LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

reゼロから始める異世界生活 愛とは何だろう

この作品の大きなテーマは信頼だと思う。

まぁ、それはいいとして。

今読んでいるところは、3章の終わりくらいなのだけれど、ここまでのテーマはだと思う。

1)スバルのエミリアに対する愛

2)ペテルギウスの魔女に対する愛

3)レムのスバルに対する愛

4)パックのエミリアに対する愛

3章では、この辺が大きなテーマになっていると私は思った。

レムのスバルに対する献身は「レムマジヒロイン」と読者が羨望するほどである。この愛はスバルを救う。作中ではレムの献身は一番正しい愛し方と言っても良い。スバルが最終的に笑えるように彼女は時にスバルの意思を裏切る行動を取る。

対して、パックの愛はエミリアの意思を無条件で肯定する。エミリアが言うように、パックはエミリアと共に悩んではくれない。過保護で放任主義な親という感じで、エミリアの要求は全て飲んで、エミリアの敵を全て排除しようとする。直接的な危機が無い限りパックはエミリアを甘やかし、干渉しない。

ペテルギウスの魔女に対する愛は、盲信的な愛だ。自身の権能(魔女の能力)と、恐らくそこから生じた狂気。その狂気から逃れるために、彼は魔女に縋るのである。全ては魔女の愛に準ずるための試練である、と。その試練を乗り越えることで自身は魔女に愛される。救われると。端的に言えば、キリスト教徒の神への愛みたいなもので、現世が地獄だから、信仰に生きることで天国にいけるはずだ、という考えだと思う。

スバルのエミリアに対する愛も、同じだった。3章の時点では、エミリアに縋りつくことで自分が救われることを期待した愛である。だから、誰も同情しない救いようの無い狂信者であるところのペテルギウスに対して、スバルだけは最後に同情するのである。自分もかつてそうだったから。

相手から愛されたい、なぜなら自分が救われたいから。愛しているから、愛されたい。それは転倒している。愛されたいから愛する。そして、自分を救って貰う為に相手に愛されなければならない。相手は自分を愛さなければならない。自分を救ってくれなければならない。自分はそのためにこんなにも愛を捧げているのだから。自分が救われるために藁にも縋るような逼迫(ひっぱく)した気持ち。それを愛と称して、自分を欺く。愛という名で利己心を自己正当化するのである。

ペテルギウスの愛とスバルのエミリアに対する愛は同じである。異世界に来て何も生活の基盤が無く、このままでは死んでしまうという不安と恐怖。そこから逃れるために縋ったのがエミリアという存在である。

現実の社会でも宗教は特に生活が厳しい地域で広がるものだと思う。神にでも縋らなければ生存を脅かされる不安や恐怖から正気を維持できないのは、人間という社会的動物にとって普通だと思う。

けれど、その弱くて無様な自分を直視できないから、言葉によって複雑化し、分かり難くして、自分を欺き、綺麗な言葉で、あるいは神秘的な虚飾で現実を惑わし、真実を分散させて見えなくし、ブラックボックス化して安心させ、自己正当化する。

言語というのは後天的に獲得された道具なので、自分と直接結びついた情動と比べると、隔絶している。けれど、人間は言語と情動を結び付ける。その結果、言語を信じることになる。けれど、言語は信じられない。証明できない。言葉というのは多義的であり、証明できない。

確かな情動と不確かな言葉とが結びついた結果が信仰という倒錯であると私は思う。愛が倒錯するのも言語のせいだと思う。まぁ、言語というかそれを伴って形成される人間的な理性というべきか。私は動物は人間ほど倒錯しないと思っている。要は人間ほど多様ではない、ということである。

犬や猫に理性があるというのは常識だと思うけれど、原理主義的な犬や猫なんてものがいないのは、言葉という不確かさ/曖昧さが無いためである。

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さて、パックの愛が何かと言えば、エミリアを自分の所有物として庇護しているのである。多分、精霊という自身の寂しさを癒すための道具なのだろう。要は一個の人格として相手と自分が対等であり尊重するという気持ちに欠けている。パックにとってエミリアは自分のために利用している存在に過ぎない。この物語世界の精霊は人間を自分たちよりも劣った生物だと認識しているように思われるし、パックにとってのエミリアも同様である。単にパックにとってエミリアが欠けてはならない大切な所有物であるのに過ぎない。要は人間からみたペット=愛玩動物みたいなものなのでは無いだろうか。そういう意味での家族という図式は成り立つと思うのだけれど。

