LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

ブログを書く意味

泉流星さんが、ブログで、誰も読んでいないだろうにブログを書いている意味があるんだろうか・・・と書いていて、私は自分も似たことを考えていて、あぁ、同じような脳だな・・と思った。

ドストエフスキー地下室の手記は、男の日記という形式で書かれているけれども、読者を想定しているということの矛盾?を男自身が手記の中で指摘している。

このブログも特別だれかに当てて書いているわけではないのだが、自分しかアクセスしてないよなー・・・とか思ってしまう。相手の存在を期待し、振る舞うのである。よくあるブログは毎日私はこんなにハッピー!なんて言いながら、毎日が驚きに満ちて色んな経験をした記事を書くのだが、実際には、そんな経験はしていないとか。

自己顕示欲というか、自己承認欲求というか、自分を見ていいねって言って貰いたい意識が確かにあるわけである。私自身はそういう意識を拭いたいという意識がある。地下室の手記の男が述べていたのは確かそういう意識なんじゃないだろうか。僕、構ってちゃんじゃないよ!みたいな。

ツンデレですね。

私は人に喜ばれたいとか、人を楽しませたいとか思うけれど、発達障害は、それらの希望を満たすには障害になる。滑稽なことを繰り返して、傷つき、しまいには人と関わることを恐れるようになってしまう。テンプル・グランディンのユーモアとかは、きっと、他人と分かち合いたい/シェアしたい欲求なのだと思う。自閉症の人にそれが無い訳では無い。けれど、残念ながら必要なセンサーが備わっていないのである。だから難しい。伝わり難い。

他己的な欲求も度が過ぎれば迷惑になるもので、他者依存は相手の負担になり、自らも他人という支え無しでは立っていられなくなる。だから、私は他人に甘えたくないと思うのである。母親などは厄介なもので共依存的な関係を求めてこようとしがちである。けれど、子供は親の所有物では無いし、それはまともな関係では無いので、可哀想だがお断りした方が良いと思う。厳しい意見なのかもしれないが、それは恋人や夫婦も同様である。

共依存的な関係を結ぶか否か・・・それは当人たちが決めれば良い問題だが、私は誰かと心中する気にはなれない。コミュニティがある限り、私たちは何かに依存しているので、完全に自立することは可能ではない。そういう意味において、私の言う自立は不十分な話である。この自立を自由というならば、自由は歴史的に築かれ広げられてきたものである。

共依存的な関係は半ば強いられることが多いと私は感じるし、それは防ぎようが無かったりする。けれど、自ら選択できる自由がある程度備わっている現代の日本において、私はある程度、それを取捨選択していくだろう。

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普通の人は他人と自分との距離感を上手く図ることができて、コミュニケーションに過度に依存しないで割り切れるものなのかもしれないが、私はそういうことが上手く出来ないと思う。したがって、一度相手に寄る辺を求めてしまうと共依存を形成しやすい。

仲の良い夫婦の片割れが亡くなるともう一方も後を追うように亡くなるという話を割と聞くのだが、それは共依存的な関係によって保たれていた平和が、相方という支えを無くして折れてしまうからだ、とイメージするのである。そういう時期に人は弱くなってしまうと思う。

人間は社会的な動物だから、一人では生きてはいけないけれど、拙い関係に全てを任せてしまうと自己の平和が脅かされやすく、脆くなってしまう。恋人なんかが典型的だし、アイドルの後追い自殺なんてものも、同様である。その関係に自分の全体重を預けてしまうと、その支えを不意に失ったときに倒れてしまうのである。

だから、私は自立したいと思うのである。立つということが案外に難しい行為であることは、幼児が証明してくれる。立つという行為はバランスを取ることで成り立っているのである。直立不動なんていうけれども、実際には動的な動きだと自分は思っている。電車で立つことを考えて欲しいが、電車の動きに合わせて自分が応答するということの連続によって、私たちは立つ行為を持続させているのである。それは他の地面に対しても同様である。恒常的なフィードバックの中に居ることが立つという行為である。それは継続的なバランスを保つ運動であると考えて見れば良い。

私が自立しているというとき、それは静止したある状態を指すように思われるが、実際には、現実という横風に抗うことで立ち続ける連続的な行動の中にいる状態を表しているのである。仮にその人が何もしていないとしても。生きている限り。それは揺り動かされ続ける起き上がりこぼしのようなものだろう。

