読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

親を捨てても良いんじゃないかな

未分類

両親という生き物は善であるという考え方。

産んでくれた両親に感謝しなさい

育ててくれた両親に感謝しなさい

子どもを愛さない親なんているわけないでしょう

とか。

私自身があまり人と会話してこなかったこともあり、そういう一般論を信じ込んでしまっていた部分があると思う。普通の人はそのような価値観に一定の距離を保っていられるのかもしれない。

両親というものは一括りにされがちで、子どもを愛さなければならないみたいな風潮がある。私の母親などは、恐らくはそう信じ込んでしまっている人なのだと思う。「家政婦のミタ」の父親役なんかは、子供を愛せない自分に負い目を感じていた。その結果として愛さねばならないという負担から逃げるために不義を働くという本末転倒な羽目になったりするのだ、と思う。

父親とはこうあらねばならない。母親とはこうあらねばならない。という押し付けがましい概念があり、一方で子供は、親とはそういうものであると信じ込まなければならない(ような気がする)。親が自分を愛してくれるものだと信じなければならないというような強迫観念が存在するような気がする。

簡単に言えば、父親=男=人間=個人、母親=女=人間=個人である。父親とか母親とかいう概念はサラリーマンとか医者とか言うのと同じ程度の意味しか持っていないのである。医者には職業倫理(?)が必要とされる。例えば精神科医はこういう患者にはこう接するべきでこう接してはいけないというような決まりがあったりする。それは治療の方法としての態度みたいなものである。

父親や母親に期待されている役割というものは、医者で言う職業倫理的な知識・認識である。ここに食い違いが発生するのは父親や母親と自分とを同一視してしまうからだろう。

父親や母親は職業である

職業には守るべきルールがある

と考えれば良いものを、自分は父親/母親だから何時でも父親/母親としてあらねばならない。いつ何時でも子供の幸福を祈っていなければならない等と考えてしまうと、男/女・個人としての自分を殺さなければならないという抑圧感情に苛まれるのではないだろうか。

子どもの側も親というものをそのように捉えてしまっている。親というのは医者のように相性が合わなければチェンジできるようなものではないのだ、と考えてしまっている。子供にはその親しかおらず、その親は親としての務めを果たさなければ嘘だと考えている。

勿論、遺伝子とか血縁とか、如何ともし難い問題はある。例えば、犯罪者の遺伝子なんてお断りしたいと思うのが人情だろう。ジャックザリッパーの遺伝子なんかは中二病なら歓迎するものもいるのかもしれないが。

現代社会には親が嫌ならチェンジして良いよという便利なシステムは無いような気がする。子どもが決められるのは、

親を捨てる/離縁する

程度のことである。少なくとも成人してしまえば、そういったことは可能だろう。

まぁ、世間体が気になるという人もいるかもしれない。私なんかは「夏休みは実家に帰省するの?」と毎回のように聞かれてウンザリした経験がある。その問いには「なぜ帰らないのか?」「帰らないのはオカシイ」といったニュアンスが含まれるように感じるので傷つけられることになる。

一般には「夏休みは実家に帰省する」ものであり、年に一度は「実家に帰る」ものであるらしい。そして、そうでない人間は異端扱いされているように思われるのである。なんだかんだいって両親には感謝している。そのうち余裕ができたら親孝行がしていきたい。と考えることを期待されている。

しかし、そういう世間の要求に従うことは無い。人間には相性というものがあり、相容れない人とは半永久的に相容れることはない。話し合えば分かり合える?そういうことは稀である。わたしか彼の何れかが、あるいはどちらとも一神教である場合、相容れることは無い。どちらかが折れるまで互いに敵対し合うだろう。お互いに譲歩できない時、この場合の平和的共存とは住み分けを行うことである。お互いに避け合うことが出来れば問題は起きない。

これは親でも子供でも親友であろうとも同じである。だから、相手の考えが変わらず、自分が譲歩できない場合には、自分が去ると言う選択肢を取ることが良いと思う。自分が譲歩しても良いという場合にはそれで場が収まることもあるが、自分が譲歩することに耐えられないようであれば、相手が親であれ、自分が病んでしまう前に立ち去るのが良い。

