LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

忘却を見直すのも良いかも

マッチポンプという言葉がある。自分で記事を書いて自分で確認してアクセス数が増えランキングが俄かに上がっている。こういう自作自演みたいな仕業をマッチポンプと呼ぶ。ただ書き続けているだけで自分が読んでいるだけでランキングが上がる…と(苦笑)まぁランキングとか、逆にそれが気になって書くことが阻害されなきゃ良い。

『忘却の整理学』を読んでいる。人間にとって記憶と同じくらい忘却が重要な役割を担っている、と主張する本であり、僕は一利あるな、と思う。この中で著者は日本人が忘却することに否定的な考えを持っていることを指摘しているが、僕もあまり忘却を否定的に見るべきでは無いように思う。

物についての断捨離のように精神についてもそれで良いんじゃないか、と。経験的にも人間は生き方の中で必要な知識を取捨選択して記憶し、捨てて生きていく気がする。だから、生き方によってどうしてもカスタマイズされてしまう訳だし、それが自然でそれで良いのだと思う。脳というものは生きる上での必要性があって進化した演算装置であるからパソコンのメモリとは自ずから異なるのは当たり前である。

だから、図書館の知識を片っ端から持とうとするような無駄なことは出来ない仕様になってる訳で。当然、生き方はある程度、限定した方が都合が良い訳だと思う。そう考えると、自然、分業化が進み、専門職が増えるのは当たり前だよなー、と思ったりする。人間は一人何役もこなせるように万能には出来ていないのである。時間が足りない訳では無く、記憶と忘却という選択的な仕様があるためだ。だから、やらないことから忘れていって必要なものだけ残るだろう。

その辺のことを受け入れた方が良いように思える。だから、義務教育の殆どは使う宛ても無いからどんどん風化して忘れるだけだし、用が無くなればそれで良いくらいに軽く考えた方が楽だと思う。その忘却を以て子供が「大人は怠惰で頭が悪い」と軽んじるのは早計であるだろう。この話で言うと同じく勉強が出来る子が出来ない子を見下すのも早計に過ぎる。自頭が良い子というのがいるのであるから。その手の連中は使わない記憶だから忘れるだけだ。まぁ、勿論、最初から勉強していなくて更には頭が悪い場合もあるのだろうけれど。

立花隆も義務教育などの教育で得られるものは「大体のものを忘れ去った後に残る砂金みたいな何か」みたいなことを言っていたような気がしたが実際そんなものなのだろうと思う。ノウハウや考え方の勘というか経験自体を覚えていて、上手く利用出来たりするし、僕には完全に学習体験が無駄になるとも思えない。

ちゃんと勉強してれば少なくとも引き出しは増えると思う。だから、勉強する時に勉強する環境があって勉強しとくこと自体は無駄にはならないと思うんだよね。「その時その時で必要とされる仕事をキチンとこなしてきた」ってことがかなり大事な気がする。記憶は忘却されるけど行動自体は積み重ねることが出来る訳で。成功体験じゃないけどね。

ただステレオタイプなんだけど「勉強だけ出来れば良いんだ」と信じていて、それが学生時代の仕事としての意味合いとして言われているだけ、という部分があることに気付かないとどこかで「勉強が出来るだけのやつ」と言われかねない。まぁ学者とかになるんなら生きて行ける場所はあるかもしれないんだけど。『ヒストリエ』で描かれたアルキメデスの死に方じゃないけど、それは生きるのが下手ってことにもなりかねない。かなり生き方に制限が掛かるというか。

何が大切とされている状況に自分が置かれているのか測る能力と必要性に応えられる能力が無いと空気読めないやら要領が悪いのと言われかねないんですよね。多分。記憶力が良いこと・勉強が出来ることはあくまでも一つの能力に過ぎない。それでも勿論、まぁ何かに長じてることは才能なんだろうけどね。

まぁ、学校のことなんかは僕にとっては終わったことだからどうでも良いのだが。ダンスやらコントやらLINEやらと僕がいた当時に導入されてたら自殺してるかもしれないな…と思って、その手のニュースを聞いて今の学生に同情するくらいだな。せめて選択授業にしてやりなよ…と願ってる。まぁ、逆に僕らの頃は体罰やら何やらが都合よく正当化されていたりしたのだろうけど。喧嘩両成敗論とかさ。進歩した部分もあるけど問題が増えた部分もあるのだろうと。

記憶と忘却の仕組みを考えると、やっぱり繰り返し復習して反復する学習が最も合理的だと思う。忘却自体は肯定して一度で覚えられると思わない方が良い。覚えたいと思う内容はとにかく「繰り返す」ということを前提にした方が良い。

それでも必要なものだけが残っていくので、どうやっても使わないものの詳細はきっと忘れちゃうけどね。ある詩が好きで繰り返し読んで諳んじられるようになったんだけど、それも思い出さなくなってから、そのうち細かい部分を忘れていってしまったし。結局、膨大な知識を学んだとしても、それを保持し続けることは困難で、その中から自分が生活上使う分だけを厳選する必要が出てくるんだろうなと思ったりする。

だから記憶と忘却は自分の生活の中に密着したものにならざるを得ないだろう。とまぁ、そういうことを前提として弁えてた方が良いかな、と僕自身が思ったりしたという話です。