貴族に対する平民という感じで、大精霊に対する人間という存在も絶対的なヒエラルキーとして意識されていると思う。スバルがパックに抱く違和感は、そこで、パックは人間を自身と対等な存在として見做しておらず、スバルは自身と対等な存在として見做していたのである。まぁ、本題の愛という意味においては、パックのそれも自己愛だと言えるだろう。よくある毒親というやつだけど。

分からないのは、スバルがエミリアに対して抱く愛が自分が救われるために彼女に縋り付いているだけだと気付いた後も、エミリアが好きだ、という風に主張するあたりである。この辺りについてはまだ描写が足りていない。恐らくは、エミリア自身の性格・声・容姿に対する一目惚れみたいなものだと思うのだが。

スバルのレムに対する愛は、最初、同情的なものだった。レムの低い自尊心を何とかしてやろうという軽い気持ちで接した結果、レムのスバルに対する依存を招いた。そのレムのスバルに対する依存的な愛の結果、レムにスバルは何度も救われることになる。その事実からスバルはレムを信頼していく。スバルのレムに対する愛は過程に生じた信頼という愛である。

レムはスバルに対して狂信的である。レム自身を救ってくれたスバルを愛していて、そうであって欲しいと望んでいる。だから、レムはスバルにレムの英雄のスバルであることを期待するのである。レムはそうであることをスバルに期待し、それを支える立場でありたいと思う。そして、レムの英雄のスバルは、実際にそうであった事実を基盤にしている。レムはその記憶に依拠してスバルを愛しており、同時に弱いスバルを肯定する。レムは既に救われているので、スバルに縋り付く気は無い。ただ純粋にスバルの傍にいて、スバルを助けたい、と思っている風に見える。

そういうレム的な愛をスバルも見習ってエミリアに対して適用し模倣する。3章の終わりで彼が辿り着く結論は、エミリアの傍にいて、エミリアの助けになりたい。そういう愛である。

まぁ、それが自分の喜びなんだと思うけど。で作中ではレム的愛が割と良い愛なんじゃないか、と思われる。少なくとも、私はそういう愛され方っていいなーと羨望する。

スバルがレムを好きにならなかったら、レムの愛は報われないけれど、スバルがレムを救って、スバルはレムに救われて、お互いにレム的愛を向けるようになる。互いに自分に適切な期待を向けていてくれるという信頼関係である。スバルとレムの関係は理想としては、3章の終わりでIFの夫婦生活として描かれている。互いに愛情を注ぎ合う関係である。それが愛の理想である。

けれど、レムにとって、そのスバルは自身が期待したスバルではない。笑える未来を諦めないスバルがレムの期待するスバルである。そして、スバルにとっても自身の意思を諦めることは本意ではない。この点が重なり合うことが重要だと思う。それが当人に見合った期待であること。レムの見ているスバルが全て事実に基づいており、嘘では無いから、この信頼関係は維持されるのだと思う。事実無根の期待ならば、それは信仰だろう。エミリアを諦めるスバルはレムにとって望むスバルではないのである。レムとの逃避行は選択されない。

二人の信頼関係が現実に依拠しているということが重要で、それはレムとの家庭生活という俗的な理想にも反映されている。

レムの異常な献身だけをみて、こんな子に愛されたいなーと思うけれど、その魅力的な感想は、結果だけ得たいという詮無きことだなーと思う。スバルとレムの愛が過程によって生じた愛なのだと理解しないとダメだし、現実にそんなことあり得るのかな・・・とも思う。

