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LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

広汎性発達障害とは

広汎性発達障害とは広義には自閉症のことである。自閉症と言った場合、知的障害を含む者というニュアンスを含むが、発達障害者も自閉症と同じ特徴を持っている。

すなわち、社会性の障害・コミュニケーションの障害・想像力の障害である。

この説明が最も簡単で良く指摘されることであるが、具体的で無いので良くは分からない。特徴的なのは、心の理論と呼ばれる他人の心の動きを無意識に洞察する働きが弱いと言うことである。したがって、普通の人によっては「詰まらないこと」でパニックを起こし、暴れたり、傷ついたりするのである。

一昔前には、「親のしつけの問題」「心が弱い」「人格が悪い」と言って「普通の人」の中で劣っている人・不幸な人という風に「まなざされ」、実際、非難をウケもした。そして、その特性は周囲の不満を買ったり、弱者と思われて虐めや嘲笑の対象ともなり易いのである。その癖、僕らの心は普通の人と同じように悩み、傷つく。

高機能広汎性発達障害者とは、知的障害を伴わない発達障害者のことを指すが、成長の中で気付かれず、見過ごされることが多い。僕は最近になって、幼児が定期的に発達に異常が無いかどうか、という検診を受ける機会があることを知ったが、そういう場で残念ながら医者によって見過ごされてしまうのである。

医者という権威が「大丈夫だ」と言ったのだから、この子は「普通だ」と親は思う。けれど、やっぱり色々な「問題(トラブル)」を起こしたり、何か「普通」の枠の中に入っていくことができないのかもしれない。成長には個人差がある…という医師の説明を信じて、あるいは信じたくて、家族はこの問題を「いつか何とかなるもの」としてスルーする(見守る)ことにするのである。

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結局、周りの人たちのおかげで成人期まで見過ごされ、必要なケアが受けられなかったのだと、僕は思う。発達障害者支援法みたいなやつが施工されたのは1999年であり、この頃、僕は学生だったから時期的な問題も重なっている。更に昔のことを言えば、見過ごされるどころか、そういう人の存在そのものが透明なままだっただろう。

僕は中途半端な過渡期に生きている自閉症者であり、そのこともただの偶然である。僕には何かしらの運命みたいに感じられるわけだが…。

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けれど、そのことは子供の将来を破壊することになる。こうした障害を抱えた人には、やはり出来るだけ早期に於ける支援が重要となるそうである。知的障害を伴う明らかな自閉症児の自立支援が不可欠であるのと同じに、僕らにもそれは必要不可欠だと思われる。

僕が思春期の頃は、13とか14歳になって絶望していた…。自分を変えたかったが「自我」が固定してしまったに違いない…とそう思ったからである。

社会性の発達は基本的に急速に行われ、その人の価値観は、大体中学生の頃には固まっているのだと言う。確かフロイトとかの話であるけれども。思春期前後の経験が悪いと、その人間関係の影響を後々まで引きずる羽目になるが、発達障害者の場合はより深刻であると予想される。

社会に対する不適格の烙印を押され、変わろうと試みても自ら変わることは困難である、という経験を繰り返し積むために、目の前が真っ暗になる。僕はそのころ、僕にはその先の世界なんて無いんだろうな…と思っていた。実際、将来なんてことを考えられる余地が僕には存在しなかった。なぜ、この世界でどこでだって上手く行かないのに、この世界における僕の将来の居場所なんてものがあるだろうか…。

成人以降のトレーニングが無意味であるかと言えば、そうではないが、それは前述した事情により困難になる。エゴが強くなるから、ということもあるだろう。確かに社会化期を過ぎても恒常的に社会化が実行されているという風に現在は考えられているらしい。

だから、基本的には、何時でも全く1mmも変化できない(適応できない)ということは無いが、それは、かなり困難を伴うと予想される。幼児期にどんなケアが必要かは分かってきたが、幼児期のケアが無かった青年が青年期に何をすれば良いのか僕はまだ知らない。

昔、養護学校でボランティアをしたことがあったが、本来僕はそういう場所へ入る側の人間だったのかもしれないということを思い知った。その学校では自閉症の子達と遊んだのだが、周囲の母親たちは、僕がなぜ彼らと自然に遊べてしまうのかと驚いたらしい。

僕は自身の自閉的な特性からして、彼らが何を言わずとも、共感できた…というような話かもしれない。元より障害者寄りの同情的な立場だったが、何の因果か遂には対等の立場になってしまった。というか、生来のことなのだから、元より彼らと自分とは対等の立場だったのである…。