LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

主観の変遷

私は自分が普通だと思って生きてきた。

私は自分が他人と上手くやっていけないと思うようになった。

私は他人がよく分からないことに気付いた。

私は何か他人とは異なっていると思う。

私とは何か。

私は自我形成に焦っていた。このまま他者と上手く行けない私のまま自我が形成されてしまったら生きていけない!

私にはどうすることもできなかった。時間だけが過ぎていった。

私はなぜこうなったのか。

私は両親や学校に傷つけられ魂が死んでしまったのだ、と考えた。

私はアダルトチルドレンだと考えた。

私は自分を取り戻すのだと考えた。

私は過去のトラウマを解消すれば人と上手く付き合えるようになるのだと考えた。

私の試みは失敗した。

私は心の傷を癒そうと考えた。

私は心の殻を破ろうと考えた。

私の試みは失敗に終わった。

私は少年の頃からずっと死にたかった。

私の人生は閉ざされていた。

私は人格障害を疑った。

私は発達障害という言葉を知った。

私は病院へ行った。

私は発達障害だった。

私の試みは尽く空を切り、私は「元から異常な人間だった」と私は言った。医師はその言葉を否定した。

私は普通の人たちの世界へ行ける切符を失った。いや、元々そんな可能性は無かった。

私はエンターテインメントが楽しめなくなった。

私は小説を読むことも、漫画を読むことも、映画を観ることも苦痛になった。

私には縁の無い世界の話だ、と。

私は同じ障害を持つ人の本を読んだ。

私はこの障害について書かれた本を読んだ。

私は普通社会の外側にいた。

私には何も分からないということが分かった。

私はとりあえずここにいることにした。

追記:

親や環境が悪い。そう私は結論した。虐待・いじめ・体罰・偏見・無視。私の心は引き裂かれ、誰も助けてはくれなかった。だから、そう思っていた。親を憎み、学友を恨み、学校教育を憎み、生まれてきたことを憎み、何より自分自身を呪った。自分や親や学校や友達を客観視する能力に欠けた少年の頃。

人を憎んでも何も始まらないのだと思っても、恨まずにはいられなかったこと。それが無為だったのか、必要な過程だったのか今でも分からない。発達障害と診断されてから、それは親の教育のせいでは無いと知った。しかし、親の遺伝子のせいだった。

まだ、この頃も親への憎しみは消えなかった。

私は気持ちの整理を付けるために沢山の文章を打ち込んで考えた。私は仕方の無いことだと結論した。全ては私を含めたあらゆる者たちの未熟さから生じたことだった。防ぎようが無い。運が悪かったとしか言えない。

このような親の存在にどのように納得すべきだろう。例えば、自分の親が犯罪者であるとか。在日朝鮮人であるとか。酷い性格だったとか。

漫画では、親からの遺伝を呪って死ぬようなケースもある。現実にもありそうな話だ。私も自分の容姿が嫌いだ。自分を通して親の姿が透けて見える。だから自分が嫌いだ。しかし、残念ながらこうしたものは捨てることができない。

漫画『ヒミズ』などは社会階層からの抜け出せなさを描いている。このような場合、親を憎しむのは当然だが、憎しみは無為である。別に道徳の話ではない。嫌いな相手のことを四六時中考えていても得るところは少ない。貴重な少年時代を浪費するには値しない趣味である。ただ憎しまざるを得ない状況というのは存在して、少年のように幼ければ他に感情のやりようを知らないということもある。だから、憎しみで時間を潰さざるを得ないということもある。

成人してみれば分かるが、大人になった自覚なんてものはない。子供のままである。子供という地点から直線を引いたある点が大人である今の地点である。夜回り先生が書いていたが、大人も所詮は子供に過ぎないのだ。いきなりどころか、いつまでじっと待ってみたとしても大人にはならない。

だから、私の父も母も未熟である。家庭が壊れたのだから周囲の人に増して未熟者であったのだろう。法律的に成人したからと言って、精神的に大人になるわけではない。子どもの頃は分からないものだけれど、大人になってからも人間的に研鑽しようと努めなければ精神的な発達などは無いのだ。普通の人も、自閉症者も。

自閉症の人の中には精神年齢が小学生くらいで止まっている大人の人がいる。勿論、これは極端な例だ。人によっては到達できるレベルは大きく異なるのだと思う。自然に生きていれば精神年齢なんてものは成長期の終わりと同時にある程度で頭打ちであろう。あとは様々な経験を生きて学ぶしかない。同じ場所に留まって同じ仕事しかしない人と、違う場所に行って違う仕事をする人とでは人生経験は当然異なるだろう。10年間暗い地下牢に一人で閉じ込められていたとしたらそこで学べることはそんなに多く無いだろう。

例えば、そうした要因から実年齢と精神年齢は歳が増す毎に噛み合わなくなっていくのが現代社会だろう。

子供は親に期待するものだが、時には、親を諦めなければならない。書き方は冷たくなるが、親も人間という一体の動物に過ぎないのである。様々な人間がいるのだから、当然さまざまな親がいるだろう。そのほとんどは未熟な人間で、未熟な人間なりにやった結果、失敗することもある。未熟だから虐待・いじめ・体罰等に頼ろうとするのである。それが私から見れば始めから分かりきっていた失敗だとしても、当人にしてみればわからなかったのだろう。

そうだったのだから、仕方がない。

許すも許さないも無いが、憎んでも仕方の無いことである。

恐らくはそのように考えて、私はこの件を終わらせたのだと思う。登場人物が愚かだったのだと。

大人だからと言って馬鹿であることもある。周りの環境が不十分だったせいである。

客観的にどうしてそうならざるを得なかったのか、と考えて見れば、納得のいかない問題というのは少ないだろう。ただ自分にとって理不尽であるほど、客観するのは困難になりがちなのだろう。いや、わかんないけど。

一番良いのは親から距離を置いてみることだろう。精神的な距離もそうだが、物理的な距離である。

そうすれば自分だけになれる。

こういう問題は自分ひとりだけで見つめた方が良い。