LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

狐笛のかなた

狐笛のかなた 上橋菜穂子

レビュー

児童文学作品というには、言い回しなど小難しいものがある。また、領主間の対立の事情があまりに安易?であり、何とも言えない気分になる。小夜は「馬鹿ばっか」とルリルリっぽい感想を述べているが。春望候は聡い領主として描かれているだけにそんな個人的な憎しみの対価に小夜たちを巻き込んでいる始末は読者として納得できないのである。要は、その辺の理屈が不自然に浮いているのだと思う。

それが宗教戦争ならば信仰を貫くためにすすんで幻想を選択し、自棄にもなれるのかもしれないが・・・。ただ現実主義的な領主の判断としては、そういうことは無いんじゃないだろうか。うーん。

まぁ、そこが一番引っかかって作品が稚拙になり、私の評価としてはダメになってしまうのだけれど、読後感は悪く無い。ただカタルシスがあるかというと微妙でもある。

小夜と野火の関係は優しく、厳しい現実の宿命から逃れるようにして結実する。とは言え、物語上は逃げるのではなく目の前の問題に清算を付ける形になる。

致命傷を受けた野火を狐笛を吹いて代償を払い蘇生するというエンディングの描写は、殆ど後追い自殺だと思う。人間の身を捨て、人の世から離れて生活していくことを指して「めでたしめでたし」というのは、それで良いのかな??と思う。はっきり言えば、愛に殉じて死んだら天国に行けました、めでたしめでたし・・・という感じが。

それはもう子供だましだよね・・と。

正直、呪者を倒して玉緒は救えるが、小夜自身は狐笛を吹いた代償で死に、「あわい」で死んだ野火は使い魔では無くなるが蘇生しない・・・という感じのラストの方が良かったかな。

実際のEDは若桜野で霊狐になった小夜・野火・その子供が幸せそうに戯れている描写。

小春丸はそれに苦言を呈するが、大朗は小夜の選択を肯定する。

この物語を読んだ読者はどう思うだろうか。これは優しい物語なのか、それとも生きることを許されない運命を負った者の悲劇の逃避としての淡い夢なのか・・・。

そういう意味では、終始 切ない印象を受ける物語であった。

あとがきの宮部みゆき さんの感想はとても印象的だった。彼女曰く、物語とは作者と読者との間で行使される魔術である・・・と。その比喩はとても面白く思える。そういう魔法ならこの世界でも行使できそうであるし、私は是非習いたいものだと思った。

小夜の生まれ方というのは結構孤独で寂しいなーと思って彼女は生きている。そういう孤独な生は生きているのに生きていないという感じを与える。私も発達障害で誰とも折り合うことはできないだろうと諦めているから、寂しさで死んだ方がマシなような日もあるので、小夜の感覚というのは分かる。

だから、野火のような存在がいたら、そこに自分を賭けてしまうだろう。結局、そういう人が何がしたいかというと寂しいから温もりが欲しい、抱きしめて甘えさせて欲しい。優しく微睡みたい・・・みたいな話だと思う。

早い話、人好きな犬猫でも飼えば済む話である。ただ相手が人間になるとこれが難しくなる。ただくっ付いて縋り付いて甘えて撫でて欲しいだけ、ということが諸々の現実的なスペック不足とか、コミュニケーション不全症候群だとかを患っているばかりに叶わないので虚しい。

それでもやはり犬猫よりも人が良く、その中でも選り好みする私たちは、きっと中々その人と出会えない。

そういう訳で寂しい大人たちは〇〇たんは俺の嫁!と言って夢想して自慰行為にふけるのである。最近はすっかり二次元少女依存症である。

理想はあまりにも美しく、現実はあまりにも世知辛い。

そういう意味ではこの小説はED以外は明け透けで良い。個人的には人間を辞める=ギブアップ=死というわけで最後まで要するに抗ってみたけどどうしようもなかったわ・・・まぁ他の人は良かったんだろうけどさ、みたいな主人公たちにとっては容赦の無いエスカレーターであり、それをオブラートに包んでいるという風に読んでみれば良いのかもしれない。

