LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

虚無主義と楽観主義

幸せを感じられない時期が長く続くと、人は生きること自体に価値を見出せなくなる。

それは当たり前のことである。

生理的にはうつ病になり、死んでしまうだろう。キルケゴールの哲学は良く知らないけれど、『死に至る病』という名前だけは、記憶に残っている。うつ病というのは、死に至る病である。

虚無主義といって、人生には何の価値も無いが、それを超越した超人になるのだ・・と言っても、恐らく普通の人にはピンと来ないだろう。僕は悲観主義とか虚無主義とか気取っていた時期があって、あぁ、同じ心性だなーと思っていたことがある。だから、やはりニーチェ自身が普通の精神状態に無かったのだろうと思われる。こういう人は人生に価値を求めたい=幸福になりたい=でもなれない、なれるわけがない、というループの中にいるのである。ナルシスズムの地獄というような言葉で示せば良いのだろうか。その葛藤が思索を呼ぶ。サルトルを良く知るわけではないが、彼の『嘔吐』なんかもこの系譜だろう。所謂『アウトサイダー』の多くは鬱的な心性の思想なのだと思う。

映画『クロニクル』のアンドリューや漫画『ヒミズ』の住田なんかは、そういう精神状況に入り込んでしまって抜け出せない人たちだと思う。『新世紀エヴァンゲリオン』もそう。

それは悪い環境に浸かっていれば仕方の無いことである。偉そうな哲学を語ってみても、人間とは所詮、環境に囚われた生物である。哲学というと『クロニクル』のマットは何かと哲学の話を持ち出してインテリぶるのだが・・(笑)それは視聴者から見ると滑稽に見える。稽とは「かしこい」こと。滑とは「すべる」こと。賢さが滑ってるのだろう。

哲学史を読むと、科学が無い時代から「この世は何でできてるのか・・・火だ!いや、水だ!」などと問うてみてるわけだけれど、それは当人たちは大真面目に悩んでいるわけである。現代から見ればこういう人たちは滑稽である。ただ思索というのは解決の糸口を探して格闘する作業なのであって、滑稽であるという失敗を辿らざるを得ないのだと思っている。

その失敗の蓄積から糸口が掴めることもあるし、掴めないこともある。私は哲学というのは、そういうものだろうと思う。だから、滑稽であることも大いにその内に含まれているのである。現代芸術などが滑稽であるのも、それはその内に含まれるものなのだろう。我々は悩み、行為し失敗を繰り返すことによって、どこかの出口へ出ることを期待している。

ただ鬱病など外へ出難い構造を持つものが現実にあり、そこに溺れると死んでしまうこともある。例えば悪性新生物(ガン)との戦い等もまた出難い構造を持つ現実なのだろう。

哲学的問題の多くは現実的な方法によって解決されるべき問題であると思う。平和な状態において、人はその環境の中で生きていきたいと思うだろう。ストレスフルな環境は平和だとは言えない。隣室に敵がいては寛げないだろう。

そういう環境が続くと人はもう生きていたくないと思うだろう。私は人間の大きな問題はこの二つの単純な要素であると思う。人間とて動物だから幸福の条件は犬猫の幸福の条件と同じである。

死後に天国を求めるのは現世が鬱的であるからだろう。現世が楽しめていれば救いは必要無い。現在でも多くの地域は過酷である。そういう日常の中では救世主を必要とする、ということなのだろう。戦争と平和・・・人は二極の心理に踊らされているようなものである。

