LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

他人であることが配慮に繋がっている逆説

自身のことを回想してみると、私の身内は私を理解してくれようとはしてくれなかった。

実家から出て、地方の大学でサークルに入り、周りの人と否応なく触れあうことになり、

そこでの関係の方において、他者は私を理解しようと努めてくれることが多かった。

家族より赤の他人の方が自分を理解しようとしてくれていたのである。

そこには他人としての壁と、だからこそ、相手と距離を測って、理解しようとするコミュニケーションの努力が観られた。

毎年、新入生がサークルに入ってくるのは、抵抗のあることだった。だから、有体に言えば、嫌なことだった。

それは普遍的なことなのかもしれない。あるいは村社会的な何かなのかもしれない。

けれど、サークルは毎年新入生を迎え入れなければならない。

入れなくても良いのかもしれないが、存続させるためであるとか、何かしらの理由を付けて、

そういうことになっているのである。そうしなければいけないような合意がそこには生じている。

そうして入ってきた新人は先住民にとっては面倒臭いヤツだが、一年か二年か長い時間がかかって、相手への理解が及ぶようになり、互いに受け入れやすくなっていく。とりあえず、こういうヤツなんだなということはわかる。それが許容できる範囲内であれば、受け入れられるだろう。

他人であるという抵抗感が相手に対する距離感を自ずから測らせようとする。

人は身内であっても、距離を測る必要があると私は考える。

けれど、一般の人が理想とするのは、家の中ではあるがままでいていい私である。

その理想に合うように現実(家庭における対人行動)を捻じ曲げて振る舞っているので、摩擦が生じるのである。

基本的には、恐らく、どの私もペルソナ(仮面)である。一人称を私というか僕というか俺というか・・・。その辺りから、既に演技である。言語的思考は演技だと言える。方言を使う私はそういう仮面を付けた私である。そこにあるのは愛着であり、自分にとって愛着のある仮面を選んで、それこそが私だと錯覚しているに過ぎない。

普通の人は無自覚にペルソナを使い分けているので、このことに気付きにくい。対人相互作用の場においては、関係性に関わりなく、相手との距離を常に測らなければならない。電車において、人が寝たふりをするのは、相手との距離を測る緊張に耐えないからであると、私は考える。

電車で目を瞑ることは、寝るためではなく、相手との干渉を避ける文化的な礼儀である。音楽を聴く・スマホを弄る・本を読む・化粧をする、などの電車内での行為は、相手の目を気にしている振る舞いである。そういう電車内での個人的行動は私は危険じゃないですよという他人向けの信号である。要するにこの場で推奨されているのは無関心を装うことである。

対人相互関係においては、緊張状態が生じる。例えば満員電車でその緊張を緩和する手段は互いに無関心を装うということであるのだろう。その暗黙の合意によって、満員電車という緊密な接触状況に耐え得ているのである。

家庭の場合も同様であり、他人に無関心を装うのは、緊張に耐えられないためである。対人相互環境の影響を緩和するために互いに無関心を気取り、緊張を和らげているのかもしれない。けれど、それはコミュニケーションの意図的なシャットアウトであり、距離感の調整のし合いというのを一時的に投げ出すものだ。要するに、そのままの状態に拘泥しようとし続ければコミュニケーション不足で相手への理解は深まらない。

その結果として、無視している緊張感(空気)に焦らされていく。教室の授業中の張りつめた空気は、ストレスの貯まるものではないだろうか。そこで行われる意図的な対人相互関係のシャットアウトは気を遣う行為である。気を遣っているのだから当然気疲れする。

それが苦にならない人もいれば、苦になる人もいる。普通の人はその緊張によって意識しない程度にしか疲れないのかもしれない。自閉症の人はそういう場の緊張に対する免疫(心の理論)が無いために、他人より殊更に疲労してしまうように思われる。だから他人に対して耐え難さを感じるのである。これはSSTの問題では無い。私はこれを指摘されている著作を見たことは無いと思うが、自閉症の社会性の大きな障害の一つは、対人相互関係の生じる環境に対する生来の耐え難さである。

音や感覚に対する普通指摘されている過敏さとは違う困難として、それはあると思う。それは明らかに他人の感情が読めない?とかいう自閉症の心の理論に対する障害の根本の部分が影響している不具合である。

私は都市を散歩して帰ってくるだけのことで気疲れして、その日は動きたく無くなってしまう。私には、そういう性状があまり認知されていないように思われる。私にとってこの問題は自己の困難の中で大きなウェイトを占めているのにも関わらず・・・。

それは普通の人にとって問題にならない程度のことであり、可視化できない問題であるせいだろう。まぁ、探せばあるのかもしれないが。私にとっての感覚過敏とは多く、ここに問題を生じているが、多くの著書で指摘されているのは、五感の・・・皮膚感覚的な問題である。けれど、社会性の困難に直接響いているのは言語的・視覚的・動作的なコミュニケーションの問題だけでは無いということを指摘したい。

指摘したいというより、私は、それがあると賛成して貰いたいのである。どうしようもないじゃんなんて理由による無視は問題の放置である。例えば、自動車事故に遭う確率とか、病死する確率とか、結婚できる確率とか、戦争が起こる確率とか、地震が明日起きる確率とか、いつか人類が滅びる確率とか・・・何か、言ってもその場では仕方の無いことのように思えても、我々はそれを銘記すべきである。

