LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

努力すれば報われると思いますか?

さんま さんが、努力についての批判記事

(以下引用)

MBSラジオ)でのことだ。有名人の「名言」や「珍言」をリスナーがメールで紹介する「名言珍言ゆとっtter」というコーナーで、この日ゲストだったアイドルグループ「アップアップガールズ(仮)」の佐藤綾乃さんがインタビューで言っていたという、こんな話が紹介された。

「努力は必ず報われる。その言葉、最初は信じなかったんですよ。そんなこと言っても、本当に努力を見てくれてるのかよって。でも、自分の経験上、努力をしていれば必ず誰かが見てくれていて、報われることがわかりました」

これに対しさんまさんは、「それは早くやめた方がええね、この考え方は」とバッサリ。

佐藤さんやレギュラーメンバーモーニング娘。道重さゆみさんが驚いていると、「努力は報われると思う人はダメですね。努力を努力だと思ってる人は大体間違い」と持論を展開した。

「好きだからやってるだけよ、で終わっといた方がええね。これが報われるんだと思うと良くない。こんだけ努力してるのに何でってなると腹が立つやろ。人は見返り求めるとろくなことないからね。見返りなしでできる人が一番素敵な人やね」

(以上引用)

日本では根性論が蔓延っていたりするが「努力すれば報われる」なんて考えは当たり前に周囲に存在していたりする。これは高度経済成長期からバブル崩壊までの戦後の復興という右肩上がりの経済成長があって、そういうところから来ているんじゃないかなと適当に考えてみる。

一億総中流という時代を形成した人たちは、自分たちが頑張ったから今の日本が出来たのだ、と思うだろう。つまり、努力したから報われたのだ、と考える訳である。

若しかすると、戦前から戦後直後にかけて生きてきた人たちは違う考えを持っているのかもしれない。まぁ、精神論自体はそれ以前からも例えば武士道の中に度々みられるものだけれども。戦争の結果としては、努力した結果として若者たちが特攻で散って行ったりと、努力が報われない結果になったわけで、諸行無常みたいな価値観を持った人たちも多かったかもしれない。

ふと思い出したが、本居宣長なんかは「人事を尽くして天命を待つ」なんて言っている。東北の震災では、日本人の価値観の中には無常というものがあるのだと村上春樹が指摘したりなどしている。

現代の若者は基本的に報われない構造の中にいる世代である。だから全体としては安全志向・普通志向・悟り世代なんてのが出てくる。「頑張っても仕方ないわ」「なるようにしかならない」と言った価値観である。私個人としてはオタク文化に見られるような趣味の開き直りは「好きだからやってるだけ」というさんまさんの言うような世界観だと思う。上昇志向を持たないのは、その世界観の現れだろう。「勉強して、良い会社に入って、終身雇用」みたいな世界観が破壊されて分散された結果として「夢や目標や志が無ければならない」みたいな世界観を押し付けられ、私にもオンリーワンな何かがあるはずよ!って自分探しに走った挙句、いや、そういうの無理だし、そもそも見つからないわ・・・とかいって逃げた先がオタク趣味という自分だけの小宇宙なような気もする。

現実社会の要求するスペック/建前(容姿・性格・学力(即戦力)・夢(野心)が備わっている)なんて到底満たすことができないので、自分なりの行き場を求めた結果が現在の若者に反映されているところかな、と思ったりする。私からすれば努力すればそういう地平に立てるという気自体がしないので早々に諦めると思う。その結果として、個人は個人的な自己実現を求めようとするわけである。曰く、オタクだったり腐女子だったりと言った幻想に逃げ込み、例えば、その結果として、ライトノベルの作家(小説家)・声優・アイドルなんかを志向したりする人が増える。

努力は報われないと考えることは冷静な判断に基づくと合理的だったりもするので、それなりに正当性を持つ。無理難題を押し付けてくる大人社会に対して逃げるという選択を取ることは正しい。ただし、逃げ道は大体塞がれているような感じがするわけである。道義的に就職することが当たり前だと思い、そう努力するが実際には歓迎されているように見えないのでこれを避けたいと思うだろう。

全員が努力していれば中流家庭を築けるんだ、みたいな経済的なフェーズも過ぎてしまい、二極化して行くんだなー、という諦め感が世の中に蔓延る。そうした世界的な流れを個人ではどうすることもできない、というのは日本人的には多い考えなのかもしれない。アフェリエイトや株に走ったり、ニコ生に走ったりと新しい生き方を模索する人が出てくるが、それは基本的には逃げ道を探しているのだと思う。

「努力すれば報われる」と考える人たちは、その言葉を鵜呑みにして、実際に成功体験を積み重ねてきた人たちだろう。あるいは、そういう世界観をいまだに愚直に信じているのか、である。大人たちの世代ではまだ努力すれば報われると考える人たちが結構な数いるようで、そういう世界観を持ち出したりする。一方で現実としては表面上高すぎる理想を要求しているだけであったりする。建前と本音と良く言われ、普通はこの暗黙の了解が分かっていることを期待されるが、恐らく普通の人でもこれを選り分けることはできていない気がする。

