LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

宗教と呪術と阿片

カール・マルクスは宗教を阿片のようなものだと呼んだそうだ。

共産主義マルクス主義を受けて宗教を否定したそうだが、

実体は宗教から自由にはなれなかった。

それは、日本人が自分たちは無宗教だと言うような無宗教であって、それは宗教である。

宗教というのは、思想である。主義・思想というようなものは、宗教である。

例えば、時代の空気なんてものも宗教である。少し前の日本のように、体罰の信仰は宗教である。

カラオケの強要、飲み会の強要、未成年者への飲酒の強要なども宗教である。

科学や論理への信仰も宗教である。

宗教はなぜ生まれてくるのか、考えたくないからである。理性的に考えるということはストレスである。

それは疲労を伴う行為である。特に答えを出すことが自分には難しい場合、それを理由を付けて投げ出したくなる。

そのもっともらしい理由が宗教である。

マルクスは宗教を阿片だと言った。その心は、考えることを放棄することである。

世の中の矛盾を解消しようとしなくなる・・・と考えたようだ。『池上彰の宗教がわかれば世界が見える』p33

要は良くしていこうという行為を諦めるのである。

それはイスラム教原理主義によく見られると私は思った。優れた文明を宗教のために否定するのである。

宗教というのは呪術と同じである。呪術というのは不条理に対する理由付けみたいなものだろう。

フレイザーは進化主義的な解釈を行い、宗教は劣った呪術から進歩したものであるという解釈を行ったが、エミール・デュルケームはこれを批判的に継承し、本来集団的な現象である宗教的現象が個人において現れる場合、呪術という形で現れることを指摘した。さらにマリノフフスキーは、機能主義的な立場から呪術や宗教が安心感をもたらしているいうことを指摘し、また動機という点から人に禍をもたらすそうとする呪術を「黒呪術black magic」といい、雨乞いや病気回復など公共の利益をもたらそうとする呪術を「白呪術white magic」とした。しかし超自然的なものである呪術だとしても、意図的なものと非意図的なものがあるとして、エヴァンズ=プリチャードは前者を邪術、後者を妖術として区別する必要性を主張した。

ビーティ(J.Beattie)は、呪術を象徴的な願望の表現とした。

レヴィ=ストロースによる指摘

レヴィ=ストロースは、思考様式の比較という観点から、呪術をひとつの思考様式としてみなした。科学のような学術的・明確な概念によって対象を分析するような思考方式に対して、そのような条件が揃っていない環境では、思考する人は、とりあえず知っている記号・言葉・シンボルを組み立ててゆき、ものごとの理解を探るものであり、そのように探らざるを得ない、とした。そして、仮に前者(科学的な思考)を「栽培種の思考」と呼ぶとすれば、後者は「野生の思考」と呼ぶことができる、とした[3]。

「野生の思考」は、素人が「あり合わせの材料でする工作」(ブリコラージュ)のようなものであり、このような思考方式は、いわゆる"未開社会"だけに見られるものでもなく、現代の先進国でも日常的にはそのような思考方法を採っていることを指摘し、それまでの自文化中心主義的な説明を根底から批判した。『呪術』Wikipedia

哲学と科学が地続きであるように、宗教と科学もまた地続きである。民間療法は多く宗教的である。その中から経験則的に利用できる物事が発見されてきた。

宗教の成り立ちに関しては、恐らく呪術的に何らかの説明を講じるというものだったのだろうが、問題は宗教というものが静止的なものであったことであろう。

その結果、より良くしていこうという動機の喪失を招く。

そして、信じて疑わないという行為は、思考停止である。問題への理解を主体的に深めるということがない。そういうものだからという理屈の無い馬鹿な理由を信じて疑わないのである。

それは安心したいためである。防衛機制と呼んでも良いだろう。

そうしなければ運命を耐えることができない、と思っているためである。

知性は後天的なものであり、感情は先天的なものである。本能と言っても良い。

生理的に耐えられない問題に対して、純粋に防衛しようとするのである。

この場合の純粋さは暴力であったりとか、忍耐であったりとか、素朴なものだと思う。

純粋さは決して良いものだとは限らない

宗教的な人々にとって、これらを疑うことは、自由である。

キリスト教徒の大凡の現代的な人々は神の存在を信じていない。

科学や生活水準が上がったり、精神の自由などの人権の流布から、

自分の頭で考えようとする余裕が出たのか何なのか知らないが、

信じる価値を失った教義からの解放は、当然の帰結である

宗教的なものの根本は何らかの状況から救われたいということであって、それは、問題を解決したい、ということである。大抵の場合、信じるだけでは救われないので、実際に救われる手段が現実に手に入る場合には、そちらを手に入れようとするのが人情というものである。その結果、万病が治る的な詐欺にコロッと騙されたりするのであるが・・・。

現代においては、少なからざる地域で、既に天国を求めなくても良いような環境が整っていると思う。そのことの当然の帰結としては、宗教的価値観の解体である。まぁ、全部が解体されるというよりは、要らないものが排除されていく、ということだろう。呪術や民間療法や思想や哲学の必要でない部分が排除されていくように、宗教も必要で無い部分から削られていくという経過を辿るのが当然である。

特に不条理に対しては、そうなるだろうけれど、道徳(モラル)に関してはどうだろう。自らの頭で考えたくない・考えられない人は最寄りの宗教に救いを求めるのだろう。

世の中には、黄金律というものがあって、論理的に考えたとしても、そう間違ってはいないルールというのがあるので、それに従う限りは良いのかもしれない。一年が365日で一週間が7日であることを真理だと思っていても、特に不都合は生じないだろう。ただ、みんながみんなそんな風だともうダメだと思う。

周りがそう言っているからそれが真実なんだと信じてしまえるような人は愚かである。そういう正直者が馬鹿を見るのだとしたら、それは当然であろう。自分の頭で考え続けることを放棄してしまったら、赤信号みんなで渡れば怖く無いとなり、それが赤信号だということにすら気付かないのである。

そういう素朴な良い人というのは、私は不安である。

前にも書いたが、我々は常に動き続ける生物なのである。思考は疲れるから、どうも止めてしまう人が多いのかもしれないが、そうすると世の中に取り残されてしまうだろう。そうして、世界からズレてしまうと、周りが何を見ているのか分からなくなってしまうと思う。

そうすると、周りで何が起きているのか分からないということが不安になる。その不安を安心させるために宗教に寄る辺を求めるかもしれない。それが良い宗教なら良いが、そういう人に良し悪しを判断できるだろうか。

学び続けなければならない、ということは、人間の業だろう。

それに疲れてしまうということが良く分かるからである。