LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

発達障害者は自分のことを普通だと思っています

先日記事になっていたけれど、脳の活動を調べることで自閉症者とそうで無い人とを選り分けることができるようです。

これを読んで思ったのは、怖いな・・・という気持ち。

脳波を測ってもしも「普通でした」と分かったらどうしよう。

そう思ってしまったわけです。それって詐欺じゃん!みたいな。

でも必要な支援が受けれなくなったらどうしよう!って思うんですね。

私は問診や筆記の心理テスト、生育歴の聴取などから発達障害と診断されましたが、

それでも普通だったらどうしようという気持ちは消えません。

若しかしたら、診断は誤りで、自分は普通なんじゃあるまいか・・・。そうやってギクリとしてしまうことが時々あります。

そのこと自体が逆説的に、私は私のことを普通であると思っていることを証明していると思います。

発達障害者は自分では普通だと思っているから自分から医者には来ない、なんてことが言われるくらい本人には普通では無い自覚がありません。だから、大人の発達障害が発覚するケースは挫折を繰り返してもうダメだ・・・と相談に来るか、同僚、や周囲の人からもしかしてお前・・・と言われて来るかみたいな感じらしいですね。

障害それ自体をまず発見するんですね。そして、自分の力とか、普通のやり方ではどうもダメだ・・と言うことになって、何か調べてみたら、これらの人々には共通する点がある・・・それは自閉症だ!という感じなので。

だから、まぁ、自分が自分のことを普通だと感じているのは当たり前のことです。軽い風邪を風邪だと思わないようなものですよね。いや、ウィルスに感染しているあなたは普通では無いんですが、あなたは自分はいたって普通であるという。

異常であるという自覚は知性や論理に基づいて意識的に判断しているわけです。

普通であるという自覚は本来備わっているもので、何も問題無ければ、そのままです。

いわば、普段通りの居心地のいい状態であることを普通だと呼んでいるようなものではないか。

障がい者だろうとそうでなかろうと障害(ハードル)が無ければ問題無いんだろうなーと思います。

自閉症は個性で障害ではない、なんて論調もありますが、それは社会にすんなり適応できていればそうなんでしょう。

ただ身体障碍者が腕が無いのは個性だという風に、老人が身体が弱いのは個性だ、というように、そこには社会的な構造としての許容が必要なわけです。

私は自閉症が個性だと言われることに危機感を覚えるのは個性だからそれはお前の自己責任だという論調と結びついてしまうのではないかという危惧からです。日本において精神障碍者の生活はそうで無い人とくらべて統計的に見て非常に厳しい格差があります。

社会が許容できていない個性はそれを抱える人にとって障害のままだと思います。

この立場に立つと、マイノリティの人々の置かれた(であろう)苦しい立場に立つことができます。ここに立つと、例えば、ゲイの人のことを笑うことはできなくなるでしょう。みんな自分が普通であることに安堵して、そうでは無い人の上にいる気になって笑うか、同情して見せるのです。

同情というのは可哀想な人に対して同情していると自覚している限り、対等では無いのです。一般的な同情というのは、基本的に相手を見下しています。そこにはある種の報酬があるので人は同情するのです。端的に言えば、私よりも不幸な人が世の中にはいるんだ・・という考え方の中にあるものですね。特に金貨をあげなくても同情というものは一方的に成り立つものです。

対等な立場に立って行う同情には恐らくそのような報酬はありません。だからこそ難しい行為なのです。エスノメソドロジーという手法で社会学者が立とうとした場所が、恐らくこれに当たるのではないでしょうか。ただ社会学者は学者としての自己の利益という側面からこういう立場に立つのです。そのことが分かっていない社会学者も多い気がします。

私もまた知的好奇心や自己省察による利益という点から、この点に立っているのだと思えば、利益(報酬)というものに如何に人間が縛られているのかと考えさせられます。

先日記事になっていたけれど、脳の活動を調べることで自閉症者とそうで無い人とを選り分けることができるようです。

これを読んで思ったのは、怖いな・・・という気持ち。

脳波を測ってもしも「普通でした」と分かったらどうしよう。

そう思ってしまったわけです。それって詐欺じゃん!みたいな。

でも必要な支援が受けれなくなったらどうしよう!って思うんですね。

私は問診や筆記の心理テスト、生育歴の聴取などから発達障害と診断されましたが、

それでも普通だったらどうしようという気持ちは消えません。

若しかしたら、診断は誤りで、自分は普通なんじゃあるまいか・・・。そうやってギクリとしてしまうことが時々あります。

そのこと自体が逆説的に、私は私のことを普通であると思っていることを証明していると思います。

発達障害者は自分では普通だと思っているから自分から医者には来ない、なんてことが言われるくらい本人には普通では無い自覚がありません。だから、大人の発達障害が発覚するケースは挫折を繰り返してもうダメだ・・・と相談に来るか、同僚、や周囲の人からもしかしてお前・・・と言われて来るかみたいな感じらしいですね。

障害それ自体をまず発見するんですね。そして、自分の力とか、普通のやり方ではどうもダメだ・・と言うことになって、何か調べてみたら、これらの人々には共通する点がある・・・それは自閉症だ!という感じなので。

だから、まぁ、自分が自分のことを普通だと感じているのは当たり前のことです。軽い風邪を風邪だと思わないようなものですよね。いや、ウィルスに感染しているあなたは普通では無いんですが、あなたは自分はいたって普通であるという。

異常であるという自覚は知性や論理に基づいて意識的に判断しているわけです。

普通であるという自覚は本来備わっているもので、何も問題無ければ、そのままです。

いわば、普段通りの居心地のいい状態であることを普通だと呼んでいるようなものではないか。

障がい者だろうとそうでなかろうと障害(ハードル)が無ければ問題無いんだろうなーと思います。

自閉症は個性で障害ではない、なんて論調もありますが、それは社会にすんなり適応できていればそうなんでしょう。

ただ身体障碍者が腕が無いのは個性だという風に、老人が身体が弱いのは個性だ、というように、そこには社会的な構造としての許容が必要なわけです。

私は自閉症が個性だと言われることに危機感を覚えるのは個性だからそれはお前の自己責任だという論調と結びついてしまうのではないかという危惧からです。日本において精神障碍者の生活はそうで無い人とくらべて統計的に見て非常に厳しい格差があります。

社会が許容できていない個性はそれを抱える人にとって障害のままだと思います。

この立場に立つと、マイノリティの人々の置かれた(であろう)苦しい立場に立つことができます。ここに立つと、例えば、ゲイの人のことを笑うことはできなくなるでしょう。みんな自分が普通であることに安堵して、そうでは無い人の上にいる気になって笑うか、同情して見せるのです。

同情というのは可哀想な人に対して同情していると自覚している限り、対等では無いのです。一般的な同情というのは、基本的に相手を見下しています。そこにはある種の報酬があるので人は同情するのです。端的に言えば、私よりも不幸な人が世の中にはいるんだ・・という考え方の中にあるものですね。特に金貨をあげなくても同情というものは一方的に成り立つものです。

対等な立場に立って行う同情には恐らくそのような報酬はありません。だからこそ難しい行為なのです。エスノメソドロジーという手法で社会学者が立とうとした場所が、恐らくこれに当たるのではないでしょうか。ただ社会学者は学者としての自己の利益という側面からこういう立場に立つのです。そのことが分かっていない社会学者も多い気がします。

私もまた知的好奇心や自己省察による利益という点から、この点に立っているのだと思えば、利益(報酬)というものに如何に人間が縛られているのかと考えさせられます。