悟りを開いたなんてよく言いますが、悟りとは何だろう。
1 物事の真の意味を知ること。理解。また、感づくこと。察知。「―が早い」
2 仏語。迷妄を払い去って生死を超えた永遠の真理を会得すること。「―の境地に達する」
『goo辞書』
私の理解では、神のお告げを聞く・真理への到達みたいな意味で使われることが多い。それは2の意味だと思う。けれど、1の意味も悟った内容は完璧に正しい真理であると思われがちだと思う。二つの意味は実際には混交されていると思う。
だからこそ、
物事の真理を悟った→誤解だった
みたいなことが当たり前だと理解されていない気がする。悟りというのは、分かるということである。したがって、分かった気になっていただけ、ということが普通に起こるわけである。
悟りが悪いことでは無いが、高尚で、間違いの無いことだと思われてしまっているとしたら、それは誤解である。悟りというのは有り触れている。
例えば、
アイディアを閃いた→けど、上手くいかなかった
みたいなことも良くある。閃きと悟りの感覚は近いと思う。そして、≒だと思う。アイディアの如何によっては、飛行機なりパソコンなり宗教なりになって、その悟りなり閃きなりは神がかってるとか思われるんだけれど。
ただ、割り算の意味が分かるとか、代数の意味が分かるとか、何かしらの暗黙の了解の意味を悟るとか、そういう悟りも同じ悟りやら閃きやらなんだろうと私は思っている。
成し遂げたことの結果の大小で意味を変えてしまうから、悟りという言葉が大仰な/大袈裟なものに取られるのであって、メカニズムとしては一貫したものだと思う。
例えば、ニュータイプなんかは空気が分かる人である。やたら分かるので戦闘とかも先読みできてしまう。それは詰め将棋みたいなものだろうと。空気に敏感なので、何か敵に狙われてる気がする・・・とか。普通の人の延長線上にいるだけで、新人類みたいなものでは無いだろう、と。
だから、人類にニュータイプになって欲しいというのはお前らもっと空気読めよと希望しているようなものなのかもしれない。
1の意味で、悟りが早い人は色々と重宝がられると思う。要領が良いとか。では、どうしたらそうなるか、というと、色々な経験を積むことだろう。色々な経験を積むと、そうした経験からこれはこういうことかなという勘が養われていく。
まぁ、それが誤解であることもあるが、基本的には色々やってみることで、悟り易くなったり、閃き易くなったり、ということはあるだろうと思う。
要するに何が言いたいかと言うと、悟りというのは身近なことなんだ、という話である。