まぁ、現実的な問題は立ち去ろうにも上手い立ち去り方が分からないということの方なのだろう。

ちなみに子供の側には職業倫理のようなものは存在しない。親の側には存在する。飼い主の側に責任はあるが、ペットの側に責任は無い、というのと同じである。子供には責任能力が欠けているからである。

犬や猫を飼うのでさえ最低限の知識が必要になるのに、親は「子供なんて黙っていても育つ」と考えるのは全くの誤りだと思っている。話は違ってしまうが、親には研修を義務付けたり免許や資格を取らせるようにした方が良いんじゃないかと思う。

最近では猫の飼い主でさえ査定の対象になったりする。飼い主として不適切であると判断されれば、猫を飼うことはできない。これが人間なら猶更だと思う。「生殖機能があるからといって誰でも無条件に子供を産み育てる権利があるのか」という点に関して世間にはちょっと考えて欲しい。

私は子供には適正な親の元で育てられる権利があると思う。そして、それは親が子供を産む権利よりも尊重されるべきだろう。

何の話なのか分からなくなってきたが・・・。

結婚して子供を産む=幸せ であり、人間は誰でも幸せになる権利がある と誤解する人がいるが、結婚することも、子供を産むことも直接幸せには結び付かないし、そうしなければならないことでもなければ、推奨される生き方でもない。親に孫の顔を見せることができないなんて話は聞き飽きた。別に見せなければならないというものでもあるまい。

いや、自閉症の人間にはそう信じ込んでしまっている人がちらほら居るらしいが、定型発達の人はどうなのだろうか。

周囲の人たちはなんだかんだ言いながら伝統を踏襲しようとするので、異常な先輩後輩関係やら親に孫の顔を見せるやらを律儀に遂行しようとしたりするのではないだろうか。それ以外にテンプレ(回答)が用意されてないとか、そういう話なのではないかな。

結婚したい最大の理由は不安を低減させることだろう。子供を作るのも将来の介護をさせるための保険なんて考え方から来ている場合も多い。まぁ、私は何れにせよ反対だが。

自分の両親は自分より早くいなくなるので、その際に孤独になることを避けるために結婚しておく、という考えなのでは無いだろうか。要は身寄りが無い不安定感を安定させたいみたいな話で。病気になった時に一人では不安になるみたいな話で、そういう時に助けてくれる人が欲しいから結婚という手段を取る・・・みたいな。

私は対人関係が苦手で他人との同居も難しいと思っているので結婚などとんでもないと思うのだが、普通の人たちはそうでもないのだろう。だから、自分がなぜ結婚したいと思うのかという点についてあまり問い詰めたりしない。曰く、それが当たり前だと思っているというような回答が飛び出してくるのではあるまいか。

統計的には男性の2人に一人が独身になるとか。そう考えると決して結婚することは当たり前ではない。そして、それだけの人が生涯独身として生きるとするのなら、それなりのシステムが築かれていくはずなので問題は無いだろう。日々の食事にしても通販とか宅食なんてシステムが現在にもあるし、死に掛けたら携帯で119番をコールすれば良い。その気力も無ければ潔く諦めよう。

孤独死なんてものは、伴侶がいても先立たれてしまえばやむを得ない問題である。そんなわけで、あまり家族や親戚というような関係性から孤立することを悲観しなくても良いんじゃないかという気がしている。いや勿論、家族や親戚とか友人とかそういう繋がり(コネ)は概ね有益だと思う。ただ、私のように訳あって人と繋がれないような人は、そのために人生の50%くらいを損していたとしても、そのことで、あまり悲観することはないんじゃないかなという話である。

自分がイケメンで無いからと言って、相当な不細工でもない限りは、生きていくことに支障が無いのと同じように、家族や親戚がいなくてもそれなりの生活というものがあるのでは無いだろうか。羨ましいという気持ちは勿論ある。自閉症の私が普通の人を羨ましいと思う気持ち。コミュニケーションが疲れるから友達が欲しくても作れないし、関係性を持続させることもできない。寂しさを癒す手段も無い。どうにも面倒な人格を背負ってしまっている。

まぁ、そこまでいかないにしても、単に親と相性が最悪とか、それだけの人なんかは、その関係だけ一度絶ってみるのも手なのでは無いかなと思ったりする。