LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

礼儀と振る舞いと尊重

礼儀というと無骨な印象を与えるから、マナーと言っても良いかもしれない。

人が互いに気持ちよく暮らすためには、お互いを尊重し合う必要が生じる。

社会のマナーを守ることは、多くの場合、他人が嫌な思いをしないようにという配慮である。

相手を尊重し尊重されること、それには共感が必要だが、

その分かっているということは信頼関係である。

自分が相手を尊重し、相手が自分を尊重してくれる場合、平和的に共存することができる。

他者との対等な共存において、平和の起点はここだと思っている。

嫌な仕事ほど、それに対処するためのアイディアと工夫と支援とを必要とする。

目を背けたくなるような掃除を楽に行えるようにするための工夫を凝らすことはとても大切である。

耐えきれないことを耐えられることに変えていくこと。

それは忍耐によってではなく、創意工夫によってされるべきである。

そうでなければ、嫌な仕事を弱者に乱暴に押し付けるか、自己犠牲を他人に強いるだけである。

他人任せにしないで済むようにするためには、忍耐より楽に行える方法を工夫した方が後々のためにもなる。

そうした我々が気分よく暮らせるための創意工夫を凝らした構造化が十分でなければ、

私たちは他人に犠牲を強いて、その結果、尊重し合うことができなくなる。

こうしたことは、個々人の道徳意識に頼っていてはいけない。

私たちは利己的だから、殆どの人が誰かがやってくれるのを待っているだけだ。

困難なことであるほど。

だから、その困難さのハードルを文化的に下げていくことができれば、

多くの人がいっちょやってやろうかという気になれるだろう。

他人の尻拭いを不快で苦痛になるような思いを少なくして熟せるような工夫をしていくことは、

とても大切だ。

Amazonの倉庫が機械化されるというような話を聞くが、本来、機械化は和らげるための手段である。

パソコンや携帯がそうであったように競争原理の構造の中では、効率化の側面ばかり顧みられてしまうようだが。

競争原理の中で戦っている人は、それを現実として認識して語るが、その空気感は現実の一つの側面である。現実は多様な側面を持っている。万能感に満ち溢れている若者とリストラされたサラリーマンの抱える現実認識は対極にあるものだろう。勿論、色んな若者とサラリーマンがいるに違いないが。

ただ、そうした苦しみの中で、それが現実だと認識している人は、他人への尊重など忘れてしまう人が多い気がしている。殊に日本人は匿名の環境において、それが顕著に出る。ばれなければ狡い手段を使っても良いという認識を抱えがちだと思う。

自由と殊更に言うときには、自分に対するしがらみは暴力的に破壊されるべきなのだろう。勿論、自由という表現の認識において。だから、酒を飲んで我を忘れるとか、麻薬で前後不覚になるとか、他人への理性の一切を排除することが自由だと受け取られている場合があるように思える。

それはただの傍若無人である。理性のタガを外すことを自由と呼ぶのなら、例えば重度の認知症は自由なのかもしれないが、誰もそうなりたいとは思わない。教育されていない野生児は悲劇的である。

自由という言葉を使う場合に、そのニュアンスとして近しいものを挙げる。平和・調和・安心・安定・秩序・混乱していないこと・楽であること・守られていること・恐怖にさらされていないこと・穏やかであること。心理的・肉体的に強いられていないこと。

理性は判断能力である。それは大抵の動物が持っている。理性があるから自由を謳歌できると私は考える。自由は主に環境によって構造的に与えられるものだ。したがって、破壊は必ずしも自由を齎さない。安全な食品が食べられることも私たちの自由に貢献している。

何によって自由が妨げられているのか、よく吟味してみるべきだ。多くの場合、何らかの無理があるのだと思う。それを変化させることこそ大切なのであって、破壊は手段の一つに過ぎない。浴室のカビを殺すように、人間を殺すことも一つの手段だろう。けれど人間を殺すということは他人を脅かす。そのルールが認められる場合、自分も脅かされることになる。平和でないのなら自由ではない。

自由は社会において個人的問題とは言えない。プライベートな部屋において、一定の自由は保証されるだろうが、それでも狭いアパートにおいては、あまり騒ぐことができないとか、何れにせよ、やっていいことと悪いこととがあると想像されるだろう。例えば、そのルールを破壊すること自体は何ら自由ではない。自由と破壊はイメージとして結び付きやすい。

そこで得られている自由は自由という言葉への社会のイメージであって、本来の意味における自由では無い。格好良いから煙草を吸うというのと同じである。イメージを買っているという自覚が無いのなら、それは偽ブランドを買って本物だと喜んでいるのと等しい。勿論、チンパンジー以下の道具を使用しないマゾヒスティックな生活を自由と定義してそれを行いたいのなら破壊は有効な方法なのかもしれないが。

