LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

血の繋がりという呪い

発達障害者と一般人の違いがあるので、情愛というテーマを僕が語り得るのか、それは何とも言い難いところ。

赤ん坊は育ての親や家族に対して特別視をするのだ、というが、発達障害者の場合、その繋がりが薄いことがあるそうで。

だから、僕は両親や家族を特別だと思っていないし、これから恋人や友人が出来たとしても特別な感情を抱いていないのかもしれない。感じられない感情を認識することはできないのだから、これは僕にはわからないことだ。けれど、僕自身の欠陥から愛し愛されることが出来ないというのなら、それって何て罰ゲームなの?と愚痴りたくなる。人とコミュニケーションを取ろうと思えば擦れ違いというのは僕のパッシブスキルみたいなものなわけで。対人的な摩擦を起こす要因(火種)である僕は尚更あまり人と接触したくない。

それは愛以前の問題でもあるし、コミュニケーションの障害を越えたところで、愛せないなら何れにせよ行き止まりだろう、と。それらはそもそも努力の問題ですらなくスタートの時点から終わってるよね・・とか思うのだ。遺伝子的に決まりきっちゃってるよね・・と。

人生のスタートの時点における格差という問題は能力主義社会でスルーが推奨される部分で、学校では努力次第でどうにでも人生が拓けるみたいな話ばかりを聞くわけだし、努力しないせいで馬鹿なんだ=真理みたいな風潮が出たりするけれど、それは誇大化し過ぎだと思う。

男女平等を真に受けて解釈するような話で、その誇大な部分というのは、例えば性差が明らかに存在しているというような事実を消し去ってしまおうとする。

普通の人なら真に受けないのかどうか僕はわからないが、少なくとも発達障害者の多くは真に受けてしまうと思うし、僕も真に受けてしまうと思う。

まぁ、そういうのは別に良いんだけど。ここで言いたいことは、そういう出鱈目に付き合わされて疲弊している人が楽になれる論理(考え)があれば良いよねという話で。

書こうとしていたのは、家族に関すること。

僕は家族を捨てた人間だ。結婚出来るようなステータスは無いと思っているので、原家族を捨てただけだ。儒教的な考えから

家族は大事にしなければならない

親孝行しなければならない

兄妹は大切にしなければならない

とか思っている人も多いのでは無いだろうか。でも僕は結局のところ家族を見限った。彼らと居ることは僕の為にも、彼らのためにもならないと判断したから僕は彼らを振り切ることにした。母親は煩く関係を持とうとしてくるが無視している。彼女は自分は母親だから責任を取らなければならないと頑なに信じているようだが、実際に行動して責任が取れたことなどは無い。責任を取ろうと行動した結果、僕に不利益を与えるだけなのだから、あの人は一人で空回りを重ねているだけだ。寧ろその母親の責任とやらで僕を何時まで苦しめる気なのだろう。苦しめている自覚が無いから厄介だ。指摘しても気付けない人間もいるし、だからこそ見限る他は無い。話し合えば分かるなんて言うのは幻想だ。互いに見ている現実が異なるのなら分かり合える日なんて来ない。

磁石のsとsを無理矢理くっ付けようとすれば抵抗が起きる。仲違いし関係がぶち壊しになる。理想のために、現実を見ずに兄弟仲を良くしようとして修復不可能にしたのは母親だった。

母親の問題もそうだが、発達障害者の僕という存在自体、くっ付かない磁石のようなものなんじゃないだろうか。相手に反発してしまうような磁石は、ある程度離していなければならないのだと僕は思う。さもなくば戦争だろう。

喧嘩しないための最も良い方法は対象から限りなく離れることだと僕は思う。ただ僕はその対象が矢鱈と多いのが問題だと思う。僕のような人間は放射性物質のように隔離されていなければダメなのかもしれない。

まぁ、それは僕の問題なのだが。

家族関係の問題としてそれが上手くいかないのなら、その関係に拘泥しない方が良いと思う。修復できる関係もあるかもしれないが少なくとも僕の家族は修復なんてできなかったと思う。修復できる家族ばかりじゃないのだ、と。

それにしても愛着というのか執着というのか、そういうものが家族にはあって、離れ難くなってしまうことがある。家族というのは殆ど命綱みたいに見えることが多いからかもしれない。関係が上手く回っているものなら言うことは無いのだ。けれど上手くいかない不適切な関係の場合、それはいっそ切って良いんじゃないかな、と言っておこうと思う。

親というのは特に面倒臭い生き物で義務という名の元に子供に執着心を持つ。親とはかくあるべし、みたいな物語が成人する位には既に僕らの脳内にはインプットされていてやれ結婚して子供を育てるのだというライフプランが幸福のテンプレみたいな意見を少なくとも僕はよく見聞きする。けれど、それは作られた物語に他ならず、根本的な部分は欲求に従った結果があるだけだ。交尾・結果としての出産・母性や愛着。その赤裸々でエグイ部分に倫理的なコウノトリ的な何かのボカシを上書きした結果が僕らが見ているポワポワした浮かれた幻覚だと思う。

授精も妊娠も出産も実のところエゴイスティックな野性的なものだと思う。だから普通、見るに堪えないのであり、ボカシてさも魅力的なように化粧しているのだ、と。他人のsexみたいに本当は公には直視し難いものだと思うのだ。

