私は物事はケースバイケースだと思っているのだが、そういうことが批判されることがある。理念が無いとか言って。
私は優柔不断でそのことを苦にしていたから、ケースバイケースという考えもそれに結びついて考えてしまいがちだ。
けれど、宗教という問題を見ていくと、理念があることで融通が利かなくなってしまう、という風に思われる。
私は現実に対しては論理的な対応を重ね続けるしかないと思う。それをケースバイケースだと言っているのである。
何にでも一つの方法で取り組むことは漫画の主人公としては分かり易くて良いかもしれないが、現実的には効果的では無い。
馬鹿正直な人間は挫折する。宗教を原理主義的に考えている人は馬鹿正直である。馬鹿正直な人間は善人だろうか?我々には彼らが何を信じているかは分からないのである。善人かどうかというのは彼らが信じることが善に作用するか、悪に作用するかというのに他ならない。それはもう博打である。
例えば、部屋の掃除にしたって、何れも同様の洗剤で拭き取れば良い、なんて思っていると、全然掃除にはならないだろう。汚れには種類があって、その汚れに適当な手段で対処しなければ、汚れというものは効果的に落とすことができないのである。それが私の言うケースバイケースである。
カビキラーの威力には恐ろしいものがあった。これを扱うにはゴーグルと手袋とマスクと喚起が必要になる。あるブログで誰かが言っていたが、掃除とは命がけの行為である。実際にニュースになっているが、誤った使用法を行うと下手をすると死ぬ。比喩ではなくマジで死ぬ。信念に従って掃除をするより、使用法を守って(危険性を理解して)掃除をするべきだ。
我々の考え方も便利な工業製品と同じ道具に過ぎない。宗教を頑なに信じるという行為は、道具に使われてしまっている様相を示している。それが何なのか根本的に理解していないのである。それが何に作用しているのかも分かっていない。分かっていないまま使っているのである。思想も同様である。切れないハサミは切れるハサミに買い替えるか、研ぎ治すかした方が快適である。けれど、そのまま切れないハサミを使い続けている人もいる。
物を大事にする精神も度が過ぎるといけない。ゴミ屋敷とか。古い電化製品を使うよりも、最新のものを使った方が長期的に見ればエネルギー効率が良いとか。
人間は残念ながらそういう性質なのである。したがって、そういう性質であることを自覚した方が良い。そうすれば対処のしようが生まれる。記述し、可視化することである。少なくとも、言葉・思想・宗教・思考・・・そういったものまでが我々の道具であることを自覚した方が良い。