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LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

暴力性のある人とその援助(4)

噛み犬なんかはコイツ仕方ないから安楽死させるしかないや、みたいになってしまう場合がある。治すことが難しいのである。そして、コストもかかるのでそういうことになってしまう。これは犬だから仕方ないというよりも、人間自体が同じような歴史を辿ってきたからだろう。

社会の側に余裕が無い場合には、どうしても弱者・役立たず・迷惑者が排除されていくようである。近年では暴力団なんかは排除の対象になっているように見える。ただその形成の歴史を見ると部落差別というスラムみたいな集団に行き着く。要は、社会から排斥されて行き場を無くした人たちが部落へ集まり、そこから流れ出て暴力団という集団を形成していくのである。

暴走族も形としては同じようなものだろう。暴力性は薄いがホームレスも同じである。既存の社会の枠組みから漏れてしまう人たちは治安を悪化させてしまう。

これを解消させるためには、こいつらを抹殺すればいい。噛み犬を安楽死させるのと同じように。ただそういう主張をすると、もれなく障害者・老人・引きこもりなんかはこの枠の中に入れられなくてはならないのかもしれない。ごくつぶしの高齢者・働かない引きこもり・働けない障害者は社会のクズ・生きている価値が無い。私たち普通の人の迷惑になるから死んでくれというわけである。

エスキモーの歴史を見ると分かるように、あるいは、日本でも羅生門なんかを読むと分かるけれど、姥捨てなんてのは現実にあったわけである。まぁ、過去形では無いだろう。社会の側に余裕が無ければ・・ということは、家族の側に余裕が無くても起こり得るわけだから。

弱者はクズ・死んでしまえという倫理は、端的に言えば、私(筆者)を殺し得るし、将来のあなたを殺す可能性がある。誰しも認知症になる可能性は10%程度あり、将来的に働けなくなって生活保護受給者になる可能性はさらに高いかもしれない。その時になって、社会の側に資源が無いから残念ながら死んでもらうことになりましたという話になるかもしれない。

暴力団が必要であるという一見反社会的な理屈は、社会からあぶれてしまう弱者を救い上げる機能として便宜的に必要とされている必要悪であるという話だと思う。勿論、最善なのは、社会から逸脱してしまう人たちを反社会的な勢力では無く、社会的な勢力の側に組み込む仕組みを作り上げることである。ただ、それが出来ていないのが現代社会のステージなのである。

暴力に頼らなければならないような人は可哀想な人である。彼らは一見して脅威的で強者のように振る舞うのだが、実際には弱者である。そして同時に同情されない類の弱者である。そういう人たちが最も悲劇的だろう。認知される以前の発達障害者も同情されない類の弱者であり体験は悲惨になり易い。私がそうであったように。

身体障碍者や知的障がい者などの目に見えて「かわいそう」な人は同情され、「かわいそう」だから支援してやろうという話になるが、かわいそうでない人は同情されず支援して貰えず、自己責任だと言って放置されるわけである。だから、最悪自分で手を伸ばせなければ死ぬ。

*勿論、身体障碍者や知的障がい者が最初から同情され援助が受けられた訳では無い。そこに至るまでの長い道のりというものがあったのである。バリアフリーという言葉が広がっていったのも彼らの活動のおかげなんじゃないかな。

豊かな社会という理想を目指して先を見ていくと、どうしてもそういう不幸な人たちを拾って行く展開にならざるを得ないだろう。精神科医は病気を闇雲に作り出しているだけだ、という批判がなされるが、視覚化していかなければ、実際には同情の余地のある人たちを拾い上げることはできないだろう。

*まぁ、人格障害とかそういう問題等も含めて考えると「同情の余地の無い人なんていない」という結論になりそうです。多分。ただ今の社会は全然未完成で資源も足りていないので、そこまで手を回す余裕が無い。なので被害者遺族なんかは発狂して「死刑にせよ」って叫ぶし、世論も割とそれに同調している。普通の人も過労死したりするくらいだし。彼らなんかは忙しさとストレスフルな生活とから、その憎悪の対象を同情されている弱者の側に向けやすい。俗に社畜と呼ばれている彼らの仲にも弱者がいて、大抵の場合、同情される類ではない弱者であるので悲惨だったりする。