その美しい?想像上の結婚生活なんてものは所詮お飯事の幻想に則って繰り広げられる演劇だ、と気付いた方が良い・・。

今回は母親に関して述べているが、母親は義務と称して働きかけた結果、不利益を与えてくる存在になっている。それは割とありがちなのではないか。あなたのためを思ってと言いながら、実際には毒を盛り続けている。そこに悪意が無くても結果として僕が害されるならそれは僕にとっての悪だ。したがって、遠ざけること僕は決定した。

遠ざけることに多少なりとも罪悪感はあるのかもしれないが家族なんていうものは僕に言わせれば血縁を根拠にするある種のカルト集団である。そんなものを繋ぎ止めようとするよりは自分の心身を守ることを第一に考えた方が良い。

義務とか母親だから父親だからお兄ちゃんだから妹だからetcなんていう言葉は所詮は宗教的価値観である。だから何?の一言で終わりだ。

僕の母親は恐らくはままごとがしたかっただけだろう。夢はお嫁さんになることですとか、母親になることですみたいなノリで子供を作って母親になった。今もままごとという夢(悪夢かな?)は継続中だ。あの人は今恐らく自分は母親で無ければならないと思い込んでいる。出来の悪い子供を抱えて。

誤解しているのは血縁的な事実関係としての母親と役割的な仕事としての母親とは異なるものであるということだ。母親であることを不幸な現実を支えるために自らのアイデンティティにして縋り付こうとするさまは愚かしい。いっそ悲観的でさえあり、あの人はそれに酔っているんじゃないかと想像すると気持ちが悪い。そんなものは儒教ベースに歴史的に作られて来た母親という偶像である。彼女の盲信している自分=母親という概念は呪縛のようなものだろう。そんな呪いに人生の意義を見出し哀れに踊るのは別に構わないが・・

しかし、そんな愚かな信仰(演劇)に付き合う義理は僕には無い。

にも拘らず巻き込んで来ようとするのは、母親という役には子供という存在が不可欠だからだ。母親でなければ生きている意味が無くなるとかそういう感じである。一人でやれないのが問題だ。

母親は不幸の原因は子供だと思っているが、同時に自分の不幸な人生を支えるパーツとして子供を取り込もうとしているように思える。逆説的に僕ら(兄妹がいるのだけれど)が不幸の原因だと糾弾しているように見える。本音を隠して良い親を演じるために不出来な子供の心配をする自分を演じたくて仕方が無い。それ以上の行動を彼女は起こさない。心配はしてみせても具体的な助言をしてくれたことは無い。放任であり。諦めていた。立場が悪くなれば責任を転嫁する。あるいは自分が悪かったのだと開き直る。何れにせよ建設的な関係を作り直そうとする気配が一ミクロンも見えてこなかったと僕は思う。父母は子供の不出来の原因を互いに擦り付け合い、それに疲れると諦めて成人したら出ていくように僕らに言い渡した。実家での生活は何れ来る破綻を持して待っているような日々だった。

僕は母親や父親には発達障害的な異常があったのだと思う。そういう条件が無ければ流石に兄妹全員が見るからに気質的に異常があって引きこもりになったりはしないだろう。

僕の知っている家族関係はこの恐らく極端な構成のものだけなので、本来家族がどうのと語れる人間でも無いのかもしれない。けれど、家族なんてものは結局、一つのコミュニティであり、自我を持つ人々の寄せ集めであるのだから、その関係が上手くいかないのなら、自分から離れた方が労力は少ないと思う。家族というものに対する拘りを切り離すことが意外と難しいのかもしれないが、良い感情が抱けないなら切って差し支えないと思う。

問題は関係性の崩壊は同時に精神的な依拠を無くす可能性がある、ということだろう。僕は自分の家族も自分の名前も容姿も遺伝子も嫌いだ。自分を構成するすべてを嫌悪している。名前に至ってはATMの暗証番号の方がまだ愛着がある。それは自分で決められるものだったから。

だから人から名字でも名前でも呼ばれたくないという理由から尚更、孤立しようとしているわけで、我ながら馬鹿みたいな拘泥だと思う。かといって自分を呼ぶためのしっくりくる名称も無い。最早、ナンバーで呼ばれた方が良い。

このくらい自分を嫌うと自分の存在意義が全く無くなった気になる。だから、自分を愛せるということが重要なんだなーと思う次第だが、愛していないので重要だと思うのでは仕方ない話だった。周りを愛せるからこそ接したいと思うのであって、嫌っていれば触れたくなくなるのは当然なのだ。

だからこそ、子供にとっての環境は愛せるような場所であるべきなのだと思う。なんか結論が全く関係ない感じになってしまったけれども。

最近では、子供が欲しく無い・配偶者が欲しく無いというのは、自分だけの時間が欲しいから、他人が煩わしいからという理由が多いらしい。けど、それも結局はエゴを貫きたいから。結婚もエゴなら親であろうとすることもエゴである。ただ、結婚や親の責務はエゴと受け取られないように偽装されているような気がする。偽装に騙されて責任や義務を負っている親は自分勝手ではあるまいみたいに思ってしまうのだろう。親になれば、これは義務や責任でエゴでは無いのだ、と言い訳が立って良い気になれるかもしれない。けど結局は彼らのやってることも親足らんとする自分勝手に則る。

まぁ、何をやっても自己責任なのは最早、自然の摂理であって、配役なんてものは免罪符にしてはならないと思う。こういう役だからこういうことをしても仕方が無いのだ、とか言い出すだろう。けれど、結果に対しては配役がどうのなんてのはあってないようなものだ。結果に対する責任逃れのために配役を持ち出すというのは、自分を歪めると思う。