LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

強くなって自信を得ることの是非

身体的にコンプレックスがあるとか、何かしら自分の抱える弱さを克服するために格闘技を学ぶみたいな人がいる。それで、柔道黒帯とか剣道黒帯とか取ったり、あるいは鍛え上げた筋肉や強靭な身体を誇示して見せしめたりする。自分に逆らうとどういう目に合うのかわかってるな?といって、その強さを武器に相手を自分に都合よく動かそうとする。そうして自信を得ていくとそういう手段に頼り切りになる。私は端的に言ってそういう人が嫌いである。

粋がっている不良なんていうのは、そういうタイプであることが多いと思う。まぁ、知らないけど。「どの格闘技が最強か」なんて本気で議論している人たちにはそういうタイプが多い気がする。実際に格闘技をやっている人たちの中でも、どの流派は全く価値が無いなどと差別意識を持ち、自分の流派が如何にまともな格闘技であるかと語ろうとしたり・・・。

要は、そこに所属していることで、一端の人物だと思われたいのだと思う。三島由紀夫が典型的だけれども、自分のコンプレックスを克服したいがために、肉体改造やら強さやらに憧れてしまうわけで。鍛え上げている間はコンプレックスを克服していられるかもしれないが、他を見下すことでコンプレックスを解消しようとするので、権威主義的になるし、肉体なんて徐々に弱っていくものだから、それを手放した時にまたコンプレックスと格闘しなければならなくなったりする。

強い自分というアイデンティティを頼りにするのは、心もとないものである。こういうキャラクターで典型的なのはジャイアンであろう。彼は自分の暴力を武器にして横暴を働くが、それが通じない相手には一転して無力になる。父親や母親には勝てないし、目上の相手にも勝てない。一転して強いものに媚びるか、始めから勝負を諦めたりする。自分より強いか弱いかが世界の全てみたいになってしまうわけで対等な人間関係が構築し難くなる。

そういう人は私は不幸だと思う。ここでいうような腕力もそうだし、金持ちとか、美人とか、一つの価値観をそれが正義みたいにみてしまうような人は不幸になりやすいと思う。サッカー選手・野球選手・芸能人・アイドルなんかはそうなり易いと思う。自分には「サッカーしかない!」とか思い込んでいると、それが無くなってしまった場合に、自分の拠り所を無くする。母親なんかもそうである。自分には子供が全て!と思っていると、子供が不良になった時に、拠り所を無くするとか。要するに、そこに自分を託し過ぎだ、と思う。

そういう形でアイデンティティを構築してしまうこと自体結構危なっかしいことである。

これは「持っている自分」の逆もあるわけで、腕力が無い・貧乏である・不細工である・頭が悪い、とかどれか一つを以てして、自分は全く恵まれていないじゃないか、と切って捨ててしまったりする人は不幸だと思う。

発達障害者は恐らくこうした傾向を持ちやすいので注意を要する。多義性を理解し難く、シングルフォーカスなので、こういう発想に陥り易いだろう。また、対等な関係を築くことはそもそも困難である。人間関係を築くときにそもそも上下関係ありきでしか成り立たないのかもしれない。

聞く中で気持ち悪いのは、父親が守るべきものがあるから俺は働けるんだ!とかいうやつで、それを頑なに信じている場合。

結婚願望がそもそもそういうもの(例:守るべき家族)を得たいと言う欲求である場合。母親も同じで守るべきものがあるから母は強し!とか思っている場合。または、守るべきものが欲しいから母親になりたいと思う場合。

とりあえず、そういう人々にはアイデンティティを自給自足できるようになってから改めておこし下さいと言いたい。そういう人たちは自立自体できていないんだと思っている。中高年で結婚できない私は幸せになる権利すらないんだわと言っている人たち。そういう人たちは、そもそも自分を確立できていないから幸せでないのであって、とりあえず自分探しでもしてきたらいいんじゃないかな・・・と思ったりする。お留守番を一人で出来ない犬みたいなものだと思う。

宗教・国・企業・家族とか何かしらのコミュニティに自分が根差していると言うアイデンティティ・・。アイデンティティというのは、そこに頼っていられるという安心感みたいなものだと思う。けれど、頼られる側としては、それは一方的で負担になるものと心得て欲しいものだ。

人間が直立することが出来るのは地面があるからである。でも、立っていることは人に押されてみればわかるが、不安定なので、何かに寄りかかりたい。まぁ、立ち方によっては自己供給的に立てる(人から押されても耐えられる)んだけど、そのやり方が分からないから、何か近くにある木にでも寄りかかろうか・・・みたいな。

端的に言って、アイデンティティの確立の仕方もこんなものであって、人は近くにある適当なものを安直に使って自分のアイデンティティを安定させている。最寄りのものは親・兄弟・友達・同僚・趣味仲間・学校・会社・仕事・地位・国家・宗教・役割・・・etc。

自分は何者であるのか。

自分は会社員である。自分は〇〇家の家族である。自分は・・・etc。それらのアイデンティティが無くなれば、自分が何者であるのかわからない・・・ということになる。一つの価値観にアイデンティティを頼らせ過ぎると、あまり碌なことにならない気がする。個人的には分散させるような仕方が困難であるので、自給自足させとくのが最も安定すると思う。

「我思う、故に我在り」くらいに悟ってしまえばOKな気もする。デカルト教とでも名付けておこう。デカルト教信者はアイデンティティについて、あまり彼是悩まなくても済みそうである。ただRPGで街の入り口付近にいるNPCと扱いがそんな変わらないなー程度の問題はありそうだが。自分は〇〇だからxxしようみたいな基準がアイデンティティだとすると、デカルト教信者は困ることになるのかもしれない。・・・話が一向に進む気配が無い。

そう・・例えば犬。犬は飼い主にアイデンティティを委託している(ような気がする)。飼い主が死ぬと元気が無くなって、その内に自分もコロッと死んでしまう感じである。あの犬という生物のモチベーションは飼い主を喜ばせるとか飼い主と・・etcと飼い主中心に世界が廻っているだろう、と推察する。そんなわけで我思う故に我在りでは、特に回る世界も無いような気がするわけであり、それはそれでコロッと逝ってしまうような気もする。