LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

多元世界論と虚構の時代と今

1990年代は印象としては世紀末で虚構の時代だと言われた。まぁ、近代自体が虚構の時代だと言われるのだが。

平和ボケしている、と言い換えても良いが、要は「テロとの戦い」が表面化して取り上げられるようになる前の時代といったところ。ノストラダムスの大予言なんかが取り沙汰されている頃は、時代は空虚な感じがしていたのかもしれない。今の時代よりも先行きの不透明さが濃かったような気がする。

最近はあまりに刺激的な出来事が多くて「もう少し平和にならないかな~」と思うのだから人間とは現金なものだと思う。中東の問題が段々と火勢を増して今の時代に繋がっているのかもしれない。北関東大震災の件は現実味が無かったが、イスラム圏の問題には現実味がある。僕自身の個人的な受け止め方の問題なのかもしれないのだが。アイシルの問題は「第三次世界大戦になるのか」などと言われているが、それは無いだろう。戦争は国家間の争いであり、アイシルに対する問題は国家間の問題では無いからだ。どちらかというと紛争や内乱と呼ぶのが適切だろう。

だからと言って彼らをテロリストという言葉で括るのも僕は違和感を感じる。何というか明確な「絶対悪」というレッテル貼りだと思う訳である。無論、反語的に彼らを擁護しようという訳では無い。ただ「テロリストだから交渉はしない」「テロリストだから許されない」などの言い方は都合の良い型枠に入れてなぜどうしての部分をブラックボックスに入れて簡単に処理してしまうための方便になってしまう気がする。本来そこではモラルや主張・主義が語られるべきだと僕は思うが。

そしてテロリストに対して「我ら国際社会?は正義であり団結して戦わねばならない」みたいな空気・風潮が垣間見える。そんなに国際社会ってものは一枚岩だったかな?と思う訳で。

「正しい言い方」というわけじゃないが僕的にスッキリすると考えるのは「アイシルを認めない・交渉の余地は無い」というような名指しする言い方である。

関係無い話だが「SEKAI NO OWARI」というアーティストの『ドラゴンナイト』という曲が流行っているようだが、僕としては聴いてみて特に気に入ることは無かった。音楽的に。非難している人はパフォーマンスが鼻に付くのだろうと思うけど。どうも昨今の世界情勢に対する歌詞のように思えてカルト的な人気であるように思われる。それでファッション的に売れてるのかなーというイメージなのだが、どうなのだろう。ある意味ではジョン・レノンの『イマジン』みたいな立ち位置というか。ただ日本人がそれをやるのは滑稽なんですよね。他人事だから…。「対岸の火事ならどうとでも言える」と僕は思ってしまう。

人質事件の問題もYさんもGさんも自己責任という論調が結局のところ強かったと思う。それは彼らに対して「自分たちには関係の無い理解できない類の人間」だと距離を置いて処理しようということなのだろうと思う訳である。特にYさんはそうだしGさんは英雄に仕立て上げられそうになっていたし。凡そそういう人たちが「ドラゴンナイト」の「歌詞」を評価するのだと僕は思ってしまうのである。「SEKAINOOWARI」のファッション性自体がかなり恣意的にやっている風に思える。

国内でもイスラム教徒が迫害されているようなニュースを聞く。この辺は無知による弊害だよな…と思ったり。ローマ法王かな?が言ってたけどイスラム教自体を一括りにして馬鹿にするのは間違っている。それこそ自分の無知を露呈する恥ずかしい行為なんだろうな…と。まぁ、認識が無いのだから、そういう誤解が無くなる訳もない。大抵の場合、体罰だと思っていないから体罰を行い、いじめだと思っていないからいじめを行うのである。無知や誤解から派生して恐らくはアイシルのような母体が生まれて来たのだろうし。僕は地下鉄サリン事件麻原彰晃の破壊思想も彼自身の障害などの抑圧・ストレスから生じた悪意のように思える。まぁ特別調べた訳では無いけど。アイシルも貧困と教育の足りなさが問題として提起されていた。自爆テロに進んで参加する若者は未来を悲観するから、そういう方向に行ってしまうと聞いたことがある。そう考えると「衣食足りて礼節を知る」というのは一利あるかな、と思ったりする。

そういう問題と並行するように、無職の引きこもりの犯罪が取り沙汰される。恣意的に報道している可能性はあるが。社会から排除されるような人間に負の感情が貯まり易いのは「まぁ、そりゃそうだろう」という感じである。そういう人たちに対するセイフティーネットのようなものが足りないのでは無いかという論を新聞で目にした。僕としてはそういうものは窮鼠猫を噛むという風にも見えなくもない。