例えば、世の中の空気が目には見えないが存在するということは、周知のとおりである。私のこの耐え難い感覚は普通の人からすれば、宇宙人が地球に来たことがある、というくらい不確かで存在が信じられないものだろう。私もグレイがいるとは信じていない。けれど、例えば、最近の科学の知見から言うと、量子の性質を利用した物質のワープなら実現できそうである。さておき、私は宇宙のどこかには生命体がいるだろうと思う。

視覚化できない問題が、あるかないかという問題を、信じて貰うことは難しそうである。けれど、見えれば良いというのなら、対人相互環境に置かれた自閉症の人の脳波と普通の人の脳波を比べると、何かしらの過剰さが見つけられるかもしれない。

何やら話が逸れてしまった。

この回でのテーマは、親しき仲にも礼儀あり、ということである。親しく無い仲には礼儀があることが多いが、親しくなると礼儀を失っても構わないだろうと考えてしまうと、相手との距離感を見失って、良い仲を維持することが困難になるかもしれない。相手とどれだけ親しくなったとしても、相手と関わり続けようと思うなら、コミュニケーション(模索)は持続的に行われるべきものである。

余談だが、昔、私の考えた人生の意味とは生活である。

掃除されない部屋は埃や汚れがたまっていく。人は環境衛生を保つためにそれを定期的にケアしなければならない。体重が増え過ぎたり、減り過ぎたりしないように、健康を失ったりしないように食事を調整しなければならない。働く支障が出ないように、健康を維持しようと努めなければならない。話題についていくために、あるいは仕事のために知識を蓄え続けなければならない。

現実の変化に対して応じるためにフィードバックし続けるということが生活するということである。

生きる意味は生活それ自体にある。

ウィトゲンシュタインに言わせると、これは同語反復で無意味なのだろう(笑)

けれど、正しいフィードバックは、自己報酬的行為になると思うのである。例えば、こんな例で悪いけれど、排泄がそうである。これは排泄自体が気持ちが良いことであるから、それを繰り返すことは喜びである。

まぁ、痔になったりすると排泄が苦痛になるのだが・・・。それは治療する等して、正しいフィードバックの循環の中に戻れるようにするのが理想である。病気は悪循環なので、そのままにしていると割と死に至る。

そういう善循環?の中に戻れない場合には、死ぬか、死にたくなると思う。

ただ基本的に善循環の中にいる間は生活は喜びをもたらしてくれるから、自身にとって無意味ではない。

人間の目的が幸福であるというのなら、的を得た話になるだろう。

それは分かっている人にとっては、敢えて言う必要の無いことなのかもしれない。

けれど、私は分かってなかったし、そういう回答で良いのかどうかも分からないのである。

けれど、特には医療や福祉という活動の中に見られるのは、生活をスムーズにしたいということである。

自然は辛くて、歴史は不条理で、その中での生活は苦しいものだった。

私たちはそういった理不尽な苦難を乗り越えたいと思っているのだと思う。

要は、生活というものを安楽にしたいのである。

自身にとっての本能は自己保身である。だから、生活の安楽は、利己的に自己の生活の安楽のみが満たされれば良いと考える。けれど、理性的には人類全体の生活の安楽を目指さなければ、自己の生活の安楽の基盤も怪しい。例えば、インフラが良い例である。公共の福祉に利することは、自らの利になる。

例えば、中国の汚染された空気が日本に飛び火してくるように、他人の不幸も、私の不幸になる。良いことも悪いことも結局は巡ってくるかもしれない。

そう考えると宇宙船地球号的な視点から生活を捉えて、これを良くしていこうと思うのも、人間の生きる意味なのだろう。そういう意味から、隣人を助けるのも、他国の人間を支援するのも大小ではない。例えば、街の掃除をしてくれる人たちに私はものすごく感謝している。私は清潔な街を利用したいから。けれど、そういう仕事は日本の資本主義のルールからはあまり評価されない。人のやりたがらない仕事ほど本来その働きに報いられるべきなのだ。私は掃除には立派な価値があると思っている。

医者もすごい仕事である。労働環境について私は敢えて触れず、医者の本質的な問題についてのみ触れるが、私は血を見ることに耐えられないから、医者という仕事をすることはできないだろう。それに耐えて仕事を続けられるということに私は関心する。

サービス業も同様である。沢山の理不尽な客が訪れる。私はそれに耐えられないだろう。泉流星という作家も書いていたがレジ打ちの仕事でさえ、私は尊敬している。自閉症者には他人と直接接する仕事というのは困難である。それらの仕事がどれだけ私たちの生活を支えていることだろう。自分の仕事に価値が無いと思う人は、きっと不法投棄や悪質な仕事に加担しているわけでないのなら、そんなことは無いと思う。

社会の歯車なんていう言い方をするけれど、歯車が無ければ社会は動かず、みんな死んでしまうだろう。仕事自体の価値というよりは労働環境の暴力的な問題に苦しむことの方が多いと思うけれど・・・。それらは勿論、改善されていくべき生活上の課題だろう。

まぁ、いずれにしても生活する上では、その概念の大小にかかわらず、自分にも他人にも出来れば良い影響を与えるようにした方が良いと私は思う。情けは人の為ならずという言葉も今でもそうだよなーと思っている。