人との関係性もまた揺れの中にあるのである。関係性には濃度というものがあって、それをサーモグラフィーのように計りより適当なフィードバックをかけていくということが社交性である。自閉症はこのシステムに異常があると言われている。しかしながら、基本的に対人関係とは波のようなものだと思ってみてはどうだろう。永遠の愛のようなものは存在しないのだと。信頼関係は常に気温のように上下し変動続ける波だ。どのような形であれ凍り付いた波など存在しないのだと。

そういう意味において、コミュニケーションはサーフィンのようなものなのだろう。だから、相手との愛も常に計り調整し続けなければ維持されないのである。この点を誤解している人が結構いるように思える。永遠の愛とか絆という形而上学的なものを想像しても、それは絵に描いた餅である。相手がそのファンタジーを信じている限り、関係性は上手く維持されないだろう。私をみてくれてないでしょ!ということになりかねない。

忙しい話だけれど、私たちは常にアップデートされ続けなければならない。

えーと、このブログの目的だっけ・・・。それは何と言うか自分と同じような人に対して、私はこう考えて見るんだけどという程度の話だろう。本当のところは良く分からない。色々なエゴを正当化しているのかも?

私たちは自分の思考が固有だと思っているが、実際には類型である。私がここで語った話も他の誰かが通った道と通じているだろう。あるツイッターのコメントを読んでなるほどと思ったのは、どんな極端な思考の人間でも、その人と自分という人間とは地続きなのだ、というのである。それは細い道かもしれないけれど、実際に通じているのだ・・・と。

例えば、自爆テロで命を落とす青年の心性と私の心性とはどこかで実際に通じていて、通る道によっては、きっと同じ結果を辿るだろう。

私は浴槽の掃除の方法とか分からないことをググるのだけれども、インターネット上の情報のおかげで解決策が見つかり助かるのである。

浴槽の掃除なんてものでなくても、映画『ツレがうつになりまして』では、自己啓発本を軽視していた編集者が、そうした本に関わることになってから、そうした本に救われる人もいることに気付いたというエピソードを紹介していた。

こうした何気ない発信一つとっても、誰かにとって利益になることもあるのかもしれない。私の発信の一つがというのではなく、不特定多数の人たちの無数の情報・・・それ自体が。

寄生獣』で寄生獣側が、人間は個ではなく、全体として人間という生物なのだ・・・!と言っていたように記憶している。私のこのブログというのは、その程度の意味である。大河の一滴みたいな。言いたかっただけだが。

具体的な話をすると、少数者の人にとって、ネットは、同じ悩みを抱えた人同士を引き合わせてくれるという面を持っている。その問題が私だけのものではないという発見自体に救われる人はいると思う。特に私秘的なこと(隠しておきたい恥ずかしいこと)について情報を共有できることは心強い面がある。インターネットが無い時代には家庭内に隠されてしまったような物事が公共の場所に暴露されてしまうこと。匿名であることで可能になること。

まぁ、良いことも悪いこともあるけれど。

特に、発達障害者にとっては、この情報が共有されるということが特に大切な意味を持っていると思う。

甲殻機動隊』でタチコマたちが電脳世界で議論しているという場面が、私のインターネットのイメージである。あれは、理想的な電脳世界な訳だけれども・・・。実際の書き込みを見て分かるように、現実には取り除きたい多くのノイズがあってそうスムーズに行くものでは無さそうである。それを一部の人は「新世界」だという。

イメージの話としては、狭い世界から広い世界に暴露されていくわけである。井の中の蛙が井の外に出たみたいな。それは良し悪しなんだけれども。井の中で満足しているなら、それで良かったかもしれないのだから。けれど、そこで得られないものがある場合には、私は外へ出ざるを得ないと思う。私は外へ出なければ死んでしまうと思って、そうせざるを得なかった。

そして、例えば図書館の様々な著者の言葉を浴びて自分の経験と縒り合わせて、色々と考えることで、こう必要な情報に出会うことができたというか。

ネット上の大量の情報も結局のところ、図書館のようなもので、私はそこに私はこう思うというところを書いたエッセイを一冊紛れ込ませているわけである。それをふと手に取った人が読んで、何かしら得ることがあるのかもしれないし、ないのかもしれない。

まぁ、あまりにこの世界は広すぎて、グーグル先生のご機嫌伺いとかをしなければ、この文章は誰にも顧みられることは無いのかもしれないが(笑)

けれど、このブログが誰にも顧みられず埋もれていくこと。それ自体も想像してみると一興である。