LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

自分探し

発達障害者って多分普通の人よりも「自分探し」するんじゃないかなー、と思うんですね。私は大学生活の大半は自分探ししていました。まぁ、結果として分かったのは自分が発達障害者だということだったのですが。私の場合は自分?が見つかりましたが、一般的には見つからないと思います。

定型発達者は定型発達者の枠組みの中にいるので、その中で自分を探しても見つからないんですね。私の場合、普通の人と比べて異常だったので、その異常が見つかっただけです。

逆に言うと、異常の中に入っていくと定型発達者であるあなたを見つけることができるでしょう。だから、異文化の中に入っていくと、日本人である私というアイデンティティを自覚するようになるのだと思います。そのためには強い問題意識が必要です。まぁ、大抵の場合、障害や抵抗感と言った痛みから学ぶことが多いと思いんですよね。失敗学なんていうのがあるけれども、何が悪いのか(差異)を見つけようとするので見つかる。

日本の中では英語が学べないように、自分の生活に必要性が無いものをわざわざ習得しようという気にはならない。日本で10年教育テレビを見るよりも外国へ行って一年も生活した方が英語は学べるかもしれない。まぁ、学べない人も勿論いるわけですが。

それは強い動機があるからですよね。言葉が通じない→なんで・・このままじゃ、やばいんだけど・・→どうしたら良いんだ!っていう。これは一つの例だけれども、好奇心や興味と同じように、それが自己目的化されるって必要がある。逆に言うと強い動機があれば日本でも英語は習得できるかもしれない。

自分というのは思うに他人との比較なんですね。個性というのも他人との比較です。個性的な私になりたいと思ったら、早い話、外国に住めば良いんです。そうすれば何をする必要も無くあなたはユニークな存在と見做されるでしょう。ただユニークであるということは普通ではないということです。異物であるということは排除される可能性があるということです。

多くの日本人は、したがって没個性を選択します。日本では普通であることに価値があるし、大抵の国において、その国の普通であることには価値があると思う。

ただ普通であること=問題が無い=退屈なんですね。また個性的でありたい私というのは単に一目置かれたい・承認されたいということです。お笑い芸人やアイドルなんかが良い例ですが、要は私を見て!っていう話ですね。エヴァのアスカが言ってました。シンジ君も彼の悩みは父親が自分を見てくれないということであったりする。エヴァに乗っている僕を見てくれるが、乗ってない僕は見てくれない・・・という。まぁ、

碇ゲンドウさんはぶっちゃけエヴァに乗っているシンジも見てないんですが。あれは登場人物みんなが承認欲求を満たされていないっていう設定なので、誰一人としてちゃんとした大人になりきれて無いので、見る人によっては相当気持ち悪いアニメなんだと思う。

ただあれがウケた背景には心理学ブームとかがあるんだろうと。同時に自分探しなんかも流行っているわけで。その後にメンヘラとかが流行ってくるわけですよね。1999年辺りは社会不安の時代で、今よりも先が見えなかった感があって、死にそうでした。私は。

エヴァを見て「これ私じゃん」っていう人もいるんだけど、抽象的過ぎて何の話だか分からなくて、中二病的でカッコいいくらいにしか思わないっていうね。エヴァが何なのか分かってない人は多いと思う。実際には憧れるようなものではなく悲惨な話ですよね。それが見えている人は割とまともだと思う。あぁいうのが個性的だというならちょっと問題あるからやめといた方が良いよと思うな。

正直、あの世界設定なので人類補完計画なんてのが必要になるという話であって、親や環境がまともならそもそも補完される必要なんて無いんですよ。で、現実にはそういう人たちはリア充としてうようよしているわけです。彼らからみたら「いや補完される必要無いんで、お断りします。」って感じでしょう。ただ、エヴァの世界ではみんなアダルトチルドレンなので補完されたい=救われたいというだけの話で。なんであの世界は基本的にはディスユートピアですよね。不健康アニメなんで健康な人には不興を買って当然かな・・・。まどか☆マギカとかも同じ構造な気がする。そういうアニメを支持する人たちは自分の気持ちを代弁してくれていると思ったりなんかするので、流行ると。教育やら社会環境やらがあまり健全な状態では無い今の時代だから流行るアニメだなと私は考えます。

構造的には同じことで、個性的な自分は見て貰える、個性的で無い自分は見て貰えない・・・という感覚なんでしょう。なんだ寂しいのか・・・馬鹿だなーと思うかもしれないけれど、自己承認欲求というのは赤ん坊にとって死活問題なので。それって死の恐怖と裏腹なんじゃないかなーと思うんですね。だから、発達過程において十分な信頼関係が構築されないとか何らかの問題があった場合には逸脱行為が起きる。

犬なんかも同じで例えば分離不安とかね。飼い主と離れる不安からのストレスによって問題行動が起きる。こういうのは長期的なケアが必要になる。根本的には人間の問題行動の解決方法も犬のしつけと同じだと思います。基本的には少しずつ一人でも留守番できるよ!っていう自信を育んでいくというようなことですね。

人間がこういう風にできないのは、そもそも問題行動だという認識とそれがケアできるという認識が足りないせいですよ。個性だとか人格だという免罪符でスルーされるので。実際には人格障害と言われて問題になってくるように、人間の心のケアも犬の心のケアと同列くらいに扱った方が良い。犬って素直なのでダイレクトに影響が出てくるので分かるし、対応しなければ飼い主が困るわけですから、ちゃんとしよう!って思うわけです。ここで言いたいのは人間の心のケアというのが軽視されているという話です。

