ナルトは自分の中では、アクションは凄く良いんだけど、ストーリーは中二レベルという漫画。
まぁ、少年ジャンプだから良いんだろう。
今回の話も全ての元凶はサクヤだったという話。
いや、じゃあ、いままでのあれもこれもあいつらの意志も全否定かよ!って感じである。
サクヤ以下の悪役は全員操られてた可哀想な人でした乙。
そういうことをすると、あの回とかあの回とかが「ふーん。どーせサクヤのせいじゃん。ふーん。」ってなる。
それは何か無理矢理まとめた感が半端ない。もう説明聞いてて「説明乙」って思ったもん。
いいよ、もう。なんか痛い人なんだよねサクヤちゃんは。はい退場。
こうしてみんなそれぞれの生活に戻るのであった。完結。
ナルトはガンツと同じで、アクションを描く画力が優れていただけという感じ。
漫画家は短編・中編多く書いた方が良いなーと私は思ったりする。そうしたら話の起承転結までちゃんと描く練習になるから。想像だが漫画家は起承までは持ち込むために描くけど、伏線回収してきちっと終わらすというような最後まで描く経験をあまり詰まないので、下手さが際立つものが多いのだと思う。始め良くて終わりダメっていうね・・・。
連載当初「国語力低そうな作者だなー」と思って観ていて、中盤面白くなったんだけど、最近また「あっ、やっぱダメだった・・・」と思ってきた。最近のFF状態だなー・・・グラは良いんだけどシナリオだめ、っていう。どういう時代なのかっていうのを作者自身が読めてないんだと思う。あるいは無視して描いているか。漫画家は馬鹿でもできるみたいに思われがちだけど本読むとか、勉強しっかりして欲しいな。
パクリ悪いとかいう風潮があるけど、芸術の根本はパロディなのだと思います。芸術というのは自分の周りからの盗用だと言っても過言ではない。それをそれっぽくないように見せかけて、自分のオリジナリティの結果だ、と言い張ったものが作品。着せ替え人形をさらに細かくしたみたいな感じだろう。そこを否定しちゃうと面白いものなんて作れなくなってきちゃうんじゃないかなーと私は思う。まぁ、資本主義の制度には合わない話なんだけども。
それはシェアするってことなんであって。著作権を守るのは個人にとって大切なことだけれど、社会にとって文化的に寄与するのはパロディをある程度広い目で見るってことだろうと私は思う。理想的にはドラえもんの偽物の最終回なんかもパロディとして認められて欲しい。ただ、そうすると共産主義的なシステムを認めるよ、って話になっちゃうんだろう。恐らく。
共産主義を認めすぎると、今度は競争原理が働かなくなって経済が低迷するとかなんとかいう話だよね。多分。
さて、ワンピの感想。
ワンピとナルトは共通性がある漫画。私はそう思っている。何れにしても作者の価値観が素朴かな。ただワンピの方が社会風刺的なストーリーがあって考えさせられたりする。その点がワンピの良いところ。
あと何やら色んな風貌の人たちがわらわら出てくるのも良いところ。まぁ奇形と言われたりもするが、デフォルメと言い換えておこう。あれはデフォルメである。鳥山明や手塚治虫系統なんだと思う。絵の話。
美男美女だらけのみんな整ってる系な漫画の対極みたいな気がする。そういう漫画も必要だと思うな。あまりみんな汚いのも嫌だけど。ワンピもナルトもブリーチも10年以内には終わりそうだけど、次何が来るんだろ・・。
ワンピは祭漫画だなーと思うけど、読んでいて何となく楽しいですね。いや、真面目に読むとルフィとか現実には関わりたくないなーとか思うんだけど・・・真面目に読むとね。仲間が揃ってからがそうですが、各々グループ分かれて戦ってるって展開は結構好きかな。普通にバトルものとして読んでも面白いし、ストーリーとしてちゃんとワンピース目指すっていうのと、航路が一つしかないっていうのとで、ちゃんと進んでるんだな!って実感があるのが良いですね。
発達障害者は多分、ワンピース好きだと思うな。鉄道好きな人がおそらくそうであるのと同じようにね。いちいち長いんだけど逆に言うとダラダラ読める面白さがあるかな。あと一か所でダラダラ長く続けるんで記憶に残るんですね。冒険として。読者はあぁ、こんなところ冒険したっけなーとルフィと一緒に冒険してるような気になるっていう。
ここの展開が早すぎると、土地の記憶が印象に残らない。だから、何か戦ってたなー。どっかで。という感じ。ドラゴンボールは割とそういう印象だった。
ドラゴンボールは世界的にヒットしたけど、私はそんなに評価してない。この人ならもっと面白いものが描けただろうに・・・と。ドラゴンボールの土地なんてのはあまり印象に残っていない。天界・ナメック星・地球辺り押さえておけばいいんじゃね・・的な。