特に自閉症の私は他人を愛することができないのであれば、愛されることもないのだろう、と。他人を愛することができない人間に寄ってくる人間というのは信仰的な愛を持っている人間なので・・・。自閉症者に寄ってくる人間はキリスト教徒みたいな功徳をつもうとしてボランティアに勤しむ人とか、弱者救済を仕事にしている人とか、同じ傷を舐め合おうと寄ってくる人とか自分を利用しようと近づいてくる相手・・・大凡そんな感じである。

私が他人を愛することができないのか分からない。ただ自閉症者には他人に親愛の情を抱けないという欠陥を持つ場合があるのである。普通の人は両親に愛着を形成するが、自閉症者にはそれが無い場合がある。テンプル・グランディンもそうだが、親は自分に~してくれる人以上の域に出ない。そういう情動の限界を抱えている脳を持っている場合、他人を愛することは不可能なのではないだろうか。

そして、他人を愛せなければ、自分は愛されないだろう。人は愛されるから愛するのであって、その逆では無い。幼児期に十分に人から愛された子供は、他人を愛することができるようになる。その結果、他人を愛し、他人に愛され返すのである。恐らく。

だから、他人を愛せない場合、他人に愛され返されない。他人に愛されても、他人に愛を返せない場合、その他人は返す愛を持っていないのだから、愛してくれないだろう。愛というのはキャッチボールであって、私にはキャッチボールすることが難しいのである。

自閉症の何が悲劇的かと言えば、愛し愛されるということが無い、そういう点だろう。いや、普通の人でもそういうことはあり得るんだけど、脳障害として可能性を絶望的に摘み取られているのと、そうではないというのとでは差があるような・・・。犬なら愛してもらえそうだけど、人間は無理ゲーな気がする・・・。いや、犬も無理かも・・。

物語的な愛というのは、非常に甘美だけれども、現実にはそういうのって殆ど無いような気がする。いや、マイノリティな私にそれが無いというだけで、ある人は実は多いのかもしれないのだけれど。理論的に考えて、現実的な愛がどういうものなのか、書いていこう。

愛が何かというと、相性と深い信頼だと思うんですよね。信頼していても、相性が悪ければ好きになれないので愛には至らない。まぁ、だから愛ってのは大抵、異性愛になるのだと思うのだけれど。信頼していても相手が好きで無くなってしまえば愛に至らないような気もするんですよね。

ただ、それは割と感覚的な事情だと思うので。赤ん坊とか動物とかって、愛されるけど、それは愛らしいから愛されるわけで。愛というより好まれると言った方が良いかな。好かれるということが愛の条件。

その上で信頼できることが2つめの条件。信頼関係はコミュニケーションによって築かれる。関係性は濃度で表される。0から100までのパラメーターがあって80以上で愛というのではなくて、血圧みたいに平常値があって、常に微動するイメージである。その心拍が互いに安定できる状態が理想だと思う。阿吽の呼吸みたいなもの、息が合うというもの、相性が良いというもの。仲の良い夫婦は似てくると言われるが、互いにコミュニケーションし合うことで互いの行動を上手く噛み合うように調節し合っているので似てくるのだと思う。

仲の良い動物をつがいで飼うと長生きすると言われるが、それは心が安心できるからだと思う。信頼というのは、信じることと頼ることだが、それは結構、心理的なものでもある。そして、心理は自身が理解した現実に依拠する。

現実とは何だか分からない。多面的なものである。新聞の朝刊に載っているニュースは現実に起きたことそのままだろうか。現実に起きたものそのままとはどういうことなのだろうか。誰にも分からない。ただ現実ということを分かったつもりにはなっている。この現実という概念はどこまでいっても主観の見解でしかあり得ない。私は客観はあり得ないと思う。客観的ということはあり得る。例えば、コンピュータシュミレーションで計算した円周率の結果などは客観的事実である。けれど、客観的事実を受け取るのは常に主観である私である。主観というモニタに映した瞬間に客観という概念は消える。だから、どこまでいっても客観的(的=~のような)までしかあり得ない。

そのような現実に則して、心理が動作する。だから、心理的に安心できると現実(というイデア)がどうであれ健やかでいられそうである。リラックスできること・癒されること・安心できること・そういう効果が愛に期待できる。

