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LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

自分を含めメンヘラと付き合うことは負担を負うことですよ

・女性を痛め付ける愛情表現に対する推論

 女性にDVを働き自分に縛り付ける行為は「相手の愛情を試しているのだ」と推察する。本など読んでいないから出鱈目を言っているかもしれない。要は「どれだけ痛めつけても自分に付いてくるというのならその人は私を愛している」という考えであり、云わばカマをかけているのだと思う。相手を試すのである。その結果、自分を見捨てて「やっぱりな」と嘯くために。他人を信じることが出来ないからそういうことをしてしまうのであり難治だろう。

 暴力で自分に屈服させることは、不信感から来る行動だろう。だから、裏切られないように縄を掛けなければならない。 

 相手を完全に自分の支配下に置かなければ信用できず、満足できない。しかし、それは確信することが不可能な問題であるため暴力行為が止むことは無い。自分は愛しているからこそ暴力を振るうのだというが、それは愛着であり、見捨て無いで欲しいという拘泥の意志を感じる。愛しているから「見捨てないで…」と続くのである。条件付けの愛。金の切れ目が縁の切れ目など。私は相補的な関係は怖いと思う。

 その手の感覚が行き過ぎれば相手を殺すことに繋がるだろう。殺してしまえば相手が裏切る可能性を考慮する必要が無くなるためである。ただその時点で損得勘定が明らかに狂ってしまっている訳だが。書き忘れたが和歌山の事件で青年を死刑にすることに意味は無い。

 死刑制度が見せしめとなり自省を促すとしたらその範囲は狂っていない人間に限定されるだろう。死刑になる可能性を考慮できない程度の精神を持つ人物の場合、罪の重さを想像させて行動を拘束することは出来ない。罪自体にさえ意味が無いだろう。そういう意味で何にどれだけ重い量刑を課したとしてもある範囲以上の効果は見込めないと推測する。アイシルの人質にされたYさんも同様である。渡航する危険性を想像する力に欠けるから説得が意味を為さなかった。

 知的障害精神障害等の脳の問題もそうだが、無知も同様にこの手の失敗に繋がる。私たちは無意識に自分と同程度の常識を他人に期待している節がある。だから自分にとって都合の良い形の責任を相手に求めるが、それはそれで想像力に乏しいのだろうと思われる。アイシル自体の自滅的な行動や自爆テロを犯すのも教育が足りないことを理由として新聞は指摘していた。Yさんは「平和な日本では自分が堕落してしまう」とブログに書いているが、想像力の乏しさ・無知・物事の解決を急ぐ性急さ、などから手痛い失敗を犯すことがある。個人的な経験則としては「当たって砕けろ」という信念は失敗が許される状況下でのみ認可されるものである。

 追い詰められていれば、それこそ視野狭窄に嵌り易い。私は溺れかけたことがあるが、そういう時など藁をも掴むという諺が良く分かろうというもので、女性の水着にしがみ付いてしまい恥ずかしい思いをした記憶がある。溺れたと思ったら実は浅瀬だった…なんてのはお約束である。

 熊は臆病な動物だと言われるが、同時に危険である。不良もまた臆病な人間だと思われる。同時に危険である。別