この世は不条理である。
トンビがタカを産むなんてことは稀で、大体はトンビの子はトンビである。
正直者が馬鹿をみるのは、原因と結果を見ていないからである。
目の前に急カーブがあるのに直進すれば、それはコースアウトしようというもの。
その辺りを見れていないのに、この正直者は自分には非は無いと言うのである。
この世は不条理だが、不合理ではない。
この世は実に合理的にできている。
この世の全ては恐らく科学的に解析可能だろう。
だから、正直者が馬鹿をみるのも実に合理的である。
単に馬鹿には分からないだけであり、この世には馬鹿も阿呆も多いので、不条理だと言う訳である。
理不尽とかでも良いが。
馬鹿親の元に生まれてくる子は馬鹿親に育てられるので馬鹿な子に育つとして、これを理不尽だと言うが、とは言え実に合理的である。むしろ、馬鹿親から生まれてきて馬鹿親に育てられたのに馬鹿に育たない方がイケナイような気がする。
この世の悲劇は人間が馬鹿で阿呆であることに全ての由来があるような気がする。馬鹿と阿呆がドラマを作っているわけである。だから、喜悲劇なんて言い方をするんだろうか。喜劇と悲劇はいずれにしても馬鹿と阿呆から織りなされるわけだから。
私も人のことは言えぬ馬鹿で阿呆な人間だろう。ただ上には上がおり、下には下がいる、と思っている馬鹿で阿呆な私なのである。その辺をもっとじっくり観察したいので、研鑽して、もう少しだけ賢い馬鹿で阿呆になろうと努めてみようとする。
常識がある馬鹿で阿呆もいれば、非常識な馬鹿で阿呆もいるのであり、どちらの馬鹿で阿呆が良いというものでもないらしい。何れにせよその加減によって喜悲劇が起こるのだろう。だから、善人だから悪人だからというそれだけで良いと言うものではない。善人にせよ悪人にせよ、馬鹿で阿呆なら同じく馬鹿で阿呆な真似を何時しないとも限らない。
あの馬鹿はあの阿保はと我々は言うが、私も含めてドングリの背比べに過ぎないのに違いない。大体の人はそれがわからぬくらいに馬鹿で阿呆なので勿論私もそんなことはわからない。
そんなわけだから一人くらい馬鹿で阿呆で無い人間がいてもいいじゃないかと言って、考え出してみたのが神様であって、神様は馬鹿で阿呆では無いのかもしれないが、私が馬鹿で阿呆だからわからない。
曰く、人間とは諸行無常である。