私たち人間は言葉を使用できるが、問題は言葉を上手く扱うことは誰にでもできることではない、ということである。多分、ほとんど不可能だろう。厳密には言葉を使用して何かを証明することは不可能であることが証明されていると思う。そこまで言う必要は無いが。

誰もが何かを知らない。それは見ることができないから。そこには漠然とした自分的なイメージがあるだけである。言葉は自分的にはこう思うという範疇を出ない。互いに利用し合う中で何となく通じていれば良いのである。普通の利用の範囲では、その程度の認識だろう。

したがって、見えるものよりも、見えない言葉の共有は難しい。自由というのは特に難しい言葉である。愛がそうであるように、自由もそれが検討されない段階では、あまりにも漠然とし過ぎている。

そういう言葉を使うから、誤用するのである。そして、訳の分からない自由が氾濫するのである。愛も努力も正義も氾濫している。

私は思うのだが、自閉症の人にとって、これらの言葉は通用し難いけれど、だからといって、普通の人にとって、正確に通じている訳では無い。普通の人は空気が読めるし、相手の表情などから感情が読めるが、言葉の定義に無頓着であることが多い。伝わればどうでも良いとさえ思っている気がする。

その認識の結果として、言葉の上で致命的な擦れ違いを生じることになる。言葉より感情を大切にしていると言っても良い。それにも関わらず、表面的には、言葉で冷静に話し合おうと振る舞うので、互いにズレる。言葉のキャッチボールで遊びたいだけなら、それで良いかもしれないが、きちんとした議論にはならない。

まぁ、私たちは会話にならないのだが・・・。言葉の意味が分かっていないというのも指摘されるのは、自閉症者の側である。難しい言葉を使う割に分かってないよね・・・と。けれど、私たちは指摘をされることで、わざわざ言葉の定義について考えて見なければならない、という意味でそのことに自覚的になる。障害とは摩擦で、その抵抗感が何に由来しているのか考える切っ掛けになる。

あまりにもなんでも上手く行き過ぎる人は、きっと、あまり哲学的にはならないだろう。そういう人はそういう独特の思考の回路を建設しない。

言葉は後天的なものであって、先天的なものではない。言葉は道具だが、それがどういう道具なのか多くの人は無頓着である。そうできてしまう・・・ということが実は、普通の人の抱えやすい問題だと思う。

普通の人に欠陥が無いわけでは無い。自閉症の人も普通の人も人間の限界として、言葉を厳密には使用できない/しないということが言えると思う。その帰結としての結果への歪みが生じる。自閉症者は普通の人に憧れるあまり、彼らが完全無欠だと思いがちだが、例えて言えば、普通の人は普通の人で普通の人スペクトラムに属しているに過ぎない。

ガンダムなんかはそうだが、オールドタイプとニュータイプで分かれたり、普通の人とコーディネーターでいがみ合ったりしている。劣った人としての自閉症者像だとすると、例えば、ここでは自閉症者はオールドタイプということになるわけだが。少数派としてはニュータイプと言えるかもしれない。

自閉症者的な視点に立てば、自分がオールドタイプの位置にいると言う感じだろう。何かしらの変化でニュータイプみたいな人種が今後出てくると、普通の人がオールドタイプ側に押しやられるわけだが、その時、どう思うだろう。

みんなニュータイプに憧れて、自分がパイロットだとしたら、アムロやシャアの立場に立つ妄想をするわけだが・・・。現実には、そこだっ!て言われて無双で駆逐されるザクとかジムとかのパイロットだろう・・。

アインシュタインエジソン発達障害者(だったのかも)と言って、自閉症を天才に祭り上げようとする人がいるけれど、そうなろうとする必要は無い。私たちの励みにもならないだろう。普通の人にリンカーンとかいるじゃん、頑張れ、と言っているようなもので・・・。こういう話を前にもしたと思うけど。

それぞれの人の環境と教育の結果としての伸びしろは、それはあるのかもしれないけれど、それはわざわざ偉人になれと期待されるべきことではない。人権が尊重されその人の能力が活かされるような教育システムが仮にあったとしたら、勝手にそのように育つでしょうというレベルの話である・・・。

その辺の変な期待の掛け方は、インドの映画『きっと、うまくいく』で批判的に描かれていた。逆説的に言うと、ナンバーワン以外はロクデナシでそいつは必要無いからと言っているようにも聞こえる、という話である。

競争原理の中で考えてると、どうしてもそういう発想が出てくるわけで、東大以外はくたばれ!というのは、良く無い考えだと思うな。世の中には別の原理に基づく考えも色々あるだろう。多分。

そういうイデオロギーの立場に立って考えて見ることは、割と重要だと思う。人間の頭は自閉症だからかどうか分からないが簡単に狭い部屋に閉じ込められてしまう。だからこそ、仮に自分が別の立場だったら・・・と。そうして色々な立場に立って柔軟に考えたいなーと思っている。暗い考えに支配されるとそこから抜け出すことは難しい。例えば、そういうときに、All is Well と言えるような自力を備えたい。