対岸の火事を無視してたら飛び火してきた、みたいな…。僕はYさんの父親はこの手の人じゃないかと思う。親の中には「子供の自由にさせてるんだからその責任は全部子供にある」と言いたい人もいる。建前と本音を使い分けているか、本音に気付かないかしている人もいるんだろうと思っている。子供の言うなりに金を出すだけが親の仕事だと思っている。「息子が迷惑をかけてすみません」という言葉は「けど親の自分のせいではありません」という免罪符なのかもしれない、と僕なんかは思う。時間が無い・手段が分からない・忙しい・疲れている…そういう現実的な問題から子供を自分から切り離したい。その消極的なネグレクトを正当化する理由として「自由」という言葉が用いられるように思われる。敷衍して言って今回のような邦人の問題に対して「自己責任・関係無い」という態度を貫くのは似たようなものだろう。

それが悪いと言っている訳では無い。高じればGさんのようにシリアに行って酷い現状を知らせたいと言って危険を冒してしまうだろうから。

あるいは君の出る幕じゃないと言われるだろう。アイシルが日本にそう言ったように。中東の問題なのになぜ貴方が出てくるんですか?という話になる訳で。まぁ、そういうのは程度の問題だと思う。カナダの原住民に話を伺いに行った学生がなぜアイヌに目を向けないのかと言われたという話が心に残っているが…。

この問題を僕は結局は優先順位の問題なのだろうと考えている。そして大体において自分が優先されるのだから子供を切り捨てる親の気持ちが分からない訳では無い。貧しい地域ではそれこそよくある話らしい。姥捨てなんかは羅生門で知ってるが。日本なんかはまだ教育水準が高いので道徳的にあるいは法律的に問題が出てくると分かるから、そこに正当化を掛けて自分の心をプロテクトする訳である。その誤魔化しの過程で色々やらかす人が多いという風に僕は感じる訳で。あるいは心中するとか相手を殺すとかいう馬鹿な真似までし出す。介護疲れで…とかは最近よく見る話。もうちょっと探せば何か良い方法があるんじゃないの?とツッコミを入れる隙も無い。無知で心身ともに余裕が無ければ仕方ないのかもしれない。ここでいう無知とは問題解決の(上手い)手段を知らないことである。だから状況次第では無知であることは誰にでもあり得る。例えば「アイシルをどう止めれば良いのか」とか。

その手の適切なQ&Aを出来るだけ入手しやすくするのが、生き易さに繋がるんだろうな、と思う。特に僕なんかは色々とマニュアルが欲しい。

「一人で悩んでないで、グーグル先生にでも相談してくれていいのよ(笑)」

そこは周りにいって言うところじゃないのか、と(苦笑)でもね、文殊の知恵の実験みたいのがあったけど、大抵は集団のうちの誰かが正解を知っていることに賭けてる部分があるから、重要なのは誰かに相談することじゃなくて「解答を持っているだろう人物に当たること」だと思うんですよね。知的集約が必要になってくる訳で。それは例えば、医者や弁護士なんかのプロフェッショナルな人たちが必要とされることと同じな訳で。周りの人…というより知的集約が為されている相談窓口的なものの方が有効だし必要なんだろうと思うんですよね。実際。

周りの人…日本人的には「家族とか」言うんだけどね、頼りにならない場合もあるんですよね。やっぱり。家族とか友達とかは人によるとしか言えないけど、実際的な役に立たない場合は少なからずあると思うので留意した方が良いと思う。期待し過ぎて「僕の期待を裏切ったな!」とか時間と体力と精神力の無駄だと思うので。親とか友達とかラベルに過ぎないと僕は思っています。結局、彼らにしても一人一人の価値観を持った人間なので。特に親も友達も国家試験とか無いんだから品質の保証のしようが無いって話なんですよ。そういう人に相談したからといって「有用な答えが期待できる訳では無い」ということは分かると思う。論理的に。場合によってはそれこそBBSにでも疑問・質問書き込んだ方がマシかもしれない。

人と人とが分かり合えない理由の一つは「誤解を正すことが極めて難しいから」だと思う。用法の間違った言葉が、そのまま定着してしまうようなものである。印刷技術の無かった頃の神話の伝承は口承で、言い間違えがそのまま伝承されていくので同じものは一つとして無かった、みたいなことが言われる。人が分かり合えないのってその程度の理由なんじゃないかと思ったりする。