LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

外見?中身?

中身が大事か?外見が大事か?なんて二項対立。健全な肉体には健全な精神が宿る、なんて話とか。

トリーチャー・コリンズ・シンドロームという病気があるそうで、画像検索を掛けたら結構凄かった。私は精神障害>身体障害なんて思っていたけど、こういうものを見ると、何とも言えなくなる。見た目が奇異になる症状を患うと、精神が歪む原因になる気はする。昔から、こういう病気は見世物にされてきたわけだし。

普通では無いという自己認識を私はあまり良く無いと思う。まだ自分は普通であると思っている方が、世の中に適応していけるかな、と。普通の人間は自分のことを他人より少しだけ良いと思っているそうで。曰く、まだ自分は普通の範疇にいるだろう・・と思っているようだ。

結局、そうした問題の何が悪いかと言えば、孤独になってしまうことだろうか?自尊心の欠如とか、明るくいられない要因になりそうな気がする。

健全な肉体とは、結局、自身にとって健全と言えるかどうか、という点も含むかもしれない。健全=健康ではなく、恵まれた肉体という意味を持っている気がする。美醜も含めて。

まぁ、私から言えば、精神=脳=内臓=肉体であるので、健全な肉体の内に健全な精神は内包される概念だと思うが。逆に言うと、健全な精神が無ければ、それは健全な肉体とは言い難い。

外見が大事か、中身が大事かという話も結局は同じことで、人間という概念自体が纏まりである以上、分けることは出来ないというべきだろう。無論、中身を予め推し量ることなど出来ないために、外見から入ることになるのだろうが。けれど、ネット上のやりとりなど顔が見えない場合には、中身?から関わることになるのだろうが。

デカルト心身二元論じゃないけど、これは擬似的に分けて考えているだけで、実際には脳は身体を統制しているだけで、全身があってこその脳であると思う。司令部だけあって人手が居なければ用を為さないのと同じように。

私は敢えてどちらか、という風に考える必要は無いと思う。生命維持とか何がしかを考えて優先順位はあるかもしれないけれど。

この問いで一番重要なのは、どういう測りを用いるかだろう。外見が/中身が、醜い/美しい?

その美しさや醜さの基準はどこにあるのだろう。

身だしなみが整えられているから、彼は身だしなみが整えられる人なんだ、と思う。

他人に気遣いをしているのを見ているから、彼は他人に気遣える人なんだ、と思う。

他人の中身を判断するには、行動を見なければならない。逆に言えば、行動が伴わなければ中身を知って貰うことは出来ない。この辺が一番重要なのかなと思う。

私って優しいだけが取柄で・・・・

じゃあ、何を以て優しいと定義するのだろうか。

まぁ、こう考えるのが発達障害者故の思考なのかな・・・と思うけどね。私はよくよく優しいと言われるけれど、何を以て優しいというのかわからない。優しさの定義が自分の中に無いので、私は私を優しいとは思わない。また愛が何か分からないので他人を愛せるとも思わないし。形容詞は曖昧で難しい概念だと思う。

勿論、他人に優しくすることは出来るけど、それは無闇に諍いを起こさないための無難な当たり障りの無さそうな処世術というだけの話だろう。私が優しいとすれば、それは受動的な優しさであって、能動的に優しくしているわけでは無いとも思う。好きで優しく振る舞っている訳では無くて、消去法的に選ばれた行動に過ぎない。

まぁ、それでも選択する行動の基準が「優しい」のかもしれないけれど。

けど、こういう人は私からすると微妙だと思う。自分に余裕があるうちは、自分にデメリットが生じないうちは、優しく振る舞うかもしれないが、当人にとって優しく出来る状況じゃ無くなれば、別の態度を選択するだろう。そうであるなら、その人は優しい人じゃないと思う。都合が良いときだけ、優しい人間は優しい人なんかじゃないんだよ、と言っておきたい。

この辺りから、他人を気遣える人というのと、優しい人というのは同義ではない。私の優しさはなるべく他人と摩擦が生じないようにしようという防衛手段だと思う。摩擦が生じた時に上手く対応できる自信が無いから。パニックに陥り、何をするか分からない・・・かもしれない。その一定しない不安定な優しさは本質とかでは無いんだろうと思う。

私の場合、それは拒絶であり、恐怖であり、不安、臆病さの現れ。ネガティブな深層心理の上に築かれた差し障りの無さだろう。そういう類の優しさがあるとして、それは利用されやすいだろうと思う。優しさに付け込まれるのは、この優しさが弱さを隠すための覆いの類だから・・・じゃないだろうか。

私が優しいと言われるたびに、私は自己の脆弱さを指摘されている気がする。それでも尚、それは優しさなんだ、と言おうか。その表現は不適切だと言わざるを得ない。それは善と偽善の違いだろう。表面的な結果が同じでもプロセスは大きく異なっている。結果が同じならば良いという人は所詮受け取る側に過ぎない。自分ではない。自分では無いから他人だから内在される意図も見えないのだろう。優しさだけが見えて、騙される。優しさを肯定する相手が、この誤った優しさを抱えて不利益が生じる私ではなく、抱えていないから利益だけを受け取ることができる相手だということだ。彼は苦みを抱える私とは異なる立場だ。

それが優しさだと肯定してしまえば、私は搾取されるだけだ。結局、相手に都合が良いだけの優しさは対等なものではなく、自らの欲するところでもあるまい。

自分を守るための結果としての優しさは脆さである。他人に優しくするなら、その動機を自分の中で掴まえていなければならないと思う。そうでなければ行為は行為でしかなく、優しさ故などと騙るべきではない。それは只のオートマチックな対応に過ぎない。

まぁ、考えることは疲れるから只の反応で良いのかもしれないが、それを優しさだとか標榜したいのなら、私の優しさは違うと思うし、私はこれを優しさと評することを拒否する。私は少なくとも自分で優しさを振るえるような人間では無い。

それが分からず、自分は優しい人間だという人が私は好きでは無いと思う。私は優しいなんていう人がたまにいるけれど、大抵の人は優しさなんてものについて分かっていないのだと思う。私も分からない。分からないものを分かると言ってしまえる人は物事を大きく割り切ってしまっているのか、あるいは短絡的だろう。考えが無いなら黙っている方がマシだと思う。

善が行使できないなら偽善を扱えば良い。優しく出来ないなら、偽りの優しさを用いる。重要なのは、それがフェイクだと分かっていることだ。私は自分を騙して、何も分からなくなるのは嫌だと思う。だからこそ、分からないものは分からないままにしておくのだ。

嘘を塗り重ねるのはゴメン蒙りたい。