過労死が問題になるなど労働関係の問題点が可視化されてくれば問題を解決する切っ掛けになったりするのだが、日本人の忍耐強い性質や個人的に抱え込みやすい気質などから表面化し難いのかもしれない。発達障害では無いがコミュ症であるなど俗にグレーゾーンにいる人たちも困難な立場に陥りやすいだろう。

豊かな社会に向かう必然的展開として弱者を保護していくということは当たり前の通過点だと思える。社会システムが破たんしたりしない限りは、そういう社会を必然的に目指して向かうのではないかなーと予想している。だから、死刑制度なんかも無くなるのがそういうヴィジョンから見ると道理ではある。

死刑制度がある社会というのは、噛み犬を殺処分して済ませる社会と同じである。日本では噛み犬でなくても捨て犬が毎年数多く処分されている。ただ、同時に捨て犬の殺処分を0にしようという目標を掲げている自治体も存在している。私としては、そういう展開が望ましいと思っている。

昔はこの社会は成熟しきっていてもう他に伸ばすところなんて無いんじゃないか、なんて思っていたけれど、社会はまだまだ未熟である。

発達障害について言えば、2000年代に入ってから漸く一般に認知されだしてきて、アスペというような差別用語を聞くようになったのも最近である。私が学生の頃は専ら「キチガイ」とか「チショウ」「チテ」なんて言葉が使われていた。私が知らないだけで「アスペ」という言葉も使われていたのかもしれないが・・・。何れにせよいじめだが。メンヘラなんていうのも最近ですね。

まぁ、実感としては、そうした差別を通して認知され、だんだんと正確な情報が流通して、そういう障害を抱えた人間に対する認知が広まっていくのだと思っている。少なくとも発達障害に関しては、そういう風に展開しているように見える。携帯やインターネットが普及したことで、そうした問題に対する周知が劇的に早くなっているように感じる。

昔なんかは、もっと地域差があって、大抵、都市部から地方に時間を掛けて浸透していくのである。交通の不便な場所などでは情報の浸透は遅れたりとか・・・。まぁ、現在でも時々時代遅れなことを聞いたりするけれどね・・・。今の中高年にはパソコンやネットをあまり活用しない人も多いためだろう。

なんというのかな・・・XPがサポート辞めると聞いてついてこれなかったり、携帯がスマホになっても、携帯のままでいいやと思ったり、歳を取ると多分、流行に鈍感になっていくんですね。それで時代に取り残される人たちが出てくるわけで。ツイッター・ライン・フェイスブックなんかは使ったことないや。そもそも繋がる相手がいない(ぁ

・・

私が若い頃はまだ発達障害というものはスルーされがちで、私も最近になるまで発達障害だとは気付けなかったのである。まぁ、だから、最近大人の発達障害なんかが続々出てきているわけだけれども。あれは見落とされていた人たちがそれだけいたって話でしょう。毎年ちゃんとやってないからやれてなかった時期の人たちが芋蔓式に出てきてしまったわけですね・・・。

もし思春期以前に気付けていたら・・・家族関係や二次障害の状況なども変わっていただろうなーなどとどうしても考えざるを得ない。まぁ、そういうやりきれなさ。

私たちが今生きている時代は丁度、発達障害という障害を知るためのパイオニア的な世代なんだろうと思うわけですね。現代では大抵の問題は開拓され尽くしたのだ・・・おぉ、なんとつまらない時代だろうか!とか言っちゃう人っていますが。それは単に見えるもの以外、見えて無いだけなんでしょう。そういう人はいつ生まれても同じことを言うと思う。

だからレーシックじゃないけど、若干、人体実験的な要素も入ってくるというか。模索的な時期なわけです。発達障害の人の一生がどういうものなのかってのは分かってないっていう・・・。

まぁ、そうして解析されるなかで、後から生まれてくる子供たちが発達障害だったとしても、私が子供の頃よりもまともな対応が取られる可能性が上がっていくだろう・・・。逆に言うとそういう変遷を最初期から観測できる世代でもあるというわけですね。

発達障害者的には自分の置かれた社会的状況というのは「戦後東京が焼け野原になって、これからなんとか復旧していこうか」というような段階なのかなーという感じです。少し前は戦争状態(混沌)だったわけです・・・日本では。