「努力すれば報われる」と考えるに至る良くありそうなのは、自分が自己実現できなかったから代わりに子供にそれをさせようとする、という親であるというケース。

あるいは個人が自分の既得権益を守るために持ち出したりする。この世界は能力主義で努力に対する正当な対価が支払われたのだ、などと。そして、その人も成功している間はそれを信じている。その方が言い訳するのに都合が良いからである。

グーグルが社員の人種割合を発表したが、その70%が白人であった。その理由としては、黒人の優秀な技術者を見つけることは難しい。例えば、こういった記事は現実を端的に表わしているように思える。

日本人は特に分相応であることを学びやすい気がするので、%で表されて良いとこ中の上くらいかなーと目星を付けると、自分が努力したところでそんなに報われないよなーと逆算したりするのではないだろうか。グーグルの話で言うと白人が70%なら自分が入る余地は無さそうだなー・・・みたいな。

景気が悪くなると公務員を志向する人たちが増えるが、人の習性として安全を優先するのは仕方の無いことだと言える。そういう統計を見ていると「まぁ、まともな人が多いんだろうなー」とは思う。

私も人のことは言えないが、努力をひけらかす人というのは日本ではあまり歓迎されないようである。学生の話だけれど、彼らは「勉強なんてしてないよー」と言いつつ、実際には何気にしていたりする。示し合わせて「じゃあ、俺もしねーや」なんて思っていると、気付かないうちに差を付けられていて「あれっ」と思ったりする。多分、そういうのは暗黙の了解なのだろう。

私も「よく頑張ったね」などと手術後だとかテスト後だとか言われるとイラっとしてしまう。いや、私は頑張ってないし、あと、そうする以外にどうしろと!?とブチ切れそうになる。その癖、ふとしたことで「努力することには意味あるよね」なんて気付いたら自分で言ってて場を白けさせて後悔したり。日本人にとって努力というのは隠れてコソコソするもので、大っぴらにアピールするようなことでは無いのだと思う。一部の人たちはそれを推奨しているし、一部の人たちはそれを真に受けてしまうのだが。

入院して手術して「よく頑張ったね」と言われた場合「頑張ったのは医者だろ」と私は思ったりする。余談だが。私は何も頑張っていないし、頑張る予定も無い。努力という言葉自体形容詞に過ぎないんでは無いだろうか。要するに、動詞ではないのである。医者は頑張ったがそれは私から見た話であって、医者自身は手術を行ったに過ぎない。あの人は美しいねと言っても、その人は美しいことをすることはできない。全く変な日本語であるのは承知している。実際にしていることは何やら化粧したりお洒落したり光を当てたりフォトショップで加工したり右斜め上から撮影したり・・・ということであって、それを一言で言うと「何かいろいろしたんだね」ということになる。それを更にさわりの良い言葉で言うと「努力なさったんですね」ということになるのかもしれない。

だから、

努力すれば報われる→色々すれば報われる→化粧したりお洒落したり光を当てたりフォトショップで加工したり右斜め上から撮影したりすれば・・・報われる

という風に展開できるだろう。

報われるというのも同様に分解できて、

報われる→美しい→あの人に美しいと思わせる

という風に展開されるだろう。だから、この場合の努力すれば報われる、とは・・・

化粧したりお洒落したり光を当てたりフォトショップで加工したり右斜め上から撮影したりすれば・・・あの人に美しいと思わせることができる(た/かもしれない)

を意味するだろう。

成分分析なんてアプリがネット上にあったりするが「努力」を成分分析すると、多分こんな感じになるだろう。これを元に最初の記事を見て見ると、

佐藤さん「努力すれば報われます」→「〇×△すれば人気が取れます。経験上〇×△すれば人気が取れました。」

さんまさん「その考えはあかん。〇×△したら人気が出るだろうと思っていると見返りを求めるから。好きで〇×△やってると思った方がええね。〇×△を努力だと思ったら大間違い。見返りなしでやってる人が一番素敵ね」

〇×△が努力であるのか、〇×△は〇×△であるのか、という部分が問題な訳です。「〇×△やっていれば報われる」という命題が常に真だとは限らないので〇×△やって報われなかったら落胆するでしょ。じゃあ、好きで〇×△してればいいじゃん。みたいな話。

さんまさんが一見正論を言っているように見えるが、実際には〇×△とか×△〇とかしても狙った効果を上げられるとは限らないんだよ、じゃあ、好きにやった方がいいじゃん。と会話をぶん投げてる感じが出てくるかな。

さんまさんの意見は現在の若者の考え方を代弁している気がする。実際コメントは概ね肯定的だ。けれど実際には、この話と言うのは、努力って〇×△することなのか×△〇することなのか何がなんやらわからん。じゃあ、もう分からないから好きにxxxxxすれば良いよね。という投げ遣りっぷりである。

