LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

心を開けば他人と仲良くなれるという神話

小説とかで良くコミュ障が僕が人と上手く関われないのは、心の殻に閉じこもっているからだ!心に壁を作っているからだ!って言う。だから、心を開けば全て解決!みたいな・・・。

僕も言われたことあるんだけどね。もっと心を開いて欲しいな・・・。みたいな。いや、喋るの疲れるし、プライベートなこととか話したくないじゃん。それを語ることが心を開くことなの?嫌なことを嫌だと言って何が悪い。それで心を閉ざしてるとか言われても・・・。

寡黙な僕にお喋りになって欲しい、とか、心を開くと言うか人格を変えないと無理だと思うんだよね。

それと仮に心を開いたところで、というか積極的に付き合ってみても、空気読めないし、会話の流れに付いてけないしさ。彼らのやることに興味も持てないしね。その内に、コイツ変なヤツだな、って同情され始めて距離が開き、仕方ないからおまけで付き合ってあげてるんだよ、みたいな風潮になるってことが何度か繰り返された。

発達障害者だからそうなるのかどうか分からないけれど、少なくとも僕は心を閉ざしても開いても人と上手く関わることは難しいのだと思う。無難な対応は一時できるかもしれないけれど、親しくなることは難しいと思う。心を開いてその人と仲良くなりたいんだよね?僕は人と仲良くなる程に付き合いきれなくなる自分を突き付けられてキツくなっていく。

自分が相手の負担になるという思いが強くなっていく。みんな僕から離れていくか、僕がみんなから離れていく。僕は嘘が付けない質なので、別に心を閉ざしているから人心が遠ざかるとか、そういう訳じゃ無く。彼らの普通が僕の普通と違うから、相容れない。

僕のようなコミュニケーション能力に障害を負っていなくても、例えばイスラム過激派と胸襟を開いて話をしても分かり合えないと思う。もしかしたら仲良くなれるかもしれないけど彼らの行動原理を理解は出来ないと思う。心を閉じている。自分の殻に籠っているということは、少なくとも僕にとっては他人と仲良くなれない原因ではない。

社会性のトレーニングを仮に積んだとしても、事務的な応答が出来るようになるだけで、日常的に普通の人と対等な立場にたって笑顔でやり取り出来るようになるわけではない。発達障害者は外国人やら宇宙人やらに例えられるけれど、障害を理解して配慮して貰った上での付き合いとは、お客様対応でしかない。

誰とでも分かり合えるわけじゃない。誰とも分かり合えない。この二つには大きな隔たりがある。前者には希望があり、後者には希望が無い。僕のように後者な人が少なからずいるように思える。精神障がい者・知的障がい者ダウン症児等、能力的に会話やコミュニケーションという手段に付いていけない人たち。

コミュニケーション能力というのは高度な能力であって、当たり前では無い。だから、当たり前にそれが備わっているという常識の上に、話せば分かり合えるとか、心を開けば仲良くなれる、とか言われても僕はそれを肯定できない現実に生きているから、そんな主張を受け入れられない。

話ても分かり合えない人、会話が通じない人、理解できない人、そういう人たちは避けられ、同じ人間じゃ無いとさえ思われるようだ。身障者は頭はまともなら普通扱いできるが、頭がまともじゃない人は同じ人間のカテゴリーにさえ入れて貰えない場合がある。そういう人はお呼びじゃないのかもしれないのだが・・。何かを克服して普通になる、ということが無理だから。ストーリーとしては心の弱さを克服して、みんなで仲良くなれるのが当たり前のゴールだから。

だから、そうなれる可能性が皆無な人に対して、どういう風に考えれば良いのか分からないのだと思う。僕らは魂や人格、自分の性格というものを信仰し過ぎている。けど、近代になって心理学が発展し、メンタルの問題が注視されて曝け出される部分。認知症アルツハイマー病などの脳機能の異常が訴えかけてくるのは、人格や性格、魂なんてものは脳機能の結果でしかない・・ということだ。内蔵の一部として当たり前に、それが機能不全を起こしていれば人間らしく振る舞うなんてことは出来なくなってしまう。

