LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

親と自己肯定感

 「自分は無価値である」とか「自分は人に必要とされていない」という感想が強くなり「産まれて来なければ良かった」とか「なぜ私を産んだのか」とか「私を産んだのは失敗だった」とか思う訳である。その過程で、自分は望まれて生まれて来なかったという風に思う訳である。

 これは語弊がある。「望まれて産まれて来たが、期待したものと違った」ということが多い気がする。その結果、上述したような自己否定的な見解を見出すに至る。最初は望まれて産まれて来たのかもしれないが、それは新作ゲームを期待するユーザーのようなもので、出てみれば駄作で期待外れだった、とぼろ糞に言われる訳である。

 私の親もその口であったと述懐する。まぁ想像しやすいように言えばシンデレラみたいに扱われると思ってくれれば良い。使えないポンコツだねぇ。このクズが。みたいな。そのように親から見られ肯定されない子供は自分の存在価値を認められず自己肯定感を失する。私のように発達障害者の場合、能力的にも世間から必要とされないのだから孤立を深める結果になる。要は社会的排除を受ける訳である。この場合、味方になるのは身内くらいであるが、その身内が出来損ないのレッテルを貼る訳で。

 家にも外にも自分の居場所は無く「お荷物」扱いされる訳である。そういう人間の心がどのように救われるのか私には分からない。私は小学校の頃には既に、この社会に自分の居場所が無いことを感じ取っていた。発達障害だとは気付かなかった頃の話である。義務教育という環境から抜け出せればあるいは…と儚い期待を持っていたが、所詮、義務教育の場も社会も繋がったコミュニティであり「普通の人の社会」であって私は自分の受け皿を見出せなかった。

 まぁ、単に運命の都合上、探し出せなかったとか、見つからなかったという話だと思う。発達障害関係の本を読んで見ると、人間関係の運が良かった人は社会で適応できるケースもある。但し、それはやはり稀なのだと思う。

 名大の女子は非定型の自閉症と診断されていたようである。和歌山県の青年も精神に欠陥がある可能性が示唆されている。というより社会不適合者だったのだろう。そういうニュースを聞くたびに心を痛める。自分が社会の邪魔者で生きている価値など無い人間なのだと突き付けられているような気がする。生きていること自体が申し訳なく思えてくる。

 発達障害と診断された時、「自分は狂っていると思っていました」というようなことを言って、医師に発言を否定された経験がある。それでも嬉しい反面やはり納得できない自分がいる。確かに私は凶行を犯すような狂い方はしていないつもりだが、やはりイカれているのだろう。出来損ないなのだろう、という気持ちは拭えない。

 それは何と言うか人と関わる際の負い目にもなる。僕のような人間の出来損ないと付き合うのは不利益にしかならないのではないか…と思うのである。また、そもそも関わること自体が物理的に負担にもなる。私が思うに、これは回避性パーソナリティ障害と言われていいものだろうと思う。だから、私は自ら孤独の中へ自ら入って行く。「それを望んでいるのだ」と受け取って貰っても構わないだろう。

 かくして「死にたいか」と問われれば死にたいわけでは無く、生きたいかと問われれば希望は無い。これで無気力となるのは必然では無いだろうか。

 孤立していると世間と自分との間にズレが生じてくる。生身の人間同士のやり取りと、ネット上での情報流通のあり方にはかなりの相違が存在する。ネットを世間と同様に考えると間違いなく認識がズレる。そうでなくても、外に出ないだけでもやはり現実(リアル)から乖離していくように思われる。それが所謂平和ボケした現実であるにしても。他人と脱交渉になって困るのは、そうした皮膚的なコミュニケーション上の配慮の在り方とでもいうものから遠ざかってしまうところにあるように思われる。

 街を歩いているだけでも、歩行者同士のあるいは歩行者と自動車などの関係性からコミュニケーションが行われる。例えば道を譲るという些細な問題を一つとっても、そこには相手の感情に配慮するというプロセスが挟まれると私は思う。そういう部分に何か人間味を覚えるからこそ周囲の良識にある程度、心を置き理解を示すことが出来るような気がする。

 もしもそういう環境をも奪われた場合、