LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

物語

「物語三昧」というブログを読んでいて、私は非常に共感できるなーと思っていました。

物語を読むという行為の中には耐えられないというのがある、とか新しい視点でした。

ニキ・リンコさんも言っていましたが、自閉症者の書いた本を翻訳する行為が辛いと。

私自身、自閉症者の手記を読むのは辛いので分かります。

その耐えられなさというのは、イスラム教徒が味の素に豚肉由来の酵素が入っていたと言って、

騒ぎ立てた時のような耐えられなさなんだろうなーと。

なので人によって、耐えられたり耐えられなかったりするのだけれど。

例えば、ホラー映画とか私は見れないなーと思ったり・・・。グロテスクなもの。エロティックなもの、けがらわしいもの、。

犬や猫を飼っていれば、うんこ・おしっこ、なんて慣れてくるのですが、そうで無い人は慣れが形成されない。

要は、耐えられるかどうか、というのは、自分がそれに対応できるかどうか、という話なのだろうと思う。

例えば、日本のAVにはモザイクが掛かっているけれども、こういうのは耐えられないと考えられているのかもしれない。ただ、耐えられないからと言って、それを聖域の中に押し込めてしまうと、耐えられないままの状態で留まるだろうという簡単なイメージがある。

児童ポルノ法が試行されると当然、子供というものが聖域の中に入るので、耐性が持てなくなる。女性も聖域の中にいれられていたりする。アイドルはうんこやおしっこはしないものだ、と信じられていて、そうでなければ耐えられなかったりする。

恋愛経験が無い人は特に女性に幻想を抱いていて、生の女性そのものに耐えられなかったりすると思う。9.11や東日本大震災も実際の現場には相当の耐え難さが転がっていたことだろう。死や不条理。

ある種の物語は、耐えられない現実に距離をおいて接しようという試みにも見える。現実と物語との間には断絶は無いと考える人がいるけれど、概ね賛成できる。SFを考えて見れば分かるように不可視の思想も現実である。ある意味では、魂や神やネッシーは存在すると言える。完璧な三角形が存在しているように。概念というものはそれ自体存在するのである。

したがって、物語は双方向的なものである。だから、ゲームが人間に与える影響などはあるだろう。ある研究では、暴力的なゲームをプレイすると、人は寧ろ道徳的になるという結果があったりもするが・・・。

根本的な物語は聖書などの神話だろう。宗教の土台は物語であり、そこを元に社会が構築されているという現実が存在している。イスラム教なんかを見れば、それは明白だろう。コスプレでも良いが。

耐えられない物語というのは、結局のところ、不条理に対する見方である。耐えられない頃は、厳しい生活は天国への道程だというようなことにしてしまうわけである。自閉症ダウン症について、神の試練だとか、チャレンジドだとか言う訳である。そういう思想が空元気で現実逃避だという正論を言うこともできるけれど、一方で、試練に耐えた結果、得られた果実というものもあったりするので、現実と思想の境界は良く分からない。

精神科医は慰めを治療の手段として用いる訳で、効果的だからそうするわけである。患者が隣接する現実の正否がどうこうというよりも、どういう結果を得たいのかによって、答えは変わってくるだろう。この正しいことが正しいのか?という問いは、かなり我々にとって重要な話だと思う。

そうしたお世辞的な救いがある話は好まれるけれど、救いようの無い物語も書かれたりする。そういう話がラディカルであるかどうかはさておき、救いようの無い現実ってやっぱあるんじゃね・・・と思って書かれ、読まれるわけだろう。そういう話を共有するのは慰められたいからなのかもしれないが。

私だけじゃない!と思いたいわけである。

そういう段階というのは、あると思っていて、可視化されない間は孤独に抱え込むしか無いわけだから。それよりは、同じような人を見つけて、問題を共有することで何か展開があるかもしれない・・・というところに期待したり。

シェアすることで感情的な負担を軽くしよう、という試みる。愚痴とか。

宗教の肝心な点は癒しであり、安心を得ることである。動物的にラディカルなのは安直な安心である。人間的に考えた時には、適当な手段で問題を解決しよう、と思うのだけれど、そういう以前に先立つ感情というのは、危険や苦痛から逃れたいと抗する感情である。その処理の仕方においては個人差が現れる。

感情を受けて適当な手段による解決を理性的に求めようとするのであって、その逆では無いので、例えば、パニックや暴力などの安易な選択は行われやすい。赤ん坊がそうであるように、そういう手段は原始的な形である。

要するに、問題解決手段が未然なのである。対応できないから耐えられないのである。耐えられないから暴走的な解決手段に頼ろうとする。

その辺のメカニズムは普遍だと思う。誰にでもこんな物語には耐えられないというやつがあるように、こんな経験には耐えられないという経験があるはずだ。耐えられなさは誰しも人それぞれ抱えているものだ。

そこをセーブしておきたいと思う。

そういう脆弱さを抱えて生きている存在が人間なのだ、と。まぁ、大抵の動物も似たようなものだろうけど。人間は言葉が使えなまじ文化的であるために、それが複雑になっているのだと思う。しかし、基本的には他の動物と同程度に愚かなので、高度に複雑化した社会に対して、スムーズに適応できなかったりする。

そういう意味でイスラム教なんかは分かり易くて良いや、と思う人が多いのだろう。

水は下へ下へと流れていくものだから。普通の人は運命に抗いたく無いと思う。仕方ないからやってるだけで・・。そういう生き方は特殊なもので万人向けじゃないと私は思うんだけど、今みたいにオンリーワンのあなた!みたいにプッシュされるような世の中は万人向けじゃない。

女性よ輝けなんて言っているけれど、何%くらいの人が輝きたいのか。殆どの人は平凡に人並みに生きられれば良いと感じているはずで輝くという言葉はミスマッチだと感じないのだろうか。いや、女性じゃないので分からないけど。私たちは正直、頑張りたくないはずである。生物はそのようには出来ていないと私は思う。

養老孟司さんが言うように、職業なんて社会を回す穴埋めである。自分が群衆の一人に過ぎず、他人も同様であるくらいに思う思想があっても良いんじゃないかな。社会主義というより群衆主義である。社会は社会構造に主を置くもの主には国家。群衆は群衆自身に主を置くもの主権は人民。同じようでいて異なる。多数決ではない民主主義というか・・・。