どうも健やかに育った人たちには、それがあるらしい。基本的信頼と呼ばれるものだ。そういうものがあることによって、他人を信頼でき、社会にいることに安心できるのである。まぁ、私には不足しているので良く分からないが。

愛というのはたった一人に捧げられるものでは無い。基本的には上限は無い。単に社会の都合上、伴侶を愛するというのが愛だと考えられやすいということだろう。けれど、心を許せる相手に対して、基本的に私たちはその人を愛してるんじゃないかと思う。まぁ、私は誰も愛していないけど。自分も含めて。愛していないというのは不信である。

愛することは、人生を幸福に送る上で不可欠な要素である。成長することにとっても欠かせない要素である。愛の基礎は信頼に他ならない。私を愛すること、他人を愛すること、それらは同一である。自分を愛せなければ他人を愛せない。他人を愛せなければ自分を愛せない。同じ世界に対する信頼感にそれは基づいている。

現実に対して私が考えるように、主観しかそれがあり得ないのなら、事実として、主観以外のものは存在しない。独我論的な話である。したがって、信頼の根本は主観に対する信頼である。ある意味ではこの世には主観というモニタが一枚存在するだけであるので、それ一つを信頼するしかないのである。

私と他人は主観の上で隔てられておらず、世界と私は同時的に存在している。そこに境界は無い。私と地面と空と他人と宇宙とには境界は無いのである。境界を作ったのは理性である。だから、信頼自体にも本来境界は無い。自己信頼感と他者への信頼感とのあいだに境界は無い。自分を信頼する時の信頼と他人を信頼するときの信頼に差は無い。差があるように感じるのは、他人に対して不可知な部分が多いためだろう。

私は自分の能力の限界について、経験からある程度予測可能だが、初対面の他人に関しては殆ど予測できないかもしれない。そういう理解の限界の話である。どこまで何が可能であるかという判断は基本的信頼とは別のベクトルのような気がする。

自己において自分も世界も他人もそういう存在の全てが利用可能なリソースに過ぎないと思う。どの程度利用していいのかという認識はまた別の話である。そういう存在の広がりそれ自体を信じるのかどうかという話が自己信頼感の基盤のような気がするのだ。

自分の身体を動かすように、土や空気や他の動物を含めた自然という存在を扱うという話である。その過程で、物事の境界線を引いていく行為が発達だと思う。信頼とは、だから知覚を信じるということだろうと思う。そうやって、自分という自我が形成されていくのだ。そこにそれがあるということを信じるということだろうと思う。

例えば、月を掴もうとするみたいに。「それがそこにある」ということを信じることで安心していくのである。他人もまた、その人が存在するということを信じることから始まっていくのではないだろうか。良い人だと信じるとか、そういう話ではなくて。

存在を確認することで確信して定義していくのである。その確信が信頼である。だから、それが良かれ悪かれ信じることは矛盾しない。その信頼感に依拠して、好きであることが愛に繋がると思う。だから、沢山の信頼の事実に依拠して、好きであれるということは、それが良いもの/こと、であると帰結されるのである。

自分にとって深く理解し良いもの判定されたものを自分は愛するのである。だから、良く分からないものは愛しようが無い。信頼が深まるにつれて、それを愛せるようになっていく。その本質を深く理解し、かつ利用することが好ましければ、それを愛するようになると思う。

主観は利己的である。

他人との関係において、好ましい結果を得る手段が、信頼の醸成とか愛の形成とか、であるから、そうしたいと思うのでは無いだろうか。それは要するに他人と共感できて仲良くできることが好ましいと感じる、とかそういう話である。大抵の人に普遍的な感覚なんじゃないか、と。ただ、そう願っても私のように障害があってそれが阻害される人もいる。

私は人間が一個の動物に過ぎないと思うし、遺伝子に規定された本能に基づいて充足を求めるだけの存在だと思っている。それが人間という存在の限界である。そして、それに沿うことによって幸福を感じられるようになっている。基本的な欲求を満たすことが良いと感じられるように。

