LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

優しい虚構と赤裸々な現実

コスプレ画像なんかを見て、アニメキャラと比較した時の残念感というか。コスプレは、あれって少なくとも第三者から見ると夢を覚ましてくれる劇薬のような気もするんですよね。結局、リアルでやったら痛いのだと・・。まぁ、当人たちはハロウィンみたいなものなのかな、と思うのですが。

私は二次元が好きですが、現実の人間との区別はしていると思う。と思うと猜疑的なのは、私自身でも分かっていない部分があるだろうから。特に引きこもりがちな人は現実という世間知らずになりがちだと思う。現実という世界がただ私たちが生きる本当の?世界だという意味においてのみ、私たちはそれを知っていると思い込んでいる

現実を分かっていると思い込んでいる。けれど、積極的にこの世界にアプローチし続けなければ、この現実が分かるということは無いと思う。現実はもっと理不尽な何かだとは思っているとしても、それが具体的にどうだと想像することは困難だと思う。

引きこもりというのは、その現実という想像の前に跪いてしまうものだ。無論、経験を元にした推測の現実を幻視して、そこに恐怖を抱くのだと思う。だから、当然、当たっている場合もある。問題は一事が万事そうであると決めつけて外界へ出られなくなる、ということだろう。そんな現実から目を背けたいけれど、どこかに生きる場所が欲しいと思う。要するに居場所が欲しい。

だから、優しい仮想世界を求める。アニメ・ドラマ・MMO・趣味・・・自分にとって優しい現実。人間社会が作られた現実なら創作された作品も別の現実と言える。だから、生きなければならない現実と自分にとって享楽的な現実とを履き違えることは容易だと思う。この生の現実においても、自分が依拠したいと思う現実を私たちは選択したいと思い、選択することがある。それは積極的な思い込みだ。

1.例えば、B子には私が必要だ と思い込むAさん。

2.対して、必要無いと言っているのに受け入れてくれない と思うB子さん。 

状況をどのように捉えるのかということは恣意的である。これは私の経験上の話だが、Aさんは自分にとって都合の良い優しい虚構を採択していると私は思っている。

例えば、これがストーカー行為の在り方だとすれば想像しやすいだろうか。あるいはアイデンティティを保つためかどうか知らないが、迷惑しているにも関わらず他人に世話を焼きたがる人、とか。

アニメやドラマと違って、この現実世界における虚構は見抜き難いと思う。自分自身が信じたい現実を人は信じるというのだけれど、その現実とは全てである。魔法があると思えば、それを信じ込むことも出来るだろう。

けれど、アニメやドラマも魔法も現実も・・・全て創造物に過ぎない。ある意味ぶっちゃけてしまえば、全ては私という受信機の中で統合されているのだから、虚構と現実の区別なんて自動的には付けられないのだ。

まぁ、ある意味では、そのために人は狂ってしまえるのだと私は思う。例えば、漫画的なレイプが現実的だと思い込んでみることは可能だろう。あれは漫画であって・・などというのは、私の中での分別しなくてはいけない情報に過ぎないのだから。

じゃあ、何が現実なのかと言えば、現実とは現にサバイバルしているこの世であり、其処における適当な認識だと思う。状況判断を誤らないように現実を分別することが見当識の果たすべき機能だと思う。私は誰か、彼は誰か、此処はどこか、あれは何か、今は何時か、どうすれば良いか・・。そうした判断力はリアルタイムに生きる為のものだろう。

まぁ、発達障害者のそれは明らかに支障があるのだが・・。他人の感情が読めない、場面の意図が読めないなど、かなり厳しいと思う。

リアルタイムに生きるということを実践しているのは、犬・猫だろうか。この間、動画を見たけれど、TVで野球の投手がボールを投げて、向かってくるボールに犬が飛びついた。その反応は画面の向こう側も反応しなければならない現実だと捉えたためのものだろう。あるいは動画の狼の鳴き声に対して、遠吠えを返す犬など。

鏡の向こうは現実では無い・・・という微妙な賢さが、人間に虚構と現実を作り上げているが、実のところ、この能力が半端で虚構と現実に上手く分別を作り上げることができず、どこかで絡まって迷走するのが人間という半端な存在なのだと思う。

まぁ、発達障害者の私が欠陥品なのかもしれないが。鏡に移る自分を自分と認識したり、でも自分とは違うと認識したりなど、そういう機能は高度なもので、精密機械のようなものなのかもしれない。だからこそ、微妙な狂いが大きな問題になってしまう。

美しい虚構を汚い虚構で引き裂こうとする心理は、あるいは自身が狂わないためになされるものなのだろうか。それにしても、美しいものを汚して、それを現実だと突き付けたいかのような行為は、恐らく反動的なもので、それ故に、眉を顰めるような醜態になってしまうのだろうか。

現実はこんなものだと見せつける行為が時に行き過ぎた示威的なものにさえなる。その現実は平静な人から見れば今度は別の虚構に過ぎない。

私たちに必要な現実とは生きる上で適切で妥当だと思える仮説だとでも言えばいいだろうか。どういう分別をしておきたいかと言えば、良識あるものだと私は思う。あるいは、科学的であったり、合理的なものだろうか。

コスプレは二次元に対するカウンターカルチャーというか、テーゼに対するアンチテーゼのようでもある。まぁ、フォトショップなどを使ってしまうとまた別なのかもしれないが。そういうものが弁証法的な展開により昇華され・・・云々、とか思う。

ちなみにフォトショップは好きじゃない。加工されたリアルは3次元と呼ぶべきものか。私のように外にあまり出ない人にとっては加工されない現実が分からなくなるから嫌だと思う。

まぁ、夢を売っているなどという芸能界やTVなんかの台本ありきの八百長も大概人を唆しているものだと思うけれど・・。