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LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

大雑把な理解から徐々に調整されていく

人の物事に対する理解の深め方というのは、辞書を読んで丸暗記したら使えるというものではない。

車の運転などの運動スキルをみにつけるときには、最初は誰でも、ハンドルやクラッチの操作など、運転自体にかかわる部分に意識を集中しなければなりません。この段階では、脳の前頭葉がとても活発になっています。ハンドル操作などのスキルがすっかり身についたら、運転にかかわる一連の手順を、もう頭で考える必要がありません。運転は自動的に行われ、どうすればいいか意識しなくていいのです。この時点では、前頭葉はもう活発になっていません。運動皮質が取って代わるのです。こうなれば、いくつもの操作を同時にこなさなければならないというマルチタスクの問題が解消し、前頭葉は車の操作から解放されて、道路の状況に集中できます。『自閉症感覚』p286

言葉は道具である。言葉の使用は車の運転と変わらないスキルである。自分はそれを上手く扱えるという自覚された段階は習熟の結果であり、修練を要する。修練の結果、自動化された行為は、無意識にでも熟せるようになるかもしれない。

人間の生活の大半が道具を使い熟すことで成り立っている。そのことをまず銘記したい。

自動車の運転のように、大抵のことは、普通は、誰でも熟せるようになる。例えば、コンビニでどもってしまうような人は大抵の場合、修練が足りないのである。殆どの人は、その程度のことであれば、何度か経験を重ねる内に、必ず出来るようになるだろう。一度やって出来ないからと諦める人は、物事には修練が必要だということを忘れているのである。何かを熟せるようになるためには、週に何回でもチャレンジしなければならない。時間が掛かるのである。

勿論、人によってはセンスが無いことというのはある。考え方や感じ方など、個人の持つ色々な事情から扱いに必要なコツを見抜くことができないのである。あるいは力の弱い人が重い荷物を持ち上げられないように、単純に対処するための能力が不足しているのである。

したがって、修練したからと言って、何でも人と同じように出来るようになるとは限らない。その道具を効果的に扱うにはどうすれば良いか、と言った問題提起能力のようなものが必要で、それは好奇心や興味といった意欲や視点である。同じ動作を只管繰り返すだけの修練は効果的では無いかもしれない。

それは、ピントが合ってないからである。人は目的と行為を取り違えている場合が往々にしてある。日本人におはようと言えば伝わるが、英国人におはようと言っても伝わらないだろう。おはようの目的は挨拶なので、伝わらないことには意味が無いのである。

そういうのがコツである。

問題は、それにも関わらずおはようと繰り返し続けてしまうことにある。その修練は効果的ではなく、どこかで、その目的が挨拶なのだ、と気付かなければならないのである。それに気付くためにあえて繰り返し続ける必要はあるかもしれないが、時に立ち止まって考える必要もあるだろう。

そこで重要なのは、何が足りないのか、フィードバックを受けるという部分である。

丸暗記が招く問題は、ここにある。

道具は目的解決のための手段であって、本当に重要なのは目的を十分に理解することである。私たちは道具だけは手渡されて、その単純な使用法も心得ているが、それをほら動くよと見せびらかすだけで、肝心の目的を十分に把握していない。

そのような道具は玩具で、豚に真珠、猫に小判である。

学校では、少なくとも私が学生だった頃は、玩具の使用法についてしか教えなかったのだから、ほら動くよとしか言えない人ばかりが育つのは必然である。

目的を立てること、目的を理解すること、問題提起能力、問題解決能力、例えば、そうしたことが自分の頭で考えられる能力ということである。教えられていないことを学校で上手く出来るようになるわけはない。

知識は道具であり、それはそれである。

勉強が出来ることは、勉強が出来ることであって、それはそれである。

玩具に詳しい人はそれなりに重宝するのだから、それはそれである。

けれど在るものはそれだけではないということである。