人間らしさというものは平常運転される平和な日常の中という条件下にあり得る一つの均衡の状態である。健康な脳の状態を前提として、当たり前の人間らしさが保証されるのであって、魂なんてものは幻想だ。

例えば手の無い人が身体が掻けないことを苦痛だと言うように、コミュニケーション能力が欠如している人は他人と普通に接触するという行為ができないことを苦痛だと言うだろう。僕に心を開けと言うのは、云わば手の無い人に手を伸ばして背中を掻けば良いだろうと言っているようなものだと思ってしまう。

僕にとっては、少なくとも、他人と上手く接して、あわよくば仲良くなれるなんてことは、普通の当たり前ではなく、限りなく困難である。だからこそ、その克服ということを安易にテーマにして欲しくは無い。僕からすれば、どうやって自分の運命を乗り越え、妥協点を見出して、それなりに満足して生きるのか・・・という方が現実的だと思う。

末期癌に犯された患者のように、打破できない運命に対して、どういう風にそれを許容するのか、という方が僕にとってのテーマなのだろう。

人と関われる人は、そもそも、そこまで拗らせないと思う。何か致命的なものがあって、そうならざるを得ないというのが僕の場合だった。勿論、新世紀エヴァンゲリオンとかウテナみたいに人格の革命なんてことをすれば体よく他人と分かり合えるのかもしれない。そういう人がいないとは僕には言い切れない。

また、他人と上手くやるために必要なことは心を開くことよりも、相手を理解して意を汲み、配慮できることだ。誤った意を汲んだり、誤った配慮をすれば、コミュニケーションは上手くいかない。阿吽の呼吸みたいな話で、息が合うとか、そういう話である。互いに互いの意図を読み取り、上手く調和する・・とかそういうのが理想なのだろうと思う。

現実には相手をよく見て配慮する、という気配りがコミュニケーションにとって重要なのだろうと思う。発達障害者は他人の表情を読み取ることが苦手で、意図を察したり、会話自体の流れを汲み取ることも難しい。だからこそ、結果的に、コミュニケーションが難しくなるのだ。

話すのが難しいから聞き手に徹しても、相手が何の話をしているのか、わからないのだから、詰まらないし、興味も持てない。どうにもならないと僕は思っている。焦点が分かりきっている事務的な話は可能でも、流動的で目的のない会話は難しい。会話は話し手になったり、聞き手になったりして応答されて成り立つものだ。その両方にも欠陥を抱えている僕には難しい行為。しかも、一々分からないと言っていたら空気を害することになるだろう。

にも拘らず、人と親しくなるには会話が殆ど不可欠のように思われる。じゃあ結局、人と親しくなるのは困難なんじゃないの、と僕は思う。それがかなり寂しいことでも。障害というのは、結局そういうことなのだと思う。

意味を通して話せないから聞き手に徹すれば、相手の言いたい放題に相槌を打つだけの都合の良い相手として使われる。そういうのは相手に見下され同情される結果になる。相手の都合が悪くなったら相手にされなくなるだけの関係。何というかサンドバックなんじゃないかと僕は思った。

発達障害者は多分、心を開く・・というか話し手をやろうとすると意味の通じないことを延々と話す奇異型になって引かれるので傷つき、結果大人しい受動型にならざるを得ないが、それはそれで相手の話を黙って聞くだけの機械になれよ、みたいな感じである。その癖、相手の話の内容なんてよく分からないのだ。そんな相手では壁に話すよりはマシ程度だと僕は思う。まぁ、話しを聞いてくれる相手がいないような人には需要があるだろうが、そういう人は聞く耳が無い。僕のような面倒な人間が心を開いて訳の分からない話をしても受け入れる度量なんて持っていないのだ。

結果として、使われるだけの存在として他人の傍に僕は居たくないし、利用されることを以てして仲が良いとか言われるのはありえ無いと思う。言いたい放題自分のことだけを話まくりストレスを発散したいだけの人と付き合いたくはないと思う。それは少なくとも心を開いてるとかそういう問題じゃないでしょう・・と。