劣化に耐えうる人間性のある人物が残るべくして残っているような気もする。無論、例外もあるだろう。

 

要するに一発屋がブレイクして司会者やひな壇タレントになるというのが、芸人の目指すところの成功だろうと思うわけだが、そういう人物は運があるかもしれないが、選ばれて後にTVに耐えうる人間が残るのである。

 

これは声優も似ている。長く続けるには「安定」が必要なのだ。そういう意味で現実に求められる人間は「耐久力がある人」という風になるのだが、それはその人の人格がしっかりと根が張り、ある程度の質が保たれている人が選ばれるのだ、と思う。

 

今のお笑いのBIG3とか言われる人たちも、毎回の仕事で必要とされるパフォーマンスを発揮できる人たちなのである。むらがある人間はどこかでギブアップするので時流の中で残っていけないと思う。

 

耐えられない人は何かしら問題やら不祥事を犯したり、その前に上手いこと引退したりしてTVには見えなくなる。勿論、病気とか事故といった想定外の災難が理由であることもある。

 

youtuberとかいうのも同じである。まぁ、印税を貰う仕事なら一発当てれば良いみたいな分野も未だあり、そこには「夢」があると思う。

 

ただ安定した作家のような存在になるためには芯が無い人は残っていけないのである。大抵1作目が当たり2作目以降不振という人は、自分の引き出しが有限で一作目に全部ぶち込んだために、2作目以降は似たようなものしか作れない(同じ引き出ししかない)から売れない…みたいになると思う。これは私のイメージである。そういう人は一時の芸術家であって、プロ作家ではないのだ。

 

私はハンター漫画の人はプロ作家だと思っている。とは言え、漫画は完結しそうにないが。彼にあって、一発屋に無いのは、引き出しの中には具体的なものではなく、抽象的な物語に関するオノマトペ…セオリーがあって、それを基に色んな素材を加工し漫画の中に落とし込んでいくことが出来るかどうか、みたいな話だと思う。

 

例えば、ウテナピングドラムには根底している物語の型枠のようなものがあると思う。要するに色んな要素に何らかの隠喩を混ぜ込んで哲学風に仕上げるみたいな。まぁ何やらセンセーショナルな要素がそれらにはあった。要するに社会風刺的な側面があって、それでメッセージ性がある作品と受け取られて、人気を博したみたいな作品群である。

 

例を上げれば、エヴァまどかマギカ化物語系、攻殻機動隊サイコパス涼宮ハルヒブギーポップ…etc

 

とは言え、今の時代にはそんなにセンセーショナルなものがウケる下地はそんなにないような気もするのだが。ただ、まぁその時代の空気を切り取って風刺的に描くドラマがいつの時代もキャッチーで受けるという傾向はあると思う。「カクシゴト」なんかはそういうネタである。

 

露骨に言えば「こち亀」や「銀魂」のような作品はいつの世も受けると思われるが、きちんとその時代の文脈を追っていなければ描けない作品であると思われる。

 

まぁ、だから言ってしまうと、普遍的な作品ではないから、経年劣化して埋もれていくと考えることが出来る。今の社会で若者がエヴァンゲリオンを全話見ても「心の壁」があかんのや…とか思わないだろう。要するに私が挙げた作品は社会的背景があるライブ感が重要な作品なのである。

 

歌も同じで尾崎豊が流行ったのは、その時代のその空気という背景が仕事していたからであって、今ああいう歌詞はウケないだろう。中島みゆきの方が普遍的なことを歌っていると思う。「糸」とか。

 

まぁ、そんな風な作品の一方で「タッチ」みたいな名作は普遍性を扱っていると思われる。ジョジョ寄生獣スラムダンク…みたいなまぁそのレパートリーはどうかと思うが、私の中では普遍的な価値がある作品だと思う。私はどうもその時代の社会問題と自身が切り離せなかったこともあって、時代的な作品を好む傾向があったと思う。

 

プロの人は自覚的に物語を描けるんじゃないかなぁ、と素人考えしてみる。

 

