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LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

般化

発達障害 学習法

般化とは・・・心理学用語。一定の条件反射が形成されると、類似の条件(刺激)によっても同じ反応が生じる現象。また、ひとつの環境で学んだことを、ほかの環境でも応用できることをさす。『自閉症感覚』p82

発達障害者は抽象的な考えが苦手である。融通が利かないと良く言われるが、それはルールの応用や思考の柔軟性が利かないためだろう。

どのように学習するかという問題は一般の人と自閉症の人では異なる問題だろう。『自閉症感覚』の中でテンプル・グランディンが述べているような話は興味深い。この話を聞いていると一般の人にも拡張できる話なんだと思う。

TEACCHというプログラムは発達障害者の環境側を変えることで、支援をしようという発想である。残念ながら、社会というものは基本的に自己のルールを個人に対して変えてくれないことが多く、そのことが自閉症者の障害になっているのである。勿論、それは自閉症者だけの問題ではなく、適応障害で苦しむ人たちの多くが、社会の側の環境が自分に適応してくれないということによって挫折するのだと私は思っている。

言っても仕方ないことだ、と多くの人たちは思い、その話を忘れようとするだろう。けれど、この社会構造が個人にとって巨大な鋼鉄の壁のようなものであるとしても、言語化することで問題を可視化することには意義があると私は思う。不条理は仕方の無いことだが、本当にどうすることもできないものばかりであろうか。

例えば、インドでレイプされた少女が死刑になった。それは、その社会にとって仕方の無いことだったのだろう。それは、多くの人たちにとって、取るに足らないこととして忘れ去られてしまう出来事なのだろう。その自然ななりいきに私は歯止めを掛けたいと思う。

自然の道理が当然とする考え方というのがある。それは一見とても正しいことのように思えるが、私たちは正しいことに寄りかかりたくて、そういう考えを支持するのだ、と思っている。それは恐らく生きることの不安に兆しており、安易な手段である。日本人はどうも無宗教であることを善であると思いたがっている。それも安易である。

正直者が馬鹿を見る社会は狂っているなんて考えは安易である。例えば、清貧に生きることは、清貧に生きる以上の価値を持たない。そこに価値を見出すのは、エコか宗教か。恐らくは恐怖や不安や逃避的事情から、考えることを放棄したくて仕方が無いので、安易な最寄りの宗教的価値観に寄る辺を求めるのである。

それは自然ななりゆきだが、それが正しいと思うのは安易である。人間を恐れずに興味を持って近づいてきた野生動物がどうなったか、というと、乱獲されて絶滅したわけである。それが私たちの信じてやまない自然のなりゆきの一つである。

子どもの能力に合わせた教育というのは、自閉症児にとって特に重要になってくることであるが、それは彼らの社会性の障害によって必要とされる問題である。テンプル・グランディンがその才能を開花させたのは一重に周囲の人間に恵まれたためであるだろう。アメリカでもそうした環境を得ることは難しいらしく、日本では尚更だろう。教育を受ける者が社会の都合に合わせるなければならないのだという考えは根深いように思われる。

相手の立場に立って考えられる教育者でなければダメなのだ。そういう人がまだまだ少ないのであろう。

逆説的に言えば、社会性というのは社会のルールに適応できる柔軟な能力なのだろう。私は職業適性を測るための性格診断というものを何度かやらされたが、いずれも頑固で融通が利かないと言われたのである。その結果として、示唆される職業は大体同じである。自閉症の人たちはその障害によって性格としていつでも特定の決まりきった分別をされてしまうことには問題がある。

私たちの考え方は、ニキ・リンコが自著で述べているように、Only-oneみたいなところがある。彼女はトイレというものは、あるメーカーの名前が彫ってあるものであると思い、それ以外はトイレではないと思った。『自閉症感覚』で例に出された少年は黒い便器以外のトイレはトイレではないと思っていたのである。

私たちは、恐らく抽象的な概念を受け入れるためには、多くの具体的な事例を実際に目の当たりにしなければならないのではないか。一つのトイレという概念を知るためには、幾つもの実際のトイレを見て、それらはトイレであると学習し続けなければいけない。それは視覚的イメージと言えるだろうか。実際に見て記憶して貯めた多くの写真のアルバムが「トイレ」という概念としてまとめられているのではないか。

私の解決したい問題の一つは、私が言葉は知っていても、それが何であるのか実際には良くわかっていないということである。それは非常にもどかしい問題で、他人とのコミュニケーションにおいて、自身の発言に自信が持てない一つの理由でもある。私は自分が話すことについて、実は良く分かっていない・・・ということ。私は良く分かりたいと思うのだが、どうすれば良く分かるのかが分からないのである。私の認識に確信を持ちたい。

知っているということが分からないのである。

その解決の一つのヒントが、この般化という概念にあるのではないだろうか。