LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

愛は一過性のものです

愛の神「エロース」 性愛

     「アモール」愛

     「クピードー」欲望

                                                         『世界神話大図鑑』より

というのは、覚書。古代において愛とは性愛や欲望を指していたのだろうか。欲望に関しては以前に書いたが、生きるためのフィードバックシステムであり、過剰になると支障となる。私は愛も同様だと思っている。よくセックスレスが問題になるが性欲とは一過性のものであるため、仕方ないと思える。エッチな下着を着るとかムードを盛り上げるとか、媚薬を盛るとか、性欲を励起させることで何とかするしかないのだろう。

相手を求める切ない感情は性欲や人恋しさなどだと思う。そこに所有欲やら独占欲やら何やらが入り込むのだろう。そうした絡んだ欲望の総称を愛と呼んでいるような気がする。特に大きいものは性欲であろう。性欲で相手を愛していると呼称するのなら、その減退がイコール愛情が無くなったという表現になり得ると思う。愛想を尽かすのは、相手に対する情を失するのである。情があっても、相手と関わるデメリットが大きくなれば、相手を見限るということにもなるだろう。愛や情があるからと言って結びつく運命にあるわけでもないのだから。

愛着の感情にしても煩わしい。愛しているから信じている等というのは愚かしい。冷静な判断力を失い、物事に公平さを欠くことになる。恋愛だけではなく、これは家族や恋人、親友など特別な関係に有り触れた問題だ。所謂、身内贔屓というものだろう。

相手にとってもそうであると決め付けられることは負担になる。自身が変化することを拒絶される鎖になることがあると思える。時にXだから愛さなければならないという強迫観念なども此処に含まれるだろう。両親は子供を愛さなければならない。そうでなければ嘘だと言うほどの強迫観念を持つ人もいるだろう。けれど、それは道徳的観念であって、法的には子供を養育する義務が生じるだけだろう。愛情や愛着などは、何を根拠にしているにしろ、思考の柔軟性を殺し、感情の滞りを産むことがある。

欲求不満やストレスの負担は犬猫の話であれば、問題行動を引き起こす引き金だ。人間も同じだと私は思う。大抵それは暴力的な行為に変換される。自傷であるとか他傷であるとか。要するに面倒事だ。不健康な在り方が慢性化することで、それは人間的だと思われてしまうこともあるように思えるが。

それが変わりようの無い関係で真理で永遠なのだと思い込んでしまうのは、悪いと思う。愛情や愛着や関わる諸々の物語や関係性は不変で無ければならないのだろうか。例えば、親や兄弟を見限ってはいけないのか、など。見捨てられないという気持ちは時に病的だと私は思う。

例えば、ストーカーの気持ちはそういうものだろう。私が何とも思っていないのに、あっちは見捨ててはいけないと思っており、私に執着する。私にとってそれは迷惑以外の何物でも無いにも関わらず、彼は私の意思を慮ることは出来ない。それはそういうものだと私との関係を決めつけていることから来るのだろう。

永遠の愛や絆なんてものは変化を停滞させる鎖である。歳を重ねれば服装や態度を変化させる必要が生じてくるように、関係性も日々うつろっているものだと考えなければならない。季節が巡り春夏秋冬が毎年やってくるとしても、木々も年輪を刻み滅びへと向かっているのだろう。滅びていく種族も毎年のことだ。今日と明日がその差が緩やかであっても同じでは無いという事実を思い出した方が良いと思う。万物流転である。

私たちは永遠を求めたいが、そんなものはどこにもないと確信することこそが永遠の真理だろう。

追記:

親にとって子供はいくつになっても子供なんだよなんて言葉で無償で永遠の愛を語りたがる人がいるけれど、それはそういう演目をしたいだけなんだろうと思う。理想的な関係は、相性の良い動物たちのように寄り添っていたいと互いに想い合えることだと思う。けれど、愛の誓いとかそういうものは、契約の上の義務として相手を愛さなければならないという逆説的なものになると思う。信仰と同じである。これを破ると例えば親として失格のレッテルが貼られる。それは宗教者として失格であることと同一で避けなければならないことなのだ。

殺人を犯してしまうと人間失格になるとか、永遠の十字架を背負うとか良く分からない思い込ませの道徳観の類。良い親で無ければならないとか、そうでなければ、レッテルを貼られるだとか、そういう消極的で受容的な姿勢。それは集団的な暗黙の了解とでもいうべきなのか、守るべきと思い込んでいる常識。