まぁ、最近は現実と距離が取れているので、社会風刺的な物語は昔ほど心に刺さってはこないのである。そうなってくると、読書論なんかを読んでいると、結局は「古典」だよね、っていう話をしているのが今の所立て続けているので「古典」=普遍的な題材、が良いのだと思う。

 

「立て続いている」というのは、幾つか「読書論」というテーマでランダムに読んだ本に共通して「古典」読み、が良いと書いてあった、という話である。

第二波について思うところ

外出自粛ということがキチンと守られていて、数字にも効果の程が表れていたと思う。一方で、緊急事態宣言が下げられてから、人々が仕事に外出しだすことで、数字の上ではまた第二波が予測されている。

 

その状況において、人々は自粛をやめたようである。表面上はマスクを付け、店では除菌に精を出すが、3密の密にならない、という部分は守られていないように思える。

 

特に人と接近してしまうのは不味い。外出自粛解除されても、対人距離を空けなければいけない。それが出来ていない。心理的に人とある程度接近してしまいたくなる、というものを言葉によって守っていたのに、自粛明けという言葉で無しになってしまう。

 

マスクを付けてれば良いだろ、ということになってしまっている。コロナが完全に収束するまで3密も避けるべきなのだと、私は思う。でなければ第二波以降は日本だけ被害が少ない、ということにならなくなってしまうように思える。

 

ソーシャルディスタンス→フィジカルディスタンス(身体的距離)

 

3密とは何か3密を避けねばならない→0密を目指す

 

1密閉:窓がなかったり換気が出来なかったりする場所

2密集:人がたくさん集まったり、少人数でも近い距離で集まること

3密接:互いに手が届く距離で会話や発声、運動などをすること

 

この「3密を避ける」というのは見える所にポスターを貼った方が良いと思う。検索したらポスターはあった。

 

 

絆・繋がり・団結…デジャブ!これはもう私の入れない領域になってきている…っ

最近のSNSを見てきて、このコロナ自粛の中、絆・繋がり・団結・みんなで一丸となって…!的な流れが、何というか時代を逆行してるんじゃないかな…みたいな気がします。

 

団塊の世代ってやつですね。みんなで高度経済成長的な…。それが学生世代に直撃すると、それを守らないやつ=排除、という流れになるというあれですね。今回は「コロナ」という正当性があるわけです。

 

で、それで弱者になるのは「コロナ自粛」に対応出来ない人たち、ですね。そこでの正論は「コロナ」という実害があるから、という話になるわけですね。「コロナ」があるから私が言ってることは正義、お前がおかしい、と人格攻撃になれば、それは誹謗中傷でしょう。

 

「いじめられる側にも原因がある」と言う論

「いじめられる側に原因がある」という論、多くの人は「に」と考えており「にも」=自分にも原因がある、ことは認めない。

 

これがいじめですね。「にも」と分からないから自己正当化出来る。「にも」と考えていれば、距離を置いた発言も可能かもしれない。

 

そういう「いじめ」の中に国民全体が入ってしまっている…と思います。入りたいかどうかではなく、その場所に踏み込んでしまってるわけです。まぁ、コロナからこっちに来たわけで、誰が悪いという話じゃないです。

 

コロナ自体より、ステイホームでSNSで繋がって、支える的な一連の共感することを強要される「なんとかチャレンジ」みたいのありましたよね。ああいうの自分は無理です。おうち時間みたいな話も、いや別にコロナ前と後でやること変わらなくない?と思います。結局、アウトドアの人間が余暇をどう過ごしたらいいか、という話なんだろうけど、やはり私としては気持ち悪いです。

 

コロナ・ムーブメントと呼んで良いと思いますね。一種の祭現象だと思います。その根底には不安があり、それを集まって何とかしよう、みたいなことなのかな、とは思います…。物理的な密を避けた一方で、心理的な情報社会的な密を迫られた…のかな。

 

それによりやはり排除される人はいるんだろうなぁ…と思う。マジョリティの祭で、

 

「お前らマジョリティだろ!」

「応!」

「…」←マイノリティ

 

マイノリティとしてはああした空気に入っていけないです。