LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

結婚できないと幸せになれませんか?

こういうことを結構よく見るんですよね。ネットでは。

結婚できないと・・・子供がいないと・・・と未だに言っている人。

そういう意見は目立つんだけれども、一方で、子供いなくてもいいや、結婚しなくてもいいや、という人もいますよね。

どちらが良いということはないけれど、どちらかでないと幸せになれないということは無い。

幸せというのはやはり現在の状態のことなので、今が幸せで無いならその人は幸せでは無いのであろう。だから、勿論、そのうち幸せになるかもしれない。勿論、指をタンスの角にぶつけたとか、風邪引いたとかで簡単に人は不幸になる。幸せと不幸とは心的状態の変遷である。

学生時代など子供の頃は幸せだったよという人は幸せだったのだろう。つまりは結婚していなくても幸せな状態はあるということである。結婚しなければ幸せになれないんだという人がいるけれど、大人になったら何か途端に事情が変わるのかどうか私は知らない。

ちなみに事実婚でも不妊治療が受けられるようになったらしいが、これは男女間の生き方が結婚という形態ばかりに囚われなくなってきたということかもしれない。

男性に多いのは、女性と結婚するのは子供を作るためだ、と考えがちなこと。子供を産めない女性には価値が無いという考え方である。これなんかは女性は産む機械であると端的に主張しているようなものだ。こういう人は石器時代から来たに違いない。男女が平等になるということはセックスに重きを置かないということになるのではないか、と私は思っている。セックスアピールする必要が無ければ、化粧も私はいいやと思うだろう。そういうジェンダーの迷いの中で振り子が揺れるように、男性が女性化したり、女性が男性化したりするわけである。ジェンダーにはもともとこうあるべきという正解はない。

性には正解がある。男と女がそれである。

けれど、生まれてくる過程で、性同一性障害とか失敗することもある。発達障害者も失敗である。この人たちは失敗である。けれど、人間の社会には人権があるから生きていていいのだ。突然変異が生き残って生物が進化したりするように、失敗した人から生み出されるものもある。けれど、何が生み出されるのかは良く分からない。だから、自分が失敗かどうかは正直、最後までいちいち生きてみなければわからない。なら兎も角も生きていて良いのである。

発達障害者は割と勘違いしがちで、多分、結婚しなきゃ、子供作らなきゃと思っている人も多いかもしれない。また、自分が男なのか女なのか分からなくなることも多いらしい。私も一時期性一致が分からなくなったことがあった。自分のそれまでの声を気に入っていたので声変わりはとても嫌だった。変わるということが嫌だからね。

どうも自我同一性が不十分になりがちな人ほど、この問題で揺れる気がする。一時期はオカマ口調になったりしたこともある(笑)

そういうのはジェンダーなので、本来の性一致とはあまり関係無いんだと思うんだよね。ただ男として女として振る舞わなければならないということに反発を覚えたり。私はマッチョな男性像が嫌いなので、そこに反発して揺れた感じがする。今でいう草食系男子だから。中性的なものに憧れ、ジェンダーから離れようとすると、その対極にある女性の側に引っ張られる。この過程で、勘違いを起こしてしまう人もいるんだろうと思う。性同一性障害というので無しに。

例えば、ニューハーフなんかは、『くらげ姫』の蔵之助君だったり、要は、化粧やドレスに憧れただけなのかもしれないわけで。憧れたものがたまたま女性性のものだった・・と。私もぬいぐるみとか好きだし。甘いものとか好きだし。なぜスイーツ男子とか呼ばれなきゃらなないんだと(笑)男で甘いもの好きってのはジェンダー的に可笑しいという社会規範があったわけです。化粧や洗顔なんかも気持ち悪がられたりね。女性がサッカーしたいと思うように、男性がお人形遊びしたいと思っていけないということはない。

女性がここでお人形遊びする男に感じる不快感は、男性がサッカーする女性に感じる不快感と同種のものだろう。

でここから生じてくるのが出産の話。女は子供を産むものであるジェンダーである。だからこそ、それが正しいということは無い。だから、勿論、女性には子供を産まないという選択をする権利がある。

