reゼロを読んでいて、2次元にドップリ浸かっていて思ったのは、こんな女の子いないという感想だった。読んでいると、こんな相方が欲しいなーと思うんだけど、現実の女性って、ふわふわした甘やかなもので出来ているわけでは無いわけで・・。2次元の女性的なジェンダーは理想で、男性(現実)はそれを投影された女性を理想だと思い、女性(現実)はそんな虚構の女性を理想だと思うかもしれない。
だから、そういう私を演じようとするか、そういう女性性に反発する。コスプレやらグラビアやらを見ていて思うのは、理想の女性を描こうとすることで、等身大の女性を描こうとすることではない。だから、私のように女性と触れ合うような機会が無い人にとって、圧倒的物量の前では、理想の女性が現実にあり得るように錯覚する。
けれど、その女性というのは選ばれた人の前にしか現れないというよりは、ファンタジーの産物である。美しく整っていて穢れが無い。あったとしても、それは女性性として受け付けられるもので・・。世間では何やら女性が男性化していると聞いたりするけれど、女性が仮に女性化したところで、根本的に女性という人間存在は変わらない。
日本のアニメにせよ、2次元にせよ、幼いと言って良いほどの若さが溢れている。女性が歳をとって醜くなっていくということに寛容になれないんじゃないかな・・。おばさんになり、おばあさんになって性的魅力を失った時に女性という社会的価値が剥奪されて自分が無価値になってしまうような・・・。そうでなければ、母親でなければその人は売れ残りで女性としての商品価値が無いというような。
私から見れば今の世の中の女性に性的な魅力が無いということである。理想が高くなりすぎたのかもしれないし、そもそもその理想は最早女性を象った女性以外なのかもしれない。この女性性のジェンダーは異性に対して対等で無い。
まぁ、BLだったり、男性も同様に女性の手により空想化されていくようだが。結局、自分自身が理想からかけ離れていて、相手も同様だという理解が足りていない。
いや、普通に私が女性との接触が足りないだけなのかもしれないが・・・。
簡単な話をすれば、2つのリンゴの左側と右側とは違うものだ。虚構の女性と現実の女性は2人の女性だが、これは王林とフジリンゴくらいの違いがあるだろう。まぁ、2つのリンゴも一方は絵に描かれたリンゴで、もう一方は現実のリンゴなのかもしれないが。
ジェンダーは絵と文字によって記述され、それを受けてコスプレのようにキャラクターとして模倣される。ファッションとして流通し、時にそういうものが人格の表皮となる。人間は文化というガラスを通して世界を与えられるので、絵と文字に記述されたジェンダーを自身であるかのように錯覚するのである。そして錯覚したそれは身体に染みつく。
絵と文字が染みついた身体は、絵と文字に描かれた人間を人間と知覚する。鏡に映った自分を自分だと思うように。本来、それは鏡に映った自分の容姿であって自分ではない。けれど、説明は省かれて、それは自分だと錯覚する。
結局のところ、鏡に映った自分は自分では無い。記述された人間は人間ではない。描かれた人間は人間ではない。写真に写った人間は人間ではない。実際にそれと相対せしめなければ、人間の女性というものを理解することは出来ないだろう。
そんなもんだから、お付き合いしているのは2次元の女性で、お付き合いしたことのない人間の女性を知らないのである。二次元の女性と三次元の女性は月とスッポンくらい掛離れたものだが、鏡に映された私と同じように私だと認識される。だから、女性は女性だろ、と思うのである。そして、描いた架空の女性をお手本にして、こんな女性が良いと言って現実に架空を無理矢理投影してしまうのである。
それは仮装である。
私は2次元の女性が好きだが、3次元との比較において好きだ、というのではない。2次元と3次元の違いは、漫画と映画くらいの差がある。2次元の女性に対する性欲は倒錯している。そして、華美に過ぎて、現実の女性に対する性愛を貶めるかもしれない。顔の形・ボディライン・・・諸々の理想化されたそれが本物だと。真に愛されるべきものだ、と。
けれど、それはそれ・これはこれである。2次元の女性はそういうものであり、3次元の女性はそういうものである。二次元の女性はモノであり、3次元の女性は一体の生物である。
まぁ、ペット(犬・猫)は日本ではモノとして扱われるが・・・。
モノを生物と同一視して、モノと同じ生物を探そうというのは無理である。説明書とプラモデルそのものくらい違う。
説明書は説明書、プラモデルはプラモデルである。
寂しさを満たすには生き物と触れ合うべきだが、モノと触れ合っても中々寂しさは紛れないと思う。そういう意味において、十分な性愛の対象にならなくても、女性(生物)という異性が伴侶としては最も適当な選択肢になるのだろう。
けれど、理想の女性像とあまりにも現実が反するために許容できず、それよりは寂しさを紛らわすのにマシであるとして、ペット(犬・猫)を選択しておくのかもしれない。
そういう感じで男女は擦れ違い、私は美少女のちょびっつ(人型PC)が欲しくなる。まぁ、現実の女性とちゃんと触れ合えてる人は、現実の女性と向き合って見ていけるようだが。
私は説明書(中身は存在しない)を見ているだけなので、向き合いようが無い。
現実の女性より説明書の方が入手しやすくフォトショップ加工も入って魅力的なのだから当然の帰結なのかもしれない。
プラモデル自体よりも箱の方が魅力的だったりするみたいに。
男にしろ女にしろ、中身がパッケージより残念なのが分かりきっているので、それで箱で妥協しておくか・・・という感じなのではあるまいか。
要するに外箱がキラキラし過ぎなんだろうなと・・・。
もう外箱だけで良いよと。
その結果が、今の二次元かなーと思う。
女性は外箱に自分を合わせようと躍起になる。
けれど、そんなことは無理であり。
私もそうだが自分は中身に過ぎないのだ、と分かっていないと、
超豪華だったり残念だったりといったパッケージとの間で葛藤が生まれる。
それは自己イメージだったり、理想だったり、他人からの評価であったり、
ジェンダーであったりするかもしれない。
例えば自分には過ぎた期待とか・・・。
村上春樹なんかは、小説を読んで想像して、その場に行ってみたら、自分が思った通りの景色があった・・・
みたいなことを言っていたような気がしないでもないのだが、そういうことは科学的な要素以外では稀だと思う。
二次元の美女の絵と現実の美女の絵を重ね合わせたら思った通りになるだろうか。
想像と現実は常に異なっており、重ね合わせることで現実に適用していいかどうか決めるのである。経験論的に。
二次元はそういう意味では当たり前に擦り合わない。当然、それは違うからである。
普通は違うことが分かっているのだが、時に言葉の省略により、違いが分からない人がいる。その辺の錯覚なり摩り替りなりが現実認識を異ならせ、夢と現実とをモノと人とを同一視させるのだろう。
同一視してしまう人間の性質には、困った部分があると私は思っている。