要は、自然に規定される以上の存在では無いですよ・・・と言ってるだけなんだけど。その自然的なメカニズムの上に愛と定義されるような状態を招く状況があり、脳機能の障害によっては、その状態に至れないような障害が生じる場合がある。

キーボードの無いパソコンでは文字入力ができない、みたいな話である。目が無ければものは見えないし、耳が無ければ音は聞こえないし、口が無ければものは食べられない。脳が死んでいれば意識が生起しない。愛を感じることに障害があれば、愛を感じることはできない。

私は以前、障害者だって感情があるんだから同じ人間なんだ、と主張したことがある。けれど、感情が無い人間もいる。彼らは人間ではないのだろうか。脳機能の一部が障害を受ければ、感情が無くなることもあるかもしれない。何かが足りないことで人間では無くなるのだろうか。人間の定義とは何だろうか。脳機能が障害されている自閉症者は人間では無いのだろうか。遺伝子に異常があるダウン症児は人間では無いのだろうか。一体どこからどこまでが人間なのだろうか。

死体は肉の塊で人間では無いのだろうか。

私はそう思うことに疑問を感じるようになった。『寄生獣』で主人公は死んだ犬をゴミ箱に捨てる。死んだ犬は犬ではなくて肉の塊に過ぎないのだから。ヒロインはそんな主人公を咎める。主人公は自分の割り切った考え方に戦慄を覚えるのである。

ある自閉症の女児は、おじいさんが火葬される場で、火の火力について心配していた。彼女はそんな自分が頭のおかしい人間だと悩んだ。

ヒトラーは殺した人間の髪で絨毯を作り、油で石鹸を作った。それは鬼畜の所業だと多くの人に考えられた。

人肉を食べるという行為は大抵の場合、忌避されている。

妊娠中絶を殺人と考える人たちがいる。

どこからどこまでが人間なのだろう。

結局、その定義にはあまり意味が無い。

それでも私は欠損を抱える自分を肯定するために、死体さえも人間だと言う。

髪の一本から爪の先まで、それは人間だと思う。

そこに人間の香りが漂うものは自分にとって人間であるだろう。

別に人間の毛で編んだ服を着ても良いかもしれないが、私にとってそれは気持ち悪い。

人間の油で作った石鹸を使うのは、私にとって気持ち悪いわけで。

そういうのは、それが人間だという自覚から来ていることだろう。

そういうのは、定義の問題である。

・・・

例えば、愛が全てという世界で、愛が無い人はどうすればいいのか。

欠損を抱える人は何者なのか。

許されるのか、あるいは、許されないのか。

救われるのか、あるいは、救われないのか。

ただ、そういう海面に近い場所の哲学的問題から、海底へと潜っていくなら、前述したややこしいラディカルな話になってしまうと思う。

脳が人間だと言う人がいるけれど、自分の例を見ると、そう言い切れなくなる。

脳に欠損を抱える私は人間では無くなってしまうからだ。

いや、まぁ・・・人間であることに拘る必要は無いのだが。

うん。

人間である以前に私とは私自身である。私が犬だろうと猫だろうと蝶々だろうと、

きっと、そういう自覚を持つだろう。

私とは身体だと思う。

前述したように、主観に利用可能なリソースによって世界が、自分が定義されるのである。

トンボにはトンボの、鳥には鳥の、魚には魚の独特の見える世界がある。

身体がその限界だ。

自分のその時点における持ち物がその時点における自分にとっての限界である。

そのことに当然の制限を受ける。

愛が感じられない私にとって、愛が感じられない私が限界である。

器に入る水には限界がある。その範囲までしか、私は手を広げることはできない。

それが「」である。

人間は平等などというが、人間の定義すら訳が分からない。

社会性の障害・コミュニケーションの障害・想像力の障害・感受性に関する障害・・・そういう欠陥を抱える私にとって、さして欠陥の無い健常者=人間は憧れるものかもしれない。そうでなければならなかったものかもしれない。