日本には妙にマザコンが多い気がするけれど、母親と言うものが慈母か菩薩のように崇められているところがある。その母親信仰がマザコンやら子供への依存やらを引き起こしているように思える。女性側からすれば母親という重い役割を背負ったのだから、良い目が見られないなんて嘘だ、みたいな感情なのかもしれない。母親という役割は母性という名において自然であるとされ、そうでないことは不自然だとか失敗だとかとされる。そういうプレッシャーから母親という役割自体に気負って、同化し、アイデンティティをそこに求めようとする。要するに子供の側に結局はそのストレスが吐き散らされることになると思う。私の人生のツケを払えという感じなのだろうか。

配偶者にしてもそういう感情が強いように思える。今までの人生に掛けて来た時間=掛け金を返せと言いたいわけだ。それが結局、親や子供や友達や学校や社会や何某かの自分を巻き込んで負債を背負わせたと考える者に対して抱く感情である。その代償行為として、あれこれと質の悪い問題を引き起こし、あるいは引き起こされるように思われる。

育ててやった恩を忘れたのか、とか、誰が面倒を見てやっていると思っているんだという形で、自分のアイデンティティを相手に委託しようとする。私の苦労は全て子供のための犠牲であると思いたい。恋愛が実らなければ、これまで誰のために・・・などと抜かす訳である。母親も同じで自己犠牲ということにして代償を求める訳だ。その代償は時に形の無いものであろう。例えば、愛や絆や恩などといった。または自分の自己実現を子供に委託したり等。子供に投資して投資した分が返って来なければ嘘だと思う。そうでなければ、自分のこれまでの母親としての人生が否定されてしまうから、子どもに自分を否定させることを許さないとか。

そういう一人の人間としてのエゴが根本だと思う。結局、親としての自分では無くて、一人の人間としての自分が相手に自分の都合の良いように踊ってくれることを要求し、それを親だからとか、何だからとかいう根拠?で正当化しているに過ぎないのだと思う。こうした正当化というのは自分を欺くものである。だから、本人は本当に親だからどうのと思ってしまう。

悪意を以て為される悪がどれ程あるのだろう。害意を以て為される害がどれ程あるのだろう。大抵は自覚なんて無いのであろうし、それでもそれは悪や害をまき散らすのだ。正当化して害悪について考えることを放棄し、嘘を積み重ねても、吐いた嘘に気付かない。そうして保っている正気は正気と言えるのだろうか、と私は考える。私は嘘を許せないと思う。自分を謀ってしまうと何を謀っているのか分からなくなるからだ。嘘を一つ吐く毎に私の中で一つ糸が絡んでいく。一度絡んだ糸を解くのは酷く大変である。糸が絡む程に自分というものが分からなくなり、何を偽っているのかも分からなくなっていく。

人生は積み重ねていくものだろうか。全ては糧にならなければ嘘だろうか。私は過去を崩してばかりいる。あるいは葬り去り関係を壊して刷新しようとする。結局、過去という重荷は捨てていくことにした。関係性は軽い方が良い。スケジュールを積み込み過ぎて生きることが操り人形のようになって、ままなら無くなる。役割や責任を負って生きて行けるほど私は能力が無かっただけだと思う。

自分で選んだものに後悔はしないが、自分で選ばなかったものには後悔した。そうしたものは捨てられるものは捨てて、新しいものと取り換えることにした。永遠の愛が欲しいというのは頼れる壁が欲しいのである。体重を完全に預けても問題無いような壁。それは他人に求められるものではない。犬や猫にはあるいは求められるのかもしれないが、それは私が犬や猫に妥協しているからに他ならない。ペットに過ぎない彼らにそれ程期待していないから愛せるのだ、というのは逆説的だと思う。せいぜい寄り添っているだけで良いのだとか、その程度の話である。彼らに代償を求めるようなことは無いのだから上手く行くのだと思う。だって、犬に下駄を預けても生きて行けないから。

自分が自立している内は物事は納得できるだろう。けれど、他人に下駄を預けてしまえば納得することは難しくなる。どういう関係性でも自分は自分であり他人は他人であると思っておきたい。でなければ、それは狂信や盲信になる。何を何故信じるのか、それは自分で考えて自分で決めて自分で責任を持つ。そうでなければ後悔し、他人を憎悪する羽目になる。自立しているというのはどのようなことがあっても自分の中で消化し決着できるということだと思う。責任が取れるのかどうかは具体的には分からないが、少なくとも自分の事だと把握しているということである。要するに、この選択はそれが他人事では無いのだという気の在り様に関わる。

私は他人の案内でどこかへ行くと帰り道や行き方を記憶していない。最初から自分で行けば、またそこへ行ける気がする。他の人はそうでもないのだろうが、発達障害者は実際に自分で一から十まで自分の意思によってやってみないと、いまいち理解出来ないように思える。

