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LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

人間は平凡な存在であるということ

歴史を見ていくと、西洋の人たちは人間が動物とは違う特別な存在だと考えた。神話は端的にそれを示している。人間のために世界が作られたと。

科学が発展して、例えば、進化論などが出てくる。この時、人々は神は死んだ=神話は間違いでしたと言うのだが、実際には21世紀になっても、割とそんなことを信じてはいない。大抵の(普通の)カトリックは神の存在は本気では信じていないけれども、恐らく人間が特別な存在だとは信じているのかもしれない。私はカトリックのことは良く知らない。

人間は他の動物の主人であり、人間は宇宙船地球号の船長であると、まだ多くの人たちがこう考えている。

多くの日本人は未だにアジアで自分たちが特別な地位にいると考えているように、どうもこうした考えは中々抜けないらしい。確かに日本の経済力などを見ると一目置かれる存在であったし、現在もそれなりのランキング上位にいるのかもしれないがそれらの事実?は特別ということを意味しない。言い換えてみればオンリーワンであるということを意味しないのである。

こうした調子に乗っちゃった思想を一つの極として、その対極にあるのは、動物の権利を守ろうというものだろう。果ては、植物にも人権(?)があるということまで言われている。けれど、植物は喋れないので人間が代弁するのだ、という。

極端な菜食主義者も同じである。彼らは実は人間を特別視しているのだと私は思う。まぁ、それはそれでテーゼとアンチテーゼの関係を繰り返して引っ張り合い弁証法的展開を見せて昇華し、最終的には私たちの利益になるのかもしれない。

良い子に反発して悪い子になろうとするように、悪い子に反発して良い子になろうとするのである。この中心にある問題は人間が~でなければならないである。大抵の頭を使わない人間はヒステリックなので対極から対極へと振り子のように揺り動くわけであったりする。当然、人間何十億人とかいると、その中から過激派みたいな人たちが出てきてしまうのは止むを得ないわけで。

誰が言ったか人間機械論。人間とは精密な機械である。人権やら何やらは置いておいて、それは事実だろう。そして、他の動物も例外ではない。要するに人間も他の動物も同じである。ただそれがwindows98なのか、windows8なのかというような違いでしかない。

昆虫と人間を比べると、FF1とFF15を比べたときくらいの差異があるので、人間ってお前らとは格が違うから!なんて気になるわけである。ただ胚の成長過程を見ても明らかなように、元々の起源は同類であり、それがどこかで次元が変わるなんてことはあるわけない。

でも人間は宇宙にもいけて、地球破壊爆弾で世界を滅ぼすことも不可能ではありませんよね、と言ったりする。けれど、そういうことは単に人間のキャパシティを使えば手が届く範囲にあったに過ぎない。パーソナルコンピュータで実現可能ではない問題も、スーパーコンピュータでなら実現可能である。所詮、そういう差異に過ぎない。

どうもその辺のことが分かっていない阿呆な子は、普通の人が出来ないことができる俺すげーとか言って、ツイッターで愚かな行為に興じていたりするが、ただの認識が足りない痛い子である。トリッキーでエキセントリックなパフォーマンスは目立つが、そういう体験を通して人とは違う特別な自分なんて勘違いをしてしまうと、大体痛い目に合う。

大抵の人間が平凡に生きることを選択していて、子供たちはそんな大人に失望しているようなイメージがあるが、人間というのは宇宙に行けようが深海に行けようが火星に移住できようが、平凡な存在であり、それが正しい認識であると私は思う。それらの何か凄い科学的功績は、要するに物理的に可能だったから手が届くだけである。それを成し遂げた人というのも特別な人たちというわけではない。

例えば、犬の一生は人間から見れば退屈で詰まらないように見えるが、適正な環境で飼育されている限り、彼らはそこそこ満足して幸せに暮らしてそして死んでいく。

人間も要するにそんなもんだという話である。何を成し遂げたとしても、それは人間の手の届く範囲のことでしかない。

宇宙の向こう側には何があるのかとか、ブラックホールの中はどんな感じなのかとか、死後の世界はどうなっているのか、とか、人間以外の知的生命体が存在するのかどうか、とか、中には人類には知る由も無いことも沢山あるだろう。