最近は色々と小説を読むのだが、私はよく泣く。私を泣かせてくれる小説は良い小説である。泣くことで感情が震え、ストレスが解消される。みっともなく振る舞うという行為はきっとどこかで必要なのだろう。そこに子供であるとか大人であるとかいうことはない。

老いて見目が悪くなったとしても、心魂はそう変わらない故に満たされ難くなり悲惨になるのである。キモオタが自分の真の姿はこれではないのだと、どこかのラスボスのように吐き捨てるも、多くの人間には特に優れた第二形態などはない。

太って痩せたからと言って、器量が飛びぬける者がどれだけいるだろう。女性は花に例えられ、どうにも咲いて枯れていくことは避けられない。人によっては咲いてるのか咲いてないのかも定かでない。

じゃあ、中身で勝負だと言っても肝心の中身も特に伴ってはいない。自分には抱きしめられるような価値なんて無い。

まぁ、そんな世知辛い話で、つまらないくらい簡単な、この愛を受けるということすら人生において叶いそうにないのである。

まぁ、私は知らないのだが、そういうことはどうも風俗に行って温もりを買えば良いという話ではないと思うのだ。最近の所見によるとセックスは人生のゴールでは無い。まぁ、童貞には難しい話だが、やりまくれれば良いと言う問題では無い。結局私たちの悲願の根幹は承認欲求であり、それは許されることではないかと思う。

ロマンティックに言えば、互いに目と目で語り合え、そこに言葉はいらず、触れ合えること。以心伝心である。心が通じ合えており、常に共にありたいと欲するような関係と自由にそうできること。まぁ、物語の中でしか見たことは無いが。大抵、それは厳しい現実とエゴとの間で座礁する宿命にあるものと思われる。

端的に言えば、四六時中付きまとって後ろから羽交い絞めにして引っ付いていたいが、仕事に出なければならぬ・・・とか諸事情が込み合っているためにノイズがあり上手く宿願が果たせないのだろう。

男女に聞いた結婚しない理由・・・自由時間が無くなる・自分の利益になると思えない。

そんな世知辛い世の中である。

正直、私としては好きな異性や犬猫とイチャイチャしたいだけなので、結婚する必要も無いが、悲願は叶いそうもない。

色々の世知辛さは棚上げにして、もう適当にすればいいのにと思っている。

発達障害者はコミュニケーションできないから人間関係は諦めて、スキルを伸ばして仕事人間として活躍し自己実現で幸せになるのだ!とか書いている本が多いのだけれど、私は自己実現も諦める。人間関係か仕事かみたいな二者択一の在り方は私には無理だった。

そういう風にやろうとしたことはあるけれど、どうにも欲求は無い。要するに私は寂しいだけの人間で他に何も無いのである。やりたいことなど特に無い。やれないことがあるだけである。

現代社会では私が見てきた部分では、人間何かに秀でていなければダメだとか、能力が無ければダメだとかいう方向が首肯される風潮が強い。特に対人関係に難があれば、それを打ち消すだけのスキルという価値が無ければ、その人の存在は無価値である。だから発達障害者もサヴァン的な能力が期待されていて、それさえ無いヤツはコミュニケーションも碌に測れない犯罪者予備軍のろくでなしで死んだ方が良いとさえ思われていそうである。邪魔なだけで何の役にも立たないのだから。

それが私である。

そのように思ってしまっているのが私である。

人は宇宙人と接触したいと思っているが宇宙人と遭遇したとき、彼らが何の役にも立たず、あまつさえ我々の負担にしかならないと知れたら人はどう思うのだろう。

そういう世界で私が抱き、抱きしめたいと思える人と出会えるだろうか。

そういうシンデレラストーリーはちょっと難しい気がしていて、だからと言って、その世界では成り上がることもできない。今ここにいる私も結局のところちょっとした慈悲で生かされているだけである。努力しても私の場合、どうもそれは人生を浪費し不幸になるだけであるような気がしてきたのだ。