健常者にとって、愛は至上の価値を持っているのかもしれない。

愛が無ければ人生は絶望的なのかもしれない。

それが無い人は人間では無いのかもしれない。

健常者に憧れる障害者な私は人間になりたい、と妖怪人間的なことを言い出す。

けれど、私はどうもそういう人間ではないのである。

それは手が届かないものなのかもしれない。

同じ人間なのになんで・・・みたいな。

同じじゃないからである。人間だけど、そういう定義では私は人間ではあるまい。

そういう定義では自閉症者は宇宙人であって人間では無い。

死体が人間なのか、肉の塊なのか決めるみたいに、私の使う人間という定義は曖昧である。

したがって、

同じ人間なのに・・・という表現は命題として成り立たないだろう。

論理的では無いのである。

物語に語られるような愛も、現実に普遍的だと言われる愛も、

同じ人間なのだから当然得られるべきものとは言えない。

特にそれは、自分に所属する問題において、顕著である。

衣食住をそれが足りない人に補うよりも、身体的な欠損を補ってやることの方が困難かもしれない。

特に足りない脳機能を補完するようなことは。

みんな同じ人間だから、そいつの努力が足りない、とか、そういう話ではない。

そもそも先天的にどこか部品が足りてないとか、機会自体に恵まれていないようなことは、

もうそれこそ普通の話なんだと思う。

自分をみんなと同じ人間だと思いたい人はそう思えば良いけれど、私はそれは嘘だと思う。

生まれた時には同じスタートラインにいて環境によって差が出るとか、そういうことも嘘である。

宿命とか運命とか言いたくなるくらいに、それは生まれる以前からの問題である。

そういう人間感情とは関係の無いグランドルール(科学的にその帰結が必然だと証明できる命題)が、

常識的で無いだけである。

日本の常識では、僕らは機会は平等で頑張れば報われる。

報われないのは個人の努力や育った環境や社会のせい。

というような話になっている。

少なくとも、恐らくはみんな同じ人間だと思っている。

というかそうでなければならないみたいな意志を感じる。

この文化の多くの人が、そういう信仰を持っているか、あるいは既成事実を作り上げて、

布教活動に日夜勤しんでいるので、どうも同じ人間であることに拘るのである。

そうじゃないとフェアじゃないのだろう。フェアじゃないと都合が悪いのである。

例えば頑張ったら報われなければならないのである。

その考え方は恣意的なものである。

問題は、そのことに慣れ過ぎて無自覚でそれがこの世界の当然の真理だ

と考えてしまうところだ。

けれど、殆どの場合郷によっては郷に従うというようなことを、

無自覚に当たり前に信じ込んでいるだけかもしれない。

けれど、グランドルールにおいては、死後天国と地獄に振り分けられるとか、

正直者は報われるとか、信仰心が足りないから不幸になるとか、そういうことは証明できないだろう。

グランドルールというのは、特に個人の努力の多寡にかかわらず、

オフィスビルで仕事していたら飛行機が突っ込んで来たり、

地震が起きて津波が起こって原発が暴走して、それに巻き込まれたりする。

生まれながらに自分には健常者に育つ可能性がゼロだったりする。

だから、人間だから当然・・・と考えるより、

私の場合はどうなのかと問うしかあるまい。

日本人は普通が大好きだ。

けれど、結婚して子供を産み育て友達がいて仕事があり息災で畳の上で死ぬとか。

そういう普通を望んだとしてもそうでなければならないと思わない方が気楽だと思う。

そのそうでなければならないこと「そうでないこと」は当然である。

この世界のグランドルールが当前で、それは人情的には認めがたくシビアだったりするかもしれない。

自然は厳しく、人間社会がそこから逃れられているわけではない。

だから、そのことに不満があるのも当然だと思う。

愛についても同じである。愛されたい?愛したい?