ドラゴンボールが流行った背景にはバブル経済ってのがあったんだろう。右肩上がりでどこまでも突き抜けていきそうなイメージというか。まぁ、知らないけど。エヴァとかもバブル崩壊後の世相に合ってたんだろう。読者の気持ちの代弁をしてくれるような作品ってウケるわけで。逆に時代が変わってくると、あれ、ドラゴンボールって今思うとそうでもなかったなー・・・と。それは時代が変わって読む人の生きる世界背景も変わってきたからなんだろうなー。20年30年もすると文化自体別ものみたいになってることがある。
私の子供の頃はまだ地元には公衆電話が沢山設置されていて、丁度、携帯電話が普及しだして、公衆電話が用をなさなくなって撤去されていく・・・というような感じで。パーソナルコンピューターなんてのも一般に普及しだしたのはその頃なんじゃないかな。光フレッツなんて敷けてなくて、ADSLが限界だった・・・。ファミコン→スーファミ→プレステなんて風に乗り換えていった時期でもある。
その辺の始めと終わりだけ切り取って時間を瞬間的に切り替えたら、もうきっとガラッと変わってるだろうなと。ファミコンでマリオブラザーズやってたところから、ラストオブアスやる辺りまで一気に飛んだら・・・。
それはもう違う文化なので、やはり違う作品が好まれるんだろうと。気付かないうちに、自分たちもある程度、その中で、昔とは違う文化に馴染んで味覚が変わっていて、別の作品がこれいいな!と思っていて、昔の作品があれっと思ったりしたりするんだろう。
歳を取ると、流行に乗ることが上手くできなくて、昔の感性を引きずっていたりするのかもしれない。だから、流行に乗っている若者と乗れていない年寄りとの間で30年分くらいの意識の差があったりするのかもしれない。まぁ、どちらが正しいかというと若者の方が正しいだろうと思う。敏感なセンサーみたいなもので。その時に流行るものってのは割と時代を反映していると思って良いのだと思う。
で、まぁ、話を戻すと、
ワンピースは土地が結構記憶に残っていて、その辺が優れた漫画だよなーという感じ。あぁ、アーロン・パークとかぶっ潰したよなーみたいな。
で、ワンピースがなぜ流行ったのかと言えば、Facebook、SNS、ツイッターと言った、人とのつながりの中に自分の価値を求めたいという気持ち。それは核家族化した家庭が更に個人へ分解し、雇用の不安定さから寄る辺を無くし、友達や仲間という繋がりに寄る辺を求める気持ちが働いたから。
まぁ、知らないけど。
けど、ダチに全てを託すっていうのはヤクザとか不良とかがもうやっているわけで、その結果としてルールに拘束されてしまう。出たいけど出れないみたいな。それもやっぱり上手く行かないんだろうと私は思う。繋がり続けることに疲れる。
FF14なんて典型で、気軽に繋がれて楽しめることを売りにしようとしたが、高難易度のせいで固定PT化→固定PT疲れるもう無理→引退という流れ。
理想的なのは社会と言う只中にふわふわ浮いてりゃ良いんですよ。だから、ラインも長くは続かないと思う。友達強制ってのは流行らないんじゃないかな。まぁ、普通の人のことはわかりませんが。
リア充っていうのは、社会に自分で浮いていられる人だと思うんですね。自閉症っていうのは社会と言う海で一人で溺れながら泳がざるを得ない人ですが。割と近いんですよねー・・・ごぼごぼ。多分。
まぁ、自分に欠損を抱えた人たちが流行を生み出してるのかなーって感じがしますが。それか少年少女たちが自我を形成していく過程ではそうせざるを得ないのでしょうか。アダルトチルドレンは下手すりゃ一生やってそうだけども。まぁ、わかんないんだけども。
FF14の突いてる気軽に繋がって別れられるみたいな部分は良いとこ突いてると思うし、時代はその類のコミュニケーションツールが台頭してくんだろーなーと適当に予想してみておこう。私は使う相手いないけどな。
家族>友達>国家 なんて風になるかもしれない。国家(ナショナリズム)というのも帰属だかんね。サッカーではしゃぐ人の大半はプチナショナリズムといって、そこにある俺たちを求めて団結してる感を摂取してる人たちだろう。そういう栄養補給しないと生きてけないのかもしれない生態の人たちですよね。
最終的な大きな帰属って言うのは、社会なんだけれども、それが可視化できないので、次点としては国とかになりやすいんだと思うんだけど。ただグローバリズムの帰結を考えると、宇宙船地球号とかのレベルで社会を考えて、そこへ帰属意識を持つのが妥当なのかもしれないし、下手すると宇宙レベルなのかもしれない。
人間は集団的な動物なので結局どこかに寄る辺を求めざるを得ないわけだけど、個人主義を究極化していくと、色々なコミュニティは崩壊して、最終的には自分と社会しか残らなかったりするのかもしれない。だから、個人は万人に帰属しているという意識が常識になるようなこともあるのかもしれないし、ないのかもしれない。究極の個人主義というのは共産主義かもしれない。まぁ、そこに至る過程あってのそういうものなんだろうけど。
まぁ、生きているうちには無さそうだけれど。ただ私的には弱い人たちの帰属感の行く先は、究極的には、そういう地面だと思う。