LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

自分の望むような子供に育てたい

少女を誘拐した誘拐犯が、そういう風に言ったという。

子どもの発達を考えた時に害になるのは、自分の思った通りの子どもになって欲しい、と望むことである。

子どもの発達にとって欠かせないものは、基本的信頼であり、それは子供をそのまま受容することである。

特に幼児期の無力な頃に、子どもを十分に甘えさせることが必要なようだ。

自分の都合を押し付けて、子どもの感情を汲まないようなやり方は、育児として誤っているそうである。

この犯人のように、子どもを思い通りにしたいという思想の人は、子供にとって悪い親にしかならないだろう。

エジソンが典型的だが、自分の趣味を押し付けて、それを拒絶されたので愛情が無くなった、とか。

子供自身を見ないで自分の思い通りにして貰おうと子供に要求するのは、親が子供だからである。

ここからは自論だが、親は子供を自分の所有物としてではなく、一人の人間として尊重する気持ちを持った方が良い。それは突き放して育てるという意味では無く、特に子供が無力な時には、その人の不安や不満を満たしてくれる人間が必要になる。だから最も身近な親がその役目を負うのである。特に母親と子供の関係は妊娠時から生理的に紐帯を持つものであり、そのために母子間の関係は父子間の関係よりも重要なものになってくるらしい。

私は思うのだが、障害者や老人も基本的には同様だろう。特に老人というのは子供に帰っていくように比喩されるものだが、その時にその人を尊重しようとすれば赤ん坊と似たように、多くのことを肩代わりしてやる必要が生じるだろう。

親身になってという表現があるが、特に相手の気持ちへの共感も大切なのだと言われている。自分がそうして貰ったから、そのようにするという部分が人には多かれ少なかれあって、それは親切でも暴力でも同じような気がする。愛されたから愛し、傷つけられたから傷つける。

そういう性向があるとすれば、赤ちゃんの頃に十分愛された人は、自分も他人を愛そうと思うだろう。まぁ、私には愛なんてものは分からないが。愛なんて言わずに、信頼関係と言っても十分だろう。そして、それは赤子にとっては一方的なものではなく、共感的なものが期待されているのである。その意味は、信頼が双方向のものであることを意味している。

愛されなかったから愛さない、現実はそういう人が多いのかもしれない。けれど、愛玩動物的な飼育であれ、赤ん坊の頃には可愛がられている場合には、基本的信頼自体は形成されているのかもしれない。

3歳以前の記憶は忘れ去られてしまうので定かではないが。

感情を共感するということが人間的であるには大切なことだ、と私が読んでいる本では説かれており、それって発達障害者の主要な障害じゃん・・・と思って、悲しくなる。エジソン発達障害だったのではないか、と言われているが、人の気持ちが分からない親の中には自閉的傾向を持つ人が多い。

そう思うと、ちょっと絶望の淵に落ちそうになる。あれ、私って死んだ方が良い人間なんじゃない・・・みたいな。

普通の人も発達段階に支障があれば、社会性に問題を抱えることになる。自閉症とは違うのだが、他人との共感能力に欠けるということ自体は同様である。そこから種々の二次障害へ繋がっていく。逆に言うと、自閉症者でも他人との共感能力の残っている人は、それ自体は多少なり養うことはできると思う。環境によって。つまり他人を信頼できる自閉の人もいるだろう、ということである。

ただ、それだけが自閉症の害されている部分では無いので、社会性の障害はノイズとして残る。例えば、焦点を合わせる/移動する時間が普通の人に比べて長く掛かる・・と言ったこと。これは相手の表情を捉えきれないと言った問題等に繋がっていく。それらがさまざまな実働的な能力に干渉しているようだ。そういう差異が色々と元々あるのが自閉症で、普通の人のコミュニケーション障害と、自閉症者の障害とが同じわけではない。

自閉症社会性の障害だというよりも、脳機能障害であり、それによって社会性の障害が顕著に現れる、という方が適切だろう。特に共感能力などに問題があるために、基本的信頼が養われ難いなど、発達段階の課題をクリアする能力に支障があると思っている。その結果として、適切に発達しない可能性が高くなり、社会性の大きな問題として現れるのである。勿論、適切に発達していても、元々の障害から社会に適応できない部分はある。

だから、普通の人でも適切に発達しない人は、自閉症者と似たような社会性の問題を抱えるようになる。自分が発達障害だと思って病院に行ったけれど、違った・・というのは大体そういうことだろう。それは混同されやすいが部分的には同じ症状として出るというだけである。自閉症者も定型発達者も鬱病になるが、同様のことである。

後天的な自閉症というものはない

自閉症と混同されているそれは発達過程の失敗による社会不適応である。この社会性の問題は二次障害だと考えた方が整理されるだろう。

それらの症状は併発するので、観察した際に混乱するのである。

自閉症者に変質者が多いみたいなイメージが持たれがちのように見えるが、自閉症者は脳の障害が原因で発達過程に失敗しやすいので、その結果として、社会不適応を起こしやすいのだろう。しかし、普通の人でも発達に失敗すれば社会不適応を起こす。

社会不適応の結果として、不満ばかりが貯まってしまえば、当然そういう結果へと帰結するだろう。それは誰でも同じことである。定型でも自閉症でもサイコパスでも同じだろう。

適切な教育なり療育を行えば、そうそう逸脱することはない。それができないというのは、知識が足りないか、手が掛かるからそうしたくないというだけである。金や時間が掛かるから。

その怠慢の結果として、私たちは社会にリスクを生み出しているのである。