科学と違って現実は公式が上手く当て嵌めにくいのでこうなってしまいがち。けれど、科学的にはこうなる。

H2+O=H20 は真である。→必ず報われる。

現実社会では因果関係がわかり難いため、ある行為Xが結果X’を必ず出力すると簡単に定義できない。条件がややこしいのである。例えばの話、1000年前の美しさと現代の美しさの基準は異なるだろう。現代人に自分を美しいと思わせたい。と思う場合と、昔の人に自分を美しいと思わせたい。という場合とでは、行われる努力の内実は異なるものになるだろう。

それ故(行為の結果が読めないものだから)に「じゃあ好きにやればいいじゃん」というような暴投であるとか「努力は報われます」と言った茫漠とした言葉やらが出てくる。でも「具体的に何をどうやるとどういう結果が出るのさ?」という感じの質問をやむを得ない。

さんまさん のスタンスってのは大泉洋とかユースケ・サンタマリアとかその辺に分類される人なんじゃないかな。彼は「生きてるだけでまるもうけ」というのが座右の銘であると聞いたけれど、私は良い言葉だと思ったな。大抵のお頭が弱い人(まぁ大体人類全体・個々人)には先なんてあんまり読めるわけもなく、つまりは自分が信じている努力なんてものが本当に報われるかどうかなんて大抵の場合わからないものである。

前提として「努力は報われる」という命題自体が命題としては成り立ちえない。

つまり、その命題が真であるとも偽であるとも言えないので、さんまさんの「偽」であるという回答も間違っていることになる。というよりも命題の立て方自体が間違っているのでこの会話自体に意味が無いのである。言葉遊びをしているに過ぎない。この会話中に何か有用な意味を見出そうとしても無駄である。

最近は、もう特定の問題に対して之を明確化して、トライアンドエラーを繰り返すなりなんなりして、一つ一つ対応するってことを地道に積み上げてくしかないんじゃないかな、と思ったりします。何かエンジニアがエラーを一つ一つ潰していくみたいにね。歴史問題一つみてもそうだけれど、過去を顧みることの目的というのは同じ過ちを繰り返さず、そこから学びよりよい解決法を模索することであったりするわけですよね。多分。

案外出来ていないのは、その「過去の過ちを繰り返さない」ってことだと思うんですね。私なんかは3歩歩けば忘れてしまうような脳機能だけれども、普通の人でも1000年2000年とかいう出来事に関して覚えていない・・・というか知りもしないんだろうな・・・とか。

自分的にまとめるとするなら、努力と言うのは具体的なもので「ある問題に対して、どのような結果を得たいか」に対して、論理的に答えていこうとするプロセスの全てを言うものだと思うんですよね。

個人的な経験を引き合いにすれば、間違った努力は間違った結果しか生み出さないので無益なんです。生徒の指導と称して体罰を加えるなど、誤った「努力」というものは害悪になりさえする。

私たちは大抵の場合、適当な努力の方法を知らないし、社会的な問題に関しては尚更だったりする。だから、誤った努力の結果、失敗して挫折するなんてことは茶飯事で、努力の意味について誤解しているがために、なぜ努力したのにも関わらず報われないのか、と嘆いたりもするだろう。

けれど、そんなことは当たり前で全ての行動は、原因と結果で説明が付く。単に人間が全てを見通す程には賢くは無い、というだけのことである。大抵の行き詰まりは無知から生じているだろう。適切な対処法が分かれば適切な努力が行われ適当な結果が得られる。そのことを私は確信している。

そうした適切な努力によっては人類は宇宙へ行くことも可能なのだから。けれど、例えばの話、ある日末期がんに侵されただとか、交通事故に巻き込まれて半身不随になっただとか、先天的な精神障害を抱えているだとか、そういう問題に対しては現時点では対処のしようがないことが事実である。

発達障害が幼いころの検診で見過ごされ大人になってから漸く診断された場合に幼い頃に療育を受けられていれば変わったかもしれない未来なんてのも今はどうしようもない話である。親が気付くべきだったとか、医者が気付くべきだったとか、色々言いたいことはあるけれども、無知という問題もやはり努力の有り方に結構直接的に関わってくる問題である。

結局のところ、手の届かない/施しようが無い問題に関しては適当な努力をしようがないのであって、それは自分や他者の想像力の及ばない範囲の問題全てに言えることである。自分が動かし得る問題と言うのは僅かな事であり、それさえも自分から見えないものの動きによって影響されているのである。

まぁ、だからといって、全てが運に委ねられている(なるようにしかならない)か、というとそうでもないし、人の尽力が無価値になるようなことは断じてない。ただ、それは科学の実験をするみたいに、正しい方法で行われなければならないのだ、という話である。

地震で倒壊した都市を復興させるみたいに、それが、どのような問題であっても正しい努力が払われたなら、それはきっと実を結ぶだろう。

だから無暗に努力が何でも報われるなんて盲信してはいけないと思うし、努力は報われるとは限らないのだから好きにやってれば良いんだ、と開き直る?ことも、私はそれは違うんじゃあるまいか、と思うのである。

結局のところ、そういう細かい話を一言で纏めることは私には難しいけれど、言いたいことは以上である。