LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

自閉症者にとっての自分

デカルトなんかは、精神と肉体を分けて、それらは分離したものであると考えたわけだけれど。近年ではそういう考え方をする人は少ないのでは無いかと思っている。とは言え、宗教的に言えば「魂」という存在を仮定した時、精神と肉体は別勘定になるという考え方は根強い。「魂」に人格が付与されていると考える場合には。

私は「魂」というのは「自分という自覚」だと考えている。要は「我思う故に我あり」の我である。あまり考えても仕方の無い問題なのだが、私は輪廻転生というのを割と信じている。というのも今ここにいる自分に自我があるということは、死後も何らかの形で何かの生物にこの自覚が芽生える可能性が否定できないからだ。

あまり考えても仕方ないと思うのは、記憶が引き継げないと考えるためである。仮に死んで来世に犬になったとして、前世の記憶なんてものは残ってはいないだろう。記憶は脳という記憶媒体に物理的に書き記されているに過ぎないのだから。酒を飲むと記憶が書き記されることが無くなるので酔っ払いが昨日何をしたのか覚えていないのは物理的に記憶が無いからであるという話がある。臓器が記憶を持つというような話もあるが、仮にそうだとしても肉体も引き継ぐことはできそうにない。

私が私であるという自覚がどのような原理で生じているのか分からない。だから、断言は出来ないが、死後のことは死んでみたら分かるということも無いと思う。ベーコンだかニュートンだかが言ったのだと思うけれど「身体は精巧に出来た機械である」と言うのである。人権を考えると否定したいところだが、まぁ、リアリティを求めると大体同意する。

死んだら死後のことは分からないし、死ぬ前にも死後のことは分からないのでお手上げだと思う。

臨死体験なんてものがあるけれども、あれは金縛りと同じ原理だろう。金縛りに掛かって動けないという自分を脳が見せているのである。金縛りにあっている間、別の人から見て、その人の瞼は閉じているのである。その「現実」の映像は夢と同じく脳が上映しているのである。

ベッドに横たわる自分を第三者の視点から眺めているという体験も同様のものだろう。三途の川の向こうで親族が手招きしているとしても、それは死に掛けている自分が死に掛けたときにはそういう場面を見るんじゃないかと思っていて連想が働くのでは無いだろうか。ある人にとっては三途の川ではなく、ガンジス川だったり長江だったりするのかもしれない。

日常的な出来事を考えてみても、大抵の場合、夢と現実の区別は付かない。昔の夢を見る時、私は学生時代に閉じ込められて本当に絶望している。あと3年もどうしてここで生きられようか・・・と本気で思っている。それが夢だとは気付かずに。勿論、たまには何かの拍子でこれは夢だわ・・と気付くこともあるのだが。

恐らく退行している認知症の人たちも同様に見当識を失うのであろう。金縛りなんかは舞台設定も見事に自分の寝室だったりするものだから、気付かないのである。ゲームとかでよくあるようにここにあるはずのないものとかここにあるべきものなんかに気付くと、「あ、これ夢だわ・・・」と夢の中で感付くのである。

私は明晰夢なんて殆ど見たことが無いが、夢の中で自由に振る舞えたら・・・などと期待している。まぁ、そんなことを期待していると今度は「夢だと思ったら現実だった」なんて警察で供述する羽目になるかもしれない。

これらの例にみられるように私たちは根本的には自分を上手くコントロールすることはできない。見たい夢を見られないのと同じように。法律は個人に責任能力があるという前提で話が進んでいるのだが、責任能力とは便宜的な概念である。

便宜的とは、とりあえず・仕方が無いから・さしあたっては・ベターな、という程度のことである。最善ではなく次善のようなものである。個人の責任なんてものが良く問われるが、責任というのは割とファンタジーな概念だと私は思う。

ただし、そういうものを決めておかないと基準が無くなってしまうので、秩序が築けないのである。例えば、良い例が重さである。この物質の1へいほーセンチメートル辺りの重さを1グラムと決めましょう。それを基準にしてものの重さを表しましょう。みたいなノリである。時間も大体そんな感じだ。

要は重さも時間も何かを基準に仮定されたものである。責任も何かを基準に仮定されたものである。