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LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

愛と好き嫌いと式と結果

思想

僕は忘れたことはきっと繰り返し書くので、過去の記事にも似たこと、あるいは同じことが書かれているかもしれませんが悪しからず。

昔、認知症の祖母は同じことを喋るということを繰り返したらしくて僕と比べられましたが、僕も同じです。同じ話題を繰り返します。認知症の人と発達障害者との間の差異は分かりません。「同じ」がどの程度であるのか分からないということです。とりあえず、例えば、僕は先ほどまで話していた内容を気を取られた一瞬のうちに忘れるということが良くあります。同じ話題を繰り返すのは忘却の結果なのではないでしょうか。

書こうとしていたブログの内容も「愛と好きと嫌いと式と結果」というものなのに、認知症発達障害の話に何時の間にか摩り替りました。その辺りがどう健常者と異なるのかハッキリしません。その辺りがどう認知症の人と異なるのかハッキリしません。まぁ、けれども僕は認知症の人が記憶力のことに関して馬鹿にされることが、僕自身の記憶能力の問題と被るので眉を顰めてしまうわけです。まるで自分自身を馬鹿にされているように思えるわけです。別に認知症の人を愛している訳では無いのですし、発達障害者を愛している訳でも無いのです。

僕は寧ろ「障害者を最も差別している人は、障害を持っているその人自身だ」と思っている輩です。自分が親を馬鹿にするのは構わないけれど、人から親を馬鹿にされるのはカチンとくるのに似ているでしょうか?似ていませんかね。

まぁカチンとくるからと言って愛しているとか好きな訳では無いのです。もしかすると見下して馬鹿にしている程かもしれなくてもです。そういう心情は矛盾しているようにも思えます。

それについてどうということは今のところ無いのですが。

「愛と好きと嫌いと式と結果」の話です。愛とは前回取り上げたのですが、対象に何やら後ろ髪を引かれるような思いを持つことであるようです。「情を感じる」という表現でも可能ですが。その時点では「好き」とも「嫌い」とも言えません。「弟」という映画で描かれた姉弟の関係は「情を捨てられない」というものだったと思います。お姉さんが弟を「好き」だったのか「嫌い」だったのか僕はよくわかりませんでした。

「家族だから見捨てられない」という心情は「情があるから」嫌いでも見捨てられないのだ、というニュアンスに捉えられます。あるいは情が無くても「家族」という「縛り」だか「絆」だかのせいで見捨てられないのです。人質事件の件も見捨てられないと思うのは「日本人」だからでしょう。他国人が人質にされていても大きなニュースにはなっていないようです。バッサリと見捨ててますよね?少なくとも僕の耳には入ってきません。日本という国は割とそういう宗教的価値観を持っている訳です。「見捨てる」ことの究極はニュースにすらならない訳です。

愛というのは(字義的には)「なんだか見捨てられない」ことのようです。だから嫌な言い方をすれば「嫌よ嫌よも好きの内」

などと言われてしまうし、気になる内は愛しているという状況であるのかもしれません。ちょっと嫌ですよね。それを「愛している」と呼ぶのは。

字義に則っているだけで無理があるのかもしれませんが。僕が「愛」に特別な地位を与える気が無いので、敢えて字義に則ります。愛には暗黙に「好きである」というベクトルが加えられていますが例えば人類愛という場合、好きでも嫌いでも無い訳です。こういう時少し「違う」気がします。無意識に人類を好いているはずだ、と決めつけています。けど実際、人類のことを案じているだけです。案じることは好きだから案じている訳ではありません。「弟」のように「情を感じている」から案じているのかもしれません。だから別に人間嫌いでも人類愛があっても良いわけです。

思想家や哲学者には多そうです。人間嫌いだけど人類の愛を説く人とか。母性愛とかね。愛があっても嫌いなのかもしれない。愛を持っていることと好き嫌いは別であることを自分の中で分別しておいた方が良いだろうという話です。その上で「式と結果」の話が出てくるわけです。教育は愛があれば全て解決されるとか、母親の愛情が最も重要だ、と説く学説があります。でも現実には親は私を愛してくれましたが私はろくでなしに育ちました、という場合があるわけです。愛が足りなかったせい?

僕は単に環境のせいだろうと思っている訳です。まぁと同じように全てそれのせいに出来てしまうような言葉ですが。僕は育児に適切な対応が取れるならそれがロボットでも問題ないと思います。つまり、愛が無くても構わない。この手の話の愛には好意が含まれているので「愛が無い」とか「愛されない」というのは無視とか嫌われることを指す訳です。

愛するというのは気に掛けることを言い、ここで愛するとは気に掛けて手を掛けることを言うのでしょう。じゃあ実際問題重要なのは手に掛けることの内実だろうという話です。つまりは式です。どういう経験を積んでいくのか、どういう道順を歩んでいくのか、それが式の解答としての結果です。

教育というのが義務教育的なものと考えられがちで誤ってしまうだけで、正しい躾なり訓練なりは存在すると思います。ただ自由の名の元に十分精査されていないだけで。何が正解なのか分からないから放置する人が多いような気がする訳です。で、それを正解だと思う?それは違うってだけです。

愛しているから、好きだから、正しい方向に進めると思うのは違います。愛していて好きでも間違うことはあるし、逆に愛してなくて嫌いでも間違わないこともあるかもしれない。愛や好きが必要なのは自尊感情を満たすため承認欲求を満たすためです。欲望を満たすための餌でしかない。

そういう言い方も出来る、というだけで、僕たちは欲望を満たすために生きていると言っても過言ではない。要は餌を食べるために生きている訳です。美辞麗句で飾り立てたいだけで。SEXは汚らわしいものと神聖なものと対極的な描かれ方をしますが所詮は餌です。平凡なありきたりのつまらないとるにたりないものでしかない。けど僕らにとっては普遍的に必要とされているものな訳で。

それは食事や睡眠と同じです。食べる側や寝る側にしては甘美だけど、それを見てる側としては、例えばフライドチキンを食べている光景は汚らしいかもしれないし、涎を垂らして寝ている光景はあんまりかもしれない。SEXも同じように甘美だったり汚らわしかったり、あるいは詰まらないものであったりするのかもしれない。子供からしたら大人のSEXは目を背けたい行為なのかもしれず、年頃の若者にとっては憧れ得るものであるのかもしれない。

まぁ大概そういうのは二次元キャラをコスプレしてみるような感じだったりするのかも。

僕が言いたいのは、そこに愛や好きをいれたらいいんじゃないの?と思うだけ。

例えばの話、

一日3食の食事と8時間の睡眠が必要なように一日に一定量の愛と好きが必要でそれ以上は過剰になる。