LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

徒然

衣食足りて礼節を知る

と僕は思う。

脳の障害だとか精神障害によって、脳に影響を受ける。

すると、思考に影響する。当然。

発達障害は主にコミュニケーション能力・想像力・社会性に障害がある。

あと大きいのは意欲の問題だろうか。欲求というのは実はきっと大きな問題なのだ。

さて、これらの問題を生来抱えていると、普通の成長段階を経ることが難しくなる。

要するに小学校・中学校・高校生活で問題を抱える。

暴力性の問題が無くても、孤立して、虐められていれば、人間に不安・恐怖・憎悪を抱く。

自己肯定感なんてものは育まれない。

そういう風に普通は育つ。

本来淘汰されるべきものが下手に生き残ってしまった・・・というべきなのか。

結局、このような運命を呪うしかないのだろう。私が生まれてきたことが悪かったのだ、と。

だからと言って、社会が障害者を虐げて生殺しにすればするほど、きっと、僕らは壊れていくのだろう。

生きてるだけで儲けもんだろうか。死んだ方がマシな状況も時にはあるかもしれない。僕はそう思う。

攻撃されるから反発する。

下手に生かすということは、虐げるということなのかもしれないのだから。

虐げられれば、牙を剥くのは当然なのかもしれない。

だからこそ、優しくしなければいけないのだろう。

その牙をこの身に浴びたくないからこそ、優しい演技をするのだろう。

弱者が保護される理由はそんなところなんじゃないだろうか。

飼いならせるギリギリの按配で優しくして働かせる。この社会のメカニズム。

僕という障害者はだからこそ、そこから弾きだされる。

そして、別のセイフティネットに掛かるだけなんだろう。社会維持の為の網。

僕は普通じゃないから弾かれていく。

こうして生きていることを喜べば良いのか、それとも生きられることを嘆けば良いのだろうか。

幸福だと思えば良いのだろうか。不幸だと思えば良いのだろうか。

一人でいることを。

楽ちんだと思えば?それとも、僕は寂しくて死にそうだ、と溢せば良いのか。

僕は今この瞬間にでも死ねば良いと思う。何の苦痛も無く。何の前兆も無く。呆気なく。

それは幸福ではないかもしれないが、不幸とも言い切れないんじゃないだろうか。

思考は右往左往する。

そんなことはわかってる。心臓のバイタルみたいに一秒毎に、僕は情動に苦しめられる。

希望は初めから無かったことを覚えている。いつかなんて来ないと確信していた。

将来はきっとなんて淡い夢。

ああ僕は変わらないな、と思った。

自分の本質というのか、世界の見え方というのか、この僕の見当識はずっと変わらず、

この社会と僕の次元がズレてることを示していた。

反社会性というわけではないけれど、少なくとも僕にとって

社会は世界は絵具で描かれた背景のようなものだった。

僕を構成する元素と人間社会を構成する元素はきっと交わることは無い。

そんなことは幼少時代を通して納得させられたのだ、と僕は思う。

僕の意識はずっと夢を見ているみたいだ。これが悪夢なのかどうか僕には分からない。

けれど、ずっと僕は浮き続けている。たんぽぽの綿毛のように、ふわふわと。

現実感が無いというべきなのだろうか。それともこれが僕の現実だろうか。

発達障害の影響による感覚の問題なのだろうか。

僕の目と写される映像との間には壁がある。目で見ても分かるわけじゃない。

僕は分かってない。

指示されたモノとモノとは結び合わない。何を言っているの。何を呼んでいるの。何を指しているの。

そういうことを結び付けるための神経が僕のは致命的に故障している。

きっと、そんな風に世界から浮き上げられている元凶(わけ)は脳の神経系自体がズレてるせいだろう。

生まれながらにして。

周囲との比較によって、察したというだけ。分かっただけで、生来の性質は何ら問題の解決を見ない。

分かったから不治の病が治るわけじゃない。治らないと分かっただけ。

何も分からずに社会に巻き込まれていない頃が幸せだったのだろう。あまりにもそんな期間は短かったけれど。

自分のままで肯定されていたから。

左利きの僕は駅の改札を通るたびに、これは僕の為のものじゃない、と思うのだけれど。

社会の99%は僕の為のものじゃなかったとただ気付いただけなのだ。

きっと、多くの人はそうじゃない。この社会は右利きの人のために設計されているんだから。

最大多数の最大幸福とか言ったとき、そこに僕は入っていない。必ず。

僕の厭世観は結局そういうコトなんだ。十台の頃から、あるいはそれより少し以前から気付き始めていた。

生まれながらに排他されていた。だから、どこかに行けば逃れられるんじゃないか、とそればかりを考えていた。

あの頃は縋るようにそう思っていたけれど、ずっと叶わなかった。

社会という結界に封じ込められている一個の生物が僕なのだろう。

普通の人は多少の不満で済むだろう。そんなものは飲み込める。

けれど、僕には初めから無理である。

あまりにもこの不自然さを自覚させられてしまうという存在が僕なのだろう。

そんなことを考えてみるのは、宇宙の向こう側の空間を考えてみるのと同じようなことなのだろうか。

僕はやはり死にたいなと思う。

辛いからじゃない。

ただ・・鎖に繋がれた犬みたいだからだ。

僕は僕が失敗作である故に鎖で繋がれてどこへも行けない。

社会でそこそこ努力すれば得られそうな有り触れた可能性は初めから潰えている。

僕という盃の底は抜けてるんだろう。酒を注いだ傍から零れ落ちていくみたいだ。

別に辛いわけじゃ無い。けれど、この生は無為なんじゃないだろうか。

あまりにも僕は締め出されていて最早傍観者気取りだが、

そんな役目さえ果たせるだけの能も無いのではないか。

だから、僕は孔子みたいに特に真理を知らなくても明日死んでも良いと思うのだ。

寧ろ、明日死ねば良いのにと思う。

何もかもがどうでも良い。投げ遣り感である。老人の境地だろうか。

老人に政治を任せると後先考えないことをするというが、こういうことなのだろうか。

実際、一人暮らしの政は上手く行ってるとは言いがたい。

まぁ、そういう時もあるだろう。