人間は動物であり、動物の範疇を出ない。そのくらいの存在である。動物にしてはやれることが妙に多いとかそういう話である。

世界に一つだけの花」とか流行ったけれども、オンリーワンなんだよ!なんてことは無い。だから、自分探しによって特別な自分を探し出そうとしている人は無駄骨である。所詮、平凡な自分であることが現実であり、また、それが正しい姿である。せいぜい得意・不得意とか、好き・嫌いなんかがハッキリ見えればいいんじゃないだろうか。人より抜きんでた才能なんて特別を求めようとすると碌なことにはならないと思う。

発達障害なんて分かってみると、自分の特別だと思っていた問題は、あらかた他の発達障害の人たちも抱えている個性?であり、そういうのを悪い意味でも自分だけの個性だとか特別視していると落胆することになる。それって、風邪の症状みたいに1から10まで記述されていて、それが自分に当て嵌まるわけである。パーソナリティ障害なんかも見ていくと、人格なんてものも科学的に解析可能なパターンに過ぎないんだなーとか思う。

だから私は個性という言葉も大分、情緒的な概念なんだと思う。アイデンティティ=特別な私=オンリーワンな私というのは幻想である。そして、その事実を受け入れてもあまり困ることはない。ただ根拠なく信じている無限の可能性ってやつが、割と有限なのかもしれないなーとか思ったりするだけで。

人間は自分の手の伸ばせる範囲の中でしか生きられないし、それで良いやと言うのが私の考えである。試しに背伸びでもしてみたら良いのである。ゴムゴムの実でも食べない限り、普通に限界がある。

人間の一生を考えると、その限界のある範囲の中で如何に生きるかということに尽きる。別に大志なんてものはあらゆる人たちに必要不可欠なものでは無い。別に夢なんてなくても構わないと思う。趣味が無くても、友達が居なくても、親が居なくても、余命三か月とかでも、まぁ、人間だって動物なんだから、そういうこともあるだろう。

神に見放されたとか、私の運もこれまでかとか、なんで自分がこんな目に合わなければならないんだとか、まぁ不条理に対して非現実的な見解を示すことはままある。この辺の言い訳は自分は特別な存在であるはずだという幻想に支えられている。所詮、人間は動物で動物である限り、特に神の寵愛とかは受けたりしない。

主人公補正とかで心臓を貫かれても生き返るなんてことは無いし、実は魔界の一番の実力者の血を引いていたなんてことも無いだろうし、ハーレム系主人公みたいに何か12人の可愛らしい妹が主人公を取り合って性的関係を所望してきたりもしない。交差点で食パンを口に咥えた美少女と衝突して恋が始まるなんてことも、まぁ、ドッキリ企画でも無い限り起こりえないだろう。恐らくは自分が死んだらこの世界が無くなるなんてことも無い。

だから不条理や不合理なことなんて言うのは、普通に起こり得るし、そこに特別な意味なんて無い。何かシステム上そういうもんだったんだろう・・・と。うん。偶然なんてものは個人にとっての話であって、俯瞰的に見ると必然的に起こったことが分かるだろう。

統計なんかを見ると一目瞭然だが、、毎年3万人くらいの人たちが自殺で亡くなるけれども、その辺も何かそんなもんなんだろうなーとか思ってスルーしている。しかし、自分がその中に入る可能性なんて、殆どの人は考えもしないだろう。自分はそういう人たちとは違うというわけである。でも実際は同じ数直線上に位置しているんだろうなーと。

人間そんなものであるので、要は自分が特別じゃないと悲嘆にくれる必要なんて無いわけで。特別な人間なんて実際のところどこにもいない。ただ他人との比較の中で恵まれた人たちはいるかもしれないが、そういう人たちも結局は平凡な個人に過ぎないのである。飛行機事故にでも遭えば普通に死んでしまうだろう。明日のことなんて誰にも分からないのは、主人公補正みたいな特別であるはずの自分という考えが幻想であることを示している。

まぁ、なんか適当に書いてみたけれど。