そのそうでなければならないこと「そうでないこと」は当然である。

ただ、脳機能とか人と信頼関係を育むことに特別な異常が無いなら、愛し愛されることは理論的に普通に可能だろう。

それは多分、条件としては、相性が良くて互いに日々コミュニケーションを取り合って、配慮し尊重し合えばいいわけで。

現代社会でそれが難しいと言われるのは、自己実現が至上の目的みたいに考えられてしまっているからだろう。

自分の時間をわざわざ割いて、妻/夫や子供に接してあげているのである。

妻/夫や子供との関係もパートタイムである。本当はそれを勿体ないと思っている。

私は愛なんてそんなデジタルに割り切れるものじゃないと空想する。

精神科医と会うとき、月一で5分間とか、そんな感じで会う。そういう間隔で会っていると、医師は患者の事情なんて忘れてしまっていたりする。そういう関わり方(日本では殆どそうならざるを得ないようだが)ではラポール(治療に必要とされる信頼関係)なんてものは築けないと思う。いや、私にそんなものはそもそも築けないのかもしれないのだが・・・。そういう訳で多くの患者を捌(さば)くために日本の精神療法は殆ど薬漬けにするだけなのだろう。

友達との関係でさえ、そのようにして時間を割いてあげている/割いて貰っている、という感覚を強要されるようでは、私にはついていけない。まぁ、そういう友達がかつていた、という話なのだけれど・・・。

普通の人には割り切れるのかもしれないが。

資本主義的な労働環境の構造の中で、時間を細切れにして管理するような生活習慣の中で、コミュニケーションが時間の無駄と思われるようになってきてしまった部分があるんじゃないかなと思う。

井戸端会議とか長電話とか冗長な時間の使い方ができる余裕が無いから、人との関係が過疎化していくのでは無いだろうか。時間を出来る限り圧縮して効率よく運用し自己実現しなければならない・・・人生の時間は限られている。その中で出来る限りの娯楽を詰め込まなくてはならない、とか・・・。

いや、そういう風に固く考えることが多くなってるんじゃないかな。子供の頃は時間を忘れて無意味に遊んだものだけれど、大人になったらそう出来なくなったとか。

忙しいから無駄を省こうとした結果、コミュニケーションという行為もその無駄に入れてしまうみたいな・・・。それって、人と信頼関係を結ぶ機会が減るということだし、結ばれた信頼関係が無いから孤独で不安で寂しくなるんだと思う。

テンプル・グランディンは普通の人には、コミュニケーション中毒になって時間を無駄にしている人が多いと問題視していたけれど、私は一度くらいそうなってみたい気もする(ぁ。

コミュニケーションっていうのは本来、楽しいものだと思っているので、当然依存することもあるんだろう。

私は特性上苦痛に感じることが多いから嫌いだけれど。相手と共感できたと感じたときには嬉しいと思うから。

どうも商業主義的に自分の得になる取引を・・・と思うと、相手との関係が打算の関係を前提にしてしまうんだと思う。

それって、スバルがエミリアに縋り付いて利用しようとした感じの愛と同じ結果になるわけで。win・winってのは商業取引に関するものの考え方で、愛の場合にはレム式をみても分かるように過程はまず与えられなければ始まらない。

自分や他人が相手に対して、何か相手に無償で与えてあげたい、と思っていなければ、当然、自分に無償で与えてくれる人もいないだろう。商業的なwin・winという理屈は結果から入る考えなので、それを信頼(親愛)関係を築きたいという目的の対人関係に持ち込んだ時には、間違いの素になると私は思う。

まぁ、親切を押し売りするお節介な人間、とかになりかねない際どい話だけれども、相手に無償で奉仕することが自己報酬的行為になるから、愛を与えることが嬉しいって話になるんだと思う。その上でパックのように飴を与えるだけの快楽主義的な甘やかし放任主義になるんじゃなくて、その人の未来のためになるように自制して配慮なり尊重なり忠告なりするような理性(自覚)も必要なんだと思う。

要はメンター(「良き指導者」「優れた助言者」)としての役割とか、相談相手とか、そういう相手の成長に対して責任を担ぐ自覚が必要なんじゃないか、と思う。現代の問題はそういう役割を担って貰おうとすると金銭問題が発生することだと思う。進んでそうしよう・そうあろうというような人が少なくとも身近にいない。

大学の後輩が恋人に求める条件に「共に高め合える人が良い」とか言っていて、その真意は分からないのだけれど、少なくとも一緒にいてお互いを甘やかすだけで堕落していくような関係はダメだと思うな・・・。相手のことをよく見ていて運転ミスしそうなときには手を取ってあげないと・・・。