そうすると少子化が・・・とか言うじゃないですか。でも先進国になれば少子化は当たり前なわけです。女性のせいではない。男性が妊娠できるようになったけれども、究極的には試験管ベイビーでも作って人口を調整すればいいじゃん・・という話。というか、私にはそのくらいしか思いつかないなー。人間がそれが自然の定めならば滅ぶのも已む無しと思うのでなければ。いや、でも人間って特に西洋の人たちは、そういう人たちじゃないので・・・と思うと多分、そうなるんじゃないかね。

移民とかしても、結局は、そういう人たちの世界もグローバル化して先進国化するんで人口が減ってくる。これが100年後なのか200年後なのか分からないけれど。そう考えると何時かは世界の人口が全て頭打ちになって右肩下がりになるだろう、と考えられる。そうやって人口が他所から持ってこられなくなると、いよいよ人工的に人間を作るかどうかみたいな話になるんじゃないかなー。そして、答えは決まっている。と。まだまだSFだけども。

けれど、私は女性が子供を産むことには責任が生じると思っている。子供を産むということは全ての女性に認められる当然の権利ではない。少なくとも現在の日本社会においてはそう思われる。

ここをジェンダーフリーにするには、子供を社会的に保護・保育できる機能が十分でなければならない。私が思うのは、逆に、女性には好き勝手に子供を産んでいいという権利はないということである。子どもという一人の人間に対する保育の責任が生じるからである。子供は親の所有物ではなく一人の人格を持った人間であるからだ。中国の一人っ子政策には出産が社会的な行為であることを端的に物語っていると思う。したがって、産めるからと言って好き勝手に産んで良い訳では無い(と私は思う)。

女性の側の主張を聞いていると、産む産まないは私の自由だ!と言っている風に聞こえる。産まないのは自由だが、産むことは自由ではない、という点に関して考えが至らないのでは無いかと思えてならない。

男性の側も遺伝子を残すことが生物的に正しいとか思っていて、生物的に正しいことをすることが幸せなんだと考えている人がいる気がする。遺伝子を未来に残すことは生物の当然の権利で、それができないことはオカシイ!みたいなね。多分、主張としてはそういうところだろう。

例えば、歴史に名を刻みたいとか、そういうのと同じ想像力なんでしょうね。けど、現実的には童貞で死ぬヤツも多い。生まれる前に死んでるとかさ。生殖能力自体が無いとか。遺伝子を残すこと自体に大した意味は無いと思う。勝ち負けとかそういうやつね。それはそうすることもできるという生理的な話でしかない。それ以上は宗教の話だろうと。

そちらばかりに気が行って、子供を育てるということが社会的な責任を負うということに思い至らない人が多いように思える。単に利己的な理由から子どもという他人の人権を侵害している人が少なく無いように思える。男性の側も射精することができるのだから、女性と同様に出産という行為に無関係ではいられない。

子供を残したのに自分の手で直接間接に殺してしまうとかね・・。遺伝子残したいんじゃ無かったのかよ!みたいな・・・・・(笑)そういう利己的な気持ちよりも子供の主権の方が大事だと私は思うよ、という話である。最近は、大量殺人とか酷いことでもいいから人から顧みられて死にたいとかね。自分・自分・自分・・・ですよね。そういう人は自分のことしか見えていない。それで他人を踏み躙ってしまえるのは心が歪んでるんですよ。何らかの病気か、その一歩手前くらい。

まぁ、そういうことは余談だが。

結婚も子供も責任を負う行為である。自分の幸せのためだけというのならやめた方が良い。結婚にせよ出産にせよ、相手の人権への責任が負えないというのならやめるべきである。そういう人は関係性に配慮できないのでどうせ家族というコミュニティの中で幸せになれる人ではない。