経済社会は個性的な人間を!と叫ぶのだけれど、私は健全な発達をした人間を!と叫びたい。ドラッカーさんが経済について提言しているように社会は普通の人によって営まれるべきなのであって、一人の天才とかに頼るべきじゃないんですよ。そもそもそういう必要も無い。

それに人間の目指すべきところは幸福なので、それって結局は健全に発達して健全に暮らして健全に死ぬってことですよね・・・と。それは現在の社会システムでも十分可能だと思う。更に言えば、普通の中流家庭の普通の家族でも普通に実現可能な目標だと思う。自由とか人権とかを取っ払ってまともな人がまともな発達理論の教科書を出してその通りに躾?を行えば大抵は実現できると思う。問題なのはそうした現在の科学知識で十分分析できていそうな問題が、個人の自由とかいう理由から周知されていかないことだと思う。

子どもは放置していても育つとか、超スパルタで扱いて詰め込んで良い大学に良い会社に入れるとかいうトンデモ理論が割と罷り通っている気がする。自分は無宗教だと言いつつ、科学的な根拠のない伝統的なオカルトを信じる日本人。

『犬のしつけ方』みたいな軽いノリで『人の育て方』みたいな本が何冊かあれば正直こと足りると思う。先天的な問題とかが特に無ければね。

学校で言うところの教育なんてものは、その前提が満たされた上での話であって、芸の肥しみたいなもんだと思う。そこで行われている教育と親が与えるべき教育というのは別の概念なんじゃないかなと思うんですよね。要は幼稚園から小学校・中学校とかにかけて周囲の子達との間で社会化されていく過程と、親が子供に与える影響とは同じ社会化の過程に属するもので、いずれにしても、まともな発達には不可欠なんじゃないかなーとか。

それと知識を植え込む教育とは別なんじゃないかなーと。

親は学校がまともな教育をしないから!なんていうけれども、そもそもその教育って、学校側の教育とは違う教育の話じゃないんじゃないかなーみたいな。

その辺を分かっている親はちゃんと子供に接してると思うんだよね。まぁ、私の言う理想的な普通の親なんて見たことないけど。そもそも他人様の親に会わないからさ・・・。

で親の愛情が足らないから云々って話になるわけだけれども、愛情ってヤツは何なのさって話ですね。ただあなたのこと信じてるから!って言いながら、韓国ドラマを見て煎餅食いながら手をヒラヒラ振って「じゃ、適当にしとけ」って言うのが愛情なのかな。

私はそれは愛情ではないと思う。少なくとも子供とのコミュニケーションを拒絶した時点でもうダメだなコイツって言うのが私の見解です。愛が何なのか私はわからないけれども言い換えてみると飼い主としての適格くらいの話なんだと思う。とりあえず躾の教科書何冊か読んだり専門家に相談しに行ったりして「よし、じゃあ、一緒にトレーニングしようね!」くらいの努力は見せて欲しい。

要はネットで言うと「ねーどーしよー」→「ググれ」と。「過去ログ見てこい」と。そういうことが、そもそも出来ない人がいるんだと思う。そういう最低限度の労力すら厭おうとしている時点で子ども産む資格無いからと私は思っている。そういう人の言い訳としては「仕事が忙しい」「自分のことで精いっぱい

じゃあ、産むなよと。私は思うのである。その覚悟をしてから産めと。だから、私の意見が時代錯誤であろうとも出来ちゃった結婚なんてのは論外だと思う。また親個人としての自由は無いの!?とか言い出すし。そういうのはまともに子供と向き合ってから言って欲しい。子どもから逃げる言い訳として使うのは最悪である。愛想が尽きたから保健所に捨てて来るわと言うのと同義だと思う。

私曰く、愛情とは、その他人のために労を割くことを自分のことであるかのように厭わないことである自分のことを愛せない人は他人を愛する資格も無い。他人を愛せないのだから自分が愛されるわけがない。自分を愛せない以上、他人のことも愛せないのである。他人を愛し、その他人(ひと)に愛されるには、まず自分を愛することから学ばなくてはならない。

まぁ、適当なことを書いただけである。

大抵の場合の阿呆な親とは、自分の自己愛のために子供を利用しようと思っている。あるいはしている。そして、更に悪い場合、自分でそのことに気付いていないのである。私は子供のために~している!というそれ自体が自分の自己愛を満たすための行為なのである。

とりあえず忠告しておきたいのは、そういう親(飼い主)に私を見てと言っても無駄なので、そこから離れた方が良い。人間が反省することは難しい。孔子曰く「過ちを改めぬこと。これを過ちと言う」のだが、歴史を見ていると分かるように、3日も過ぎれば過ちを犯したことなんて忘れてしまうので、改めない。よって、過ちが改められることも無いのである。追加しておこう私曰く「過ちを過ちと気付かぬこと。これを過ちと言う」。

そういう人間の相手を特に子供がしていても無駄であるので、悪影響を避けるためにも離れて、まともな人と交際するべきである。

自分探しなんかは、まともな人と付き合う中でキチンと自分に向き合っていけば勝手に見つかっていくだろう。結局のところ人間の幸福も他の動物の幸福と同じである。本当の自分云々というよりも精神衛生上の問題の解決が不可欠だと思う。

まぁ、話が逸れすぎて放り投げてしまった感が強いけれど・・・。