戦争が起きていて平和ではないから、不幸になるのである。

戦争は多重的な意味合いを持つ。

病気との闘いも戦争であり、個人間の諍いも戦争である。

それらが解消されないうちは平和ではないから、不幸になるのである。

そういう意味では日本は平和ではない。

自閉症者は多くの戦争を避けられない。

平和では無いから、不幸になるのである。

けれど、平和になるために思索するのである。模索するのである。

自分に何ら価値が無いとしても、平和であれば生きることは楽しめると私は考える。

私は楽しんで生きたいと思うし、楽しむことが好きである。

けれど、それは自己実現とか世間並みの幸せとか・・・押し付けられる楽しみではない。

自分が安心していられるうちは、楽しみなんて茫然としていても得られるだろう。

したがって、人間の幸福とは平和であり、戦争状態から何とか抜け出すことである。

だから、戦争状態にある人は、まずそこから何とか抜け出す方法を考えることが先決だ。

私が適当に考えてみても、現代において、平和とは専ら自らの手で築かねばならないものである。

例えば、まだまだ人権とかが軽視されて、生存権自体が脅かされることが多いという意味でも平和ではない。

自殺者が年間3万人いるような国は平和ではないのである。

それが真理とか何とか言うよりも、この時代と場所と生まれの関係の都合である。

基本的に人間に生まれたこと自体、不条理である。私からすると自我を持つこと自体が不条理である。

地球に生まれたら割と多くの人が死んだらもう起こさないでくれと思うわけである。

少なくとも私はそう希望している。

生まれて見たらば、戦争と、資本主義と、競争と、病気と、過去の歴史と、そうした状況が現にあったというだけの話であろう。新しく買ってきたゲームを他人のセーブデータでゲーム始めたみたいな状況である。

その状況を見て、あー・・・ダメダメ。戦争とかダメだわ。マジ、つまんねーわ。あぶねーしって言って、みんなが平和で幸福な生活が送れるように頑張ろうぜ!とかヒューマニズムな人たちとかが言ってるんだと思う。基本的には、私もそれに同調する。けれど、多くの人たちにとって方法が良く分からないのである。なので、頻繁に滑稽なことを繰り返すのである。それが滑稽だと分かる人は既にそこを乗り越えている賢い人である。それかあーあれね。あれあれという感じの知ったかぶりの人である。

私は賢くなりたいと思っている。

まぁ、要するに、不眠症なので枕を高くして寝たい

タイトルに書いたからちょっとだけ書くけれど、楽観主義の人もいて私は羨ましいなーと思うのである。アルノ・メルッチという人は未来に対して楽観主義だった。私はこういう人は枕を高くして寝れるのだろうと思うし、なので羨ましい。自閉症者は割り切ることが難しいので、中々枕が高くならないのである。

世の中の情勢を見ても、自分の置かれた立場を鑑みても、中々枕が高くならないのである。

けれども、だからといって、日本においては、どうして自殺したらいけないの?この世に意味は無いし、死にたいんですけど・・・と思い立ったら、とりあえず精神科へ行けと忠告するだろう。自殺する権利については議論されるべき価値があると思うけれど、鬱病という心の病である可能性がある。周囲の支援やサポートを使って、とりあえずその状況から抜け出して見た方が良い。

それは一極の精神状態なのである。虚無主義は正しいかもしれないが、人間は環境によって幸福に生きられる生物である。幸福に生きていられる内は人生一般とか自分自身にこれといった価値や意味が内在していなくても構わないのでは無いだろうか。

虚無主義の提起の起点は、自分が辛いということであるように思える。苦悩から来ている虚無主義は、死への誘いみたいなものだと思う。そういう虚無主義は自殺の理由として使われてしまうだけのイデオロギー(価値観)だと思う。

そこを踏み越えた超人なんてものにも価値は無い。類似しているのは、ガン患者が自分の死を受け入れる際に経る心理プロセスみたいなものである。このニーチェの言う超人というのは不条理に対する諦念の境地に見える。鬱的な環境を打破し得ない際にどのようにその状況をクリアしていけば良いのか・・・という問題は熟考に値する。

けれど、純粋な虚無主義、それ自体は不可知である以上、殆どナンセンスなのでは無いだろうか。同時に、人間は生きているだけで素晴らしいと思える生物である。別に人間が生物の頂点だから素晴らしいというよりは、他の哺乳類と同様に適切な環境が整ってさえいれば、精神的に満足できるという意味において、大抵の人が普通は人生は素晴らしいと思い得るだろうということである。

関係の無い統計であるかもしれないが、年収が一定以上の人の幸福度はあまり変化しないというデータが有名である。その年収というのが、つまりは適切な環境を揃えられる程度の収入なのだろう。

人生が、人間が、宇宙が、無価値であっても人生が素晴らしいものだと自覚するのならば、人はそれを謳歌しようと欲するだろう。