関係性

これが重要である。犬でも猫でも互いの相性が良ければ長く幸せに暮らすことができる。一方で仲が悪ければストレスが多い生活となり病気がちで短命となる。他人とのコミュニケーションが下手で友達が出来ない人は結婚しても上手くいかない可能性が高い。コミュニケーションは関係性を築くことの巧さを表す指標である。これが上手いほど空気を読んで他人と仲良くすることができる。仲の良い人たちというのは多かれ少なかれ空気を読んで思いやり合っているのである。これは仮定の話である。私は思いやることができない人間なので想像してみるしかない。

ジャイアンみたいな人は普通、結婚しても上手く行くはずがない。戦後の家父長制主義ならまだ知らず、現代の対等な家族関係では尚更であろう。

発達障害者は会話が出来ない。会話ができないということは関係性を築く技術がそれだけ乏しいということになる。会話はコミュニケーションの非常に多くの部分を占めている。また、ノンバーバルコミュニケーションと言って、言葉によらない会話も不得手であることが想像される。私はそもそも会話の生じるような対人相互の共感がなりたつ場自体に苦痛を感じる。だから、そもそも会話ができるかできないか以前の問題である。

したがって、家庭という限定的な空間において共同生活するということ自体にまず適性が無い。面と向かって言うより、違う部屋でメールでやり取りした方が交流はスムーズだろう。一緒に住む必要性が無い。

発達障害者は関係性が築きにくい。つまり、友達もできない。友達もいない。伴侶もいない。この状態で幸せになることを目指さざるを得ない。

発達障害者の中に結婚している人がいるが、私が知っているのは女性だけである。家父長制的価値観から、男性は女性に対等であることを求めておらず、コミュニケーションを重要視しないためだと思っている。男性は自分に従ってくれる相手なら誰でも良いと考えがち。一方、女性は男性にリーダーシップを求めがち(いや、わかんないけど)。まぁ、最近はATMが欲しい女性も増えてるらしいが。

まぁ、だから、男性は結婚できる確率は少ないだろう。また女性の側でも亭主関白的な家庭にならざるを得ずDVに遭う可能性が上がるんじゃないだろうか。どうしても相手に依存せざるを得ないのである。

こういう状況では無理に結婚したり、友達を作ってみても、却って不幸になる可能性が高いと私は思っている。発達障害者に対等な人間関係の構築を薦めるのは、ちょっと酷な話である。私などは失敗を繰り返してこりごりになってしまった。猫に躾をするようなものだ。人との会話(や多くのコミュニケーション)が楽しめないことは人生の面白味を大幅に損なっている気がする。人として生まれてきた意味の大部分を掘削されている気がする。非常にこの運命に対しては恨めしい思いである。

私は発達障害者を猫に例える。だいたい合ってる気がするのだ。で、幸せそうな猫は多いから、発達障害者も幸せになれるだろうと思っている。猫のことが分かっている猫好きの飼い主に会うか、一人でなわばりをパトロールして生きるかだろう。猫は大凡全てが対象との相性で決まる生物だから、自分を社会の都合に合わせて頑張って曲げようとか、そもそも、あまりに(不可能なくらい)向いて無いのさ。

よく普通の人も発達障害者も互いに歩み寄れば・・・・というが、発達障害者が歩み寄ることは、その特性上殆ど無理に近い。したがって、普通の人側に理解し歩み寄って貰・・・いや、適度な距離を置いて見守って頂きたいのである。

猫に小判というじゃないか・・・。発達障害者(私)にとって会話とは猫に小判であると心得て貰いたい。猫よりはその価値が分かるかもしれないが大差はない。普通の人が求める会話なんてものは不可能である。少なくとも、私にとっては。書面にして頂きたい。

普通の人は普通に生きてれば普通に会話を楽しめて普通に幸せを感じて生きていけるようになる。けれど、発達障害の人は普通の人に普通に生きるように押し付けられ、発達障害者らしく生きることを否定される。会話が楽しめないのに会話を強制させられ、輪に入りたく無いのに入れと矯正させられる。発達障害者は普通の中では楽しさや幸せを感じて生きていけるようにはならないのである。

