LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

スキル制談義

スキル制の小説が面白いなーと思って読んでいる。中でも薦められるのは『まのわ』かな。

装備やスキルの名前なんかは良く想い付くなと感心する。

SAOとかVRMMOものが流行って、そういうゲームがプレイしたいな、という需要はあるけれど、肝心のゲームが無いんだよなーと思う。FF11が出た頃はとてもワクワクしたものだけれど。FF15にも期待しているけれど、オフラインだからまた違うよな、と思う。あとはスカイリム的なゲームとかがまた出て来ると嬉しい。

スキル制の理想は『サモナーさんが行く』みたいな形が良いなと思う。特に合成でアイテムをでっち上げられるところが良いが、物理法則をゲームに導入しなければならないので難しいと思う。『スカイリム』もそちらの方面には行かなさそうだ。『スカイリム』のような凝った部分をもっと延長しなければならないから余計に難しいと思う。特に日本のゲームにそういう深さを求めても無理な気がするし。

フリーゲームだとドラクエ的戦闘が主で『スカイリム』的なアクション性が無いから微妙になってしまう。VRMMO風を求めるには少なくともアクションRPGである必要がある。そして、それはフリーゲームとするには開発に難がある。それでも『セスタニアの迷宮』の続編には期待している。

アトリエ作品にも期待している。戦闘はテンポが良くなって来たけれど、合成面やノルマが不調和なのだと思う。ストーリー的な期間の縛りが無いフリープレイみたいなことをしてみたいし『レミュオールの錬金術師』のように合成したアイテムの販売などの要素があると良いなと思ったり。

理想を述べると『スカイリム』+『セスタニア』+『アトリエ』+『レミュオール』的な感じだろうか。『スカイリム』も魔法とかショートカットとか難があるけどね・・・。あとダンジョンが結局は数種類のコピペだったり。そういう意味では『FF11』や『.hack』のような戦闘も良いとは思うんだけどね。ただ不確定要素で遊ぶには『スカイリム』みたいな方が面白いと思う。

『FF14』に顕著だけれど、バランス調整という名の元に完璧に管理されたゲームは詰まらない。攻略法ありきで開発されているために自由度が低くなってしまう。そうなるとプレイしていて先が読めてしまう。要するに永遠に繰り返しなんだろうなー、と。『FF14』の場合は、ちょっとずつパラメーターが増えていくだけ。気付いて先が読めてしまうとスーっと熱情が醒めてしまう。コツコツやって欲しい・・・みたいな開発者の言い訳。なぜゲームで仕事させられなきゃならないのか・・・なんて言ったものだけれど。

レベル上げが好きなプレイヤーはそれでも良いと思うんだろうけれど、私は残念ながら飽き性だ。ダンジョンもただダラダラと長いだけのものなんかはあっさりと投げてしまう。酷いものは正方形の中を隙間なく迷路のようにして作られた工夫の無いダンジョンとか・・・。昨年のベストフリーゲームに選ばれた『OFF』もレビューを読んだけれど戦闘が実に嫌がらせのように多いらしくてプレイする以前に嫌厭している。

そういう意味ではシンボルエンカウント派だけれど、明らかに避けようの無い配置だとか移動速度だとかを設定しているゲームはダメだと思う。

例えば『セラフィックブルー』も傑作だと思うけれどダンジョンの長さやエンカウント率の高さで損をしている。『セラフィックブルー』のシナリオは今でも一番好きだと思う。最初に生きている意味を押し付けられ、それを果たした後の自分に価値が無くなり、自殺するっていう。

そういう意味では最初から無価値であった方が気楽なんだろうなと思う。「意味を持って生れて来たんだよ」なんて言われても重いしさ。人権を守るために人間の命を軽くしないための方便として「命=価値がある・意義がある」というのだろうか。主人公(女性)のヴェーネは自分の使命を果たして意義や価値を失って生きる気を無くす(という話だったと思うんだけれど)。

ある意味ではレイク(主人公・男性)は無駄死にだよなーと思うけど、自分の命を背負わせるのも相手を苦しめてるよなーとか思う。「私の分まで生きてね」とか呪いだろうと。家族との絆とかも私は呪いだと思っていて。両親との絆とかね。現実的な話をすると身元保証人的な意味で家族という存在が個人を束縛しているし。

多くのアパートやマンションが借りられなくなったり、保証会社と契約して余計な手間賃を払わざるを得なかったり、家族がいないだけで不利になる部分があるということ。あるいは自分が何か事故を起こした際に(伝えたくないにも関わらず)連絡が行ってしまう、とか。そういうシステムは切り離された個人であることを中々許可してくれないものだと思っている。個人で居られないということが辛くなってしまう部分があるんだろう、と。

名前なんかもそう。名字なんかは出自と切り離せないし中々変えることもできない。私は自分の名前は記号か番号に過ぎないと考えることにしている。遺伝子にせよ名前にせよ個人以外の系譜に囚われている。それを認めたく無い人には困ったものだと思う。私としては暗証番号の方が身近という有様だ。いっそ名前にしても026番とかの方がスッキリしているんじゃ無いだろうか。『エッグハート』でグピンちゃんというヒロインが「名前なんてどうでも良いわ」って言っていて主人公にキレられるんだけれども私は賛同してしまう。

ジョジョの奇妙な物語』のツェペリさんの一族なんかが聞いたら怒りそうだけどね。「家系や一族を尊敬できる」というのはどういう気持ちがするものなのだろうか。

千と千尋の神隠し』とか多くの作品で名前は「重要なもの」とされている設定があるけれど、私はそんなに重要では無いと思う。個人が識別できれば問題ではない。利便性の問題。そこに意味が付与されることでどちらかというと面倒になると思う。名前に意味を求めないで欲しい。意味に縛られるから。「どんな思いを持って名付けられたのか」なんて学校の授業とかでやるけれど重い。猫なら白とか黒とか在り来たりの名前の方が良いのよ、と思う。

統計的にも変な名前付けるとグレる確率が上がるからね。

千尋が名前を取られるシーンや「顔無し」の存在を考えると、名前を取られるということの意味することは「個人として認識されなくなる」ということだろうか。群衆になるというか。

でも私から考えると群衆の中の一人で居られた方が楽なんだろうと思うけどね。それは「紛れてしまう」というよりも「紛れることが出来る」とも言えるわけで。カメレオンの保護色じゃないけどね。「平凡は嫌だ」みたいな時代があったと思うんだけど。障害者なんかは紛れることが出来なくて苦しむ。芸能人なんかは見ていて分かるように不祥事を起こすと普通の人より袋叩きにされるわけで。現代では寧ろ「目立たない方が良い」ような気がしている。ネット文化の結果かもしれない。

「君も主人公になれる!」みたいな煽り文句。シンデレラシンドローム。けど寧ろ今の私の心情はそこに逆行している。年齢的なものなのか時代的なものなのか。花より団子というかね。その「普通」とやらもともすれば正社員的なイメージなのだろうけれど。統計を見ると労働者の半分くらいは非正規雇用者になってしまっているわけで、この普通の価値観もずれてるんだろうな、と思う。こっちの理想の普通こそ私から言えば主人公なのかもしれない。