相手任せにすると、自分でやらざるを得なくなった場合に困る。そして、何をやっているのか理解も出来ていないのだから。ある程度、それは私にとって仕方の無いように思えることだが、委託する相手は選択した方が良い。何を任せて大丈夫なのか、何を任せてはいけないのか。

投げているようでいて目を配っているべきだと思う。それは自分が責任を持つための行為だと思う。責任を持つのは後悔しないためだ。信頼と実績なんていうけれど、実績があるから信頼するのだと思う。科学を信頼するのは、それが再現可能だから。何か根拠を以て信じるということは可能だと思うけれど、そうでないならただの博打だろう。

永遠なんてものは幻想である。だから愛を誓うのは馬鹿げている。諸行無常だ。

借金を抱えた歯科医の夫が妻に死ねと迫られ続けて本当に死んでしまったという事件があった。そんな相手に義理立てするなよ・・・と私は可哀想に思った。罵詈雑言を吐かれるような夫婦関係なら即刻抹消してしまえ・・と私は感じた。それが出来なかったからこの夫は死んだ。これもまた関係に縛られた結果だろう。死ぬくらいなら逃げたら良いのだと思う。それが可能なら。傷つけあうような夫婦なら別れてしまった方が良い。愛なんて成り立っていないのだから。婚姻の契約なんてものを律儀に守って死ぬことは無い。

永遠を幻視するか、相手に下駄を預けるか、依存するか、寄生するか。自分で常々責を負わないからそういう結果になる。女性は特に社会的地位が低いために男性に寄生してしまうか、そうしないとダメなように思えてしまうのかもしれない。けれど、他人への執着なんてそうまでしてするものではない。

嫌になれば逃げられるくらいの多様性や選択肢が今の社会には無いのだろうか。それとも無知ゆえに見えていないだけだろうか。変な執着や拘泥をして長く感情や関係を憎悪させてしまう方が自分にとっては良く無いのだと私は感じる。

死ね死ねと言ってホントに死ぬとは思わなかった・・・って中学生の言い訳レベル。まぁ、大人でも一部はそんなものなんだろう。大人でも幼稚な人は幼稚だし。私も若しかするとこのままかもしれない。この人は言葉が暴力だという自覚に乏しかったらしい。自覚してはいただろうが、気付かないフリをしただけかな。積み重ねないものなんて薄まって忘れてしまうのかも。

私は結婚する気ゼロだから、まぁ関係ないやと言えるけれど、嫌になったら夫婦もやめたら良いよ、と思う。子供にとっても夫婦仲が悪いことの方が悪影響になる。慰謝料をやり取りしてどちらかで育てるなり、孤児院に打ちこむなりすれば良い。親子関係も辞めたくなったら辞めたら良いと思う。絶縁という言葉を叩き付けて家から出ていけば良いんだよ。孤独なら都市へ行けばいい。孤立してても問題にならないから。

まぁ、そうして旅をして自分の居場所を見つけられたら良いんじゃないかと思うけどね。それでも永遠なんてものは無いと思う。流転してその内に滅ぶのだろう。寝心地が悪いから寝返りを打って良い体勢を確保しようとするようなものだと思う。まぁ、私の場合、極端でボッチへの直通切符しかないような有様なのだからアレなのだけれど。

普通の人は、仲良くなれる人とは仲良くなれるんじゃないかな・・多分ね。でも私のように普通じゃない人もいるのだから、誰とでも仲良くなるなんてことは出来ないんだよね。それが親でも兄弟でも配偶者でも。その仲だって、一時のものかもしれないわけだし。まぁ、それはそれだろう。

普通で常識的で良識的な人なら、それなりに関係を築いて上手く生きられるんだろうと思う。でも、そうじゃない場合もあるのだという話なのだ。常識や良識や普通なんて期待しても無駄な場合もあるんだよ。話しても分かり合えない場合があるとか、まぁそういうこと。そういう人とは距離を置くべきだ、と私は思う。それが出来ない場合には面倒事が起きるだろうし。

相手との距離感を掴むというのはフィードバックシステムになっていて、要は空気を読むことなわけだけども。そうやって距離を測って上手いこと互いに気持ちよく過ごしましょうっていうのが人間だろう・・と。それはどんな関係であっても。親しき中にも礼儀ありという風に。そういう意味でもギトギトした永遠の?愛なんてものは過剰で破綻しているのだろう。

まぁ、距離感が天然で掴めない仕様っぽい私には語る資格は無いのかもしれないけれど。相手を殺したいほど愛していても空気読めよということだ。