左利きが右利きに矯正させられるのと同様に、それは明らかに心に傷を負わせることだと思う。行政は障がい者の自立とだけ叫んでれば良いと思い、SSTなどでどうにかなると期待しているようだが。それはその方が簡単だからだろう。右利きを左利きに矯正するより左利きを右利きに矯正した方が早い。けれど、それは問題の解決にはならなかった。結局、左利きの矯正は子供の発達に悪影響になると考えられた。

それと同じように発達障害者のラディカルな部分が私には殆ど垣間見られていないように感じる。発達障害者と普通の人とは別の違う生き物なのである。無理矢理普通の人のやり方を押し付けられるのは暴力である。薬で治せるようになるなどと言っているが、それもハラスメントである。治療するべき病気であると思われているのである。そうではなく、これは社会問題なのである。黒人の人に薬で白い肌になれますよと薦めるようなものだ。

黒い肌は白にはならない。なる必要は無い。生まれながらの身体を否定されることは排他的である。この社会の仕組みに上手く合わないのだから仕方が無い。サイズの違う靴を我慢して履き続けていれば、いずれ大怪我になってしまう。二次障害がそれである。鬱になって死ぬ寸前だった。普通に生きようと努力した結果である。

そうなる前に、靴の方を替えることが懸命である。足を切断して取り換えようなどとは思うまい。社会の側は私の頭を切断して取り換えた方が良いと思っている。単に私にコストをかけたくないだけである。けれど、私はこの身体で健康で文化的に良きる権利があるはずだ。それが、なぜ私自身を否定された上に、例えば、一生薬漬けにされなければならないというのだろう。発達障害が個性だというのはその意味においてである。今は全然、まだまだ社会にはそういう主張が理解されている状況ではない。

社会の言う通りにしようとすることは、左右上下があべこべのコントローラーを持たされてゲームを延々とプレイしなければならないようなものだ。上下左右だった。

左右上下??なんて・・・例えばそういう違和感を強要されたままずっと生きざるを得ないということのキツさを考えて欲しい。間違えたのを勝手に利用するけど(笑)。特性上の馬鹿正直なお人よしさで、他人に言われるままに合わせて頑張ろうとしてきたつもりだったが、もうそういうことに私は疲れ果てた。

普通社会に合わせようと必死に頑張る発達障害の人たちがいる。けれど、それは根本的に、左利きの人が右利きの人に合わせて右利きに自分を矯正しようとするようなことなのである。その違和感は上手くなってもずっと拭うことはできない。それは便宜的な処世術以上のものではない。第二外国語みたいなものだろう。いや、第二外国語使えないけどさ。

日本で英語をこれほど教育熱心なのにも関わらず大勢の人が満足に使えない現実を見て、この問題の難しさが分かって貰えないかなーと思う。発達障害者も人と付き合って平気ってレベルに行けるのは一部の人なんじゃないかな、と思うのである。そういう現実があるのに英語必須だからと言われてるようなものなのである。

そうしないと普通に生きていちゃいけないよ、というのは問題があると思う。

最早、

出来ないことは諦めて、楽に生きよう。そうすれば、まぁ幸せに生きれるかしら、と思う。いや、まだわかんないけどさ。

発達障害じゃなくて「恋人もできない・友達もできない」私はなんて不幸なんだ・・・という人も居るかもしれないが、とりあえず友達も彼女も諦めて、自分の幸せ確保したら・・と思う。

成長過程の失敗などではなく、生まれながらにして家族すら特別な人間として見られずコミュ症な私みたいのもいる。

私の幸せは、例えば、うまい夕飯を食うこと。温泉の素を入れて風呂に入ること。ぐっすり眠ること。ダラダラ過ごすこと。

幸せはそんなに高価ではない。

あなたが背負っている不幸の側に目を向けるとそれが重すぎるのだろう。

まぁ、実にざっくりした言い方になってしまうけれど、捨てられるものは捨てたら良いんじゃないかね。とりあえず。