ふつうの人のように努力して生きることが最早、馬鹿らしい。

生きるということは現在進行形であり余生に対する絶え間ない貯金行為ではない。

まぁ、勿論50年間努力して、その利子で余生の20年とかを生きて幸せだと思うこともできるだろうけど。

けど、私の性質上、そういうのは無理で、多分途中で死ぬと思う。

貯金してる最中で死ぬっていうのは、それはもう貯金する意味無いよね・・・と思うわけで。

私の性質上、二者択一であり上手くバランスをとって生きるということもあり得ない話で、

結局のところ貯金なんてどうでもいいや・・・となる他は無いのでは無かろうか。

別に享楽的に生きようとかいうわけではなく、無理に普通の人に合わせて人生設計とかしてコツコツ生きるようなことが私にはとても無理なように思えてきた・・・とかいう話である。

私はどうもスケジュールというものとそぐわない人間のようである。そのときそのときで刹那的に生きてるのだと思う。人生に目的を置こうとしても、それは何時も自分が特に欲していないものである。だから、目的のために頑張ろうという気にはこれっぽっちもならないらしい。この性質はどうしようもないらしい。

意欲に欠けているという自分の性質はどうしようもない。私はどうも何も望んでいないらしい。せいぜい先に述べたように無意味にイチャイチャしていい相手が欲しいなー、というくらいである。叶いそうもないが。

家庭を築くことも嫌だし、仕事で人間関係に関わるのも嫌だし、碌に物事に興味関心が無いので、やりたいことは無く、自己実現したいことも無い。そもそも人から褒められたくないので何かを成し遂げて人の役に立つということが嫌である。世間一般で言われているような人生の醍醐味の尽くはどうも私にとって避けなければならない災難事に思える。

一体それらのうち何のために生きているのかと問われても、私には答えようが無い。私には社会性などというものが尽く欠落し、更に忌避しているのだから。社会における成功は私にとって凶事にしかなるまい。

結局のところ、社会と極力関わらないことのみが私の望みである。それにも関わらず、寂しさだけは募り、いっそ狂おしいくらいの温もりへの欲求が心身を炙るのである。だから物語を一つ読む度に私は苦しめられる。不幸な物語はその痛ましさに、幸福な物語は私の手が決してそこに触れることはないだろうという確信からくる痛みに苦しめられる。

幻想は幻想だという痛みである。物語に綴られる温もりは、幽霊を抱くようなもので、決してそこに触れることはできない。発達障害者という限界。まぁ、人それぞれ色々あるだろうけれど。ただあまりにも之は何物にも手が触れ合わないので、精神的に死にたくなるのである。

目の前にあるものを掴もうとすると、その手は空を切る。いや、実際にも視覚的な問題があるのか、空を切ることはあるのだけれど、空想として、誰かと仲良くなりたいと思っても、それは果たされない。長期的な関係を築き上げ信頼し信頼されるようなことが無理なのである。時間経過と共に関係は軋轢を生じて居心地の悪いものへと変化していく。

私自身が違和感を覚えさせる存在で、相手にとっての異物である。したがって、排他される宿命である。違和感や異物は居心地が悪いから、何とかしなければならないと思わせるのであろう。これは私にはどうすることもできないようである。私が取り繕えば、私自身がその所作に限界を迎え耐えられなくなる。

まぁ、そんな感じで私という人は、人間になりたいけどなれない妖(あやかし)の類のようなものなのだろう。ある意味では、私は野火であり、本来、小夜と結ばれる道理など無いのである。呪われた身体では人里の結界に入れば傷を負う。

私は結局、遠くから温もりを幻視して眺めているくらいしかできないのだろう。狐笛を吹き、私を抱いてくれる人がいれば良いが、それは大抵、変人の類だろう。

物語は例外もあるが人の物語であって、人ならざる私とは関係が無いのである。故に、もしかしたらそんなこともあるかもしれない・・・という程度の期待すら物語に抱くことは許されない。

だから、余計に寂しく焦がれるのだろう。

どうにもままならないものである。