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LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

太ること

自省しない生活を送っていると直ぐに太ってしまう。理性的な生活を何時も心がけることができない。

ベンジャミン・フランクリンのように、生活に理想を以て維持するようなことが難しい。

「部屋をこまめに清掃しましょう」みたいな話であり、定期的に~であったり。

毎日生起する欲望に踊らされて、失敗する。

『選択の科学』を思い出すが、今日100円貰うか、一週間後に150円貰うか。

前者ばかりを選んでしまうようではダメなのだ。

イキガミ』とか、生きることに逼迫している状況での生き方が真理、みたいに描いた作品があったけれども、あれは、逼迫した状況における選択であって、何時も今日死んでしまうと思って生活していたら破滅してしまうだろう。

メメントモリ(死を思え)という言葉を、例えば上記のように曲解するのも悪い。政治を老人がやると、将来を見越さない政策を行うから悪いと言われるように。社会というものを想定した場合には長期的な計画が必要になる。人間一人の生活を見ても同じだ。貯金や年金、将来設計、保険・・・。それらは不測の事態に備える意味を持つ。

今を生きるという言葉と将来のために生きるという言葉の二項対立。今が幸せじゃなければ意味が無いじゃないか、と後者を無碍にしても良いように感じてしまう。けれど、それは余裕の無い考え方だろう。どちらかしか選べないわけではなく、両立できれば良いのであるから。

状況に流されて、逼迫した状態では溺れる者は藁をも掴むという感じになってしまう。それは、まぁそんなもんなんだなーと思っておけば良い。冷静でいられるとは思わない方が良いのかもしれない。余裕が無い時の行動というのは拙速だ。つたないのである。結果を十分に斟酌しない。

まぁ、だから私は太ったのであろう。部屋にゴミが貯まるし、生活も破綻している気がする。目先のことに踊らされて、生活の全体を見渡さないツケだ。

まぁ、同時に太ることもあれば痩せることもあるだろうと思っている。過食や拒食に対しては、その程度の認識である。最近、脂ぎったものは苦手になってきた。豚骨ラーメンとかね・・。昔から塩派なんだけど。過食の人は目の前の欲望に踊らされ、拒食の人は食べれば太ってしまうと恐れている。何れにも理性的な目が欠けている。カロリーは計算し調整すれば体重は調節できる。理想的には。

けれど、細目にそうする気が向かないというか、そういう意識が湧かなくて、理性の行使を投げてしまう。

昨日無線LANの電源が入らなくなって、インターネットに接続できなくなり、絶望したけれど、有線にすれば良いや、と思って直ぐに復興したんだけれども・・・。要は私の気力がもっとなくなると、無線LANがOUTになった時点で諦めるだろう。キーボードクラッシャーな感じになるかもしれない。

問題を提起して(1)、それを解決するにはどうすれば良いのか?(2)

理性を働かせて行動に移すには、(2)だけではダメで、(1)が重要になる。問題を提起する能力=目標・目的が無ければ、方法(2)に至らないからだ。問いを立てる能力は、解決する能力と同じくらいに重要だ。

主体性・行動力・好奇心・積極性・自ら考える能力・・・などは、(1)が無ければ成り立たないだろう。恐らく鬱状態では、そうした気力が及ばないのである。

(2)まで行けたら、行動に移す(3)だけなのだが、その部分にもハードルがあるんだろうね。そのハードルを越える力が乏しい、っていうのが所謂、意志が弱いということになるのだろう。

PDCAサイクルを思い出した。計画・実行・評価・改善という情報処理のプロセス。まぁ、PDCまでのサイクルで基本は良いと思うんだけどね。日常生活で考える分には改善を要するのは評価に満足できない場合であって。常に改善していたら疲れるだろうし。

頑張って理想的にやろうとした結果、疲れて挫折するというのが良く無くて、反動で何もする気が無くなるし。息抜き・ガス抜き・脱力というか、過度なストレスにならないように手加減しないと続かないんだろうと思う。まぁ私は極端だから、続かないんだけどさ・・・。

最近は「人生意味なんて無いんだし、程々で良いんじゃね」と思っている。こういう所信は大体人生を通して変遷していくものだけどね。私に信念があるとすれば万物流転だろう。勿論、科学的な根拠がそこにはあると思うけど。