勿論、サークルとか親密なコミュニティに入っていけば、そういう人がいなくもないんだけど、そういうコミュニティに属すること自体が少ない人にとって、出会って助言されるような機会が中々無いんだろうと思う。そういうことのできる両親に当たる可能性もそんなに高く無さそうだし。

精神科医の問題で私が指摘したのと同じで、そういうのって、偶然にとかではなくて、日常的に関わって継続的に続けて貰えないと効果的じゃ無いと思う。

まぁ、そういう人に出会えれば良かったんだけど、私から見ると絶滅危惧種だと思う。

だから、自分がそうした方が早い。

例えば、教えることで自分の理解が増すように、与えることは与えられることになるんだと思う。

まぁ、知らないけど。

自分のメンターが欲しいのに、自分がなってどうするねん、という話だけれども。

最悪、出会えなくても自分が自分の教師になれば良い・・・。

例えば、道を歩いていて、通行人を避ける時に、自分から動いた方が早いと思う。

それと同じで、愛されることが期待できないのなら愛されるより愛した方が早い。

って言っても、ストーカーやれって言ってるわけじゃないけど(笑)

愛って私が思うに、信頼関係と相性とで、基本が関係性なので、関係性を無視してちゃぶ台返しした愛なんてものは成立しない。愛は野菜みたいに愛情をかけて育むものだ、と。

別に光源氏計画をしろと言ってるわけじゃないけど(笑)

相手に自分の都合を押し付けて、自分の思い通りに仕立て上げようというのは愛じゃない。あくまで真っ直ぐな成長を助ける添え木みたいなサポーターであるべきだと思う。

結局、人生ってそうやって常に真っ直ぐ木が伸びるように添え木しながら生きてくってことじゃないかと思うわけで。

急に人生の話になったけど・・・。

その辺が完全に人権振りかざして、その人のフリーダムでokってことになっちゃうとそれは違うんじゃないの・・・って話に。例えば核爆弾ぶっ放してくるまで不干渉とか・・・。麻薬で脳がずたずたになるまで不干渉とか・・・。

相手の文化を尊重するにしても世界中が地続きである以上、全くの野放しで良いってことにはならないと思う。結局、どの程度まで干渉していいのかという話なのであって。それがかなり複雑そうで難しそうで面倒臭そうな問題だから、そんな責任自分負えないわって目を瞑る言い訳に個人の自由って標語が使われている気がする。

例えば子育てで、

過干渉とか強硬的な躾と全くの不干渉の放任主義は同じものの対極だと思う。忙しかったりとか子どもを見る時間が無いというのも問題があるけど、自分の自由の確保ために見ようとしないというのも問題だと思う。相手のことをじっくり観察していて良く分かっていないと、どうしていいかなんて分からないわけで・・。

私の親は私のことを「何を考えているか分からない子だ」と言ったけれど、それは私を良く観察していないからだ、と思う。子育ては愛が必要だと言うけど、愛するという行為はかなり理性的な行為になると思う。南無阿弥陀仏を唱えてればOKみたいなリーズナブルな考えは捨てて貰いたい。

だから、それって責任とか義務という考えで上手く出来る行為じゃ無いと思う。少なくとも、子どもの成長に関して責任を持てない親(そのように育ったのは「私の責任じゃない」という親)はその子を「愛しているという資格が無い」と私は思う。

子どもに対する愛と他人に対する愛は同じ愛だと思う。愛って献身なんだから。

責任なんて愛する上で当然の覚悟である。だから愛することに苦悩するのである。

愛していると主張しているのに責任を取る気は無いというのは愛する気が無いのである。

単に良いとこ取りしたいだけだと思う。

自分の責任も取れないのに他人の責任まで負おうというのは馬鹿なんじゃないかと思う。

それが分かっているから、収入が少ないから結婚できないと嘆く人が多いのかなと思ったりする。

私は人を愛するのには資格がいると思う。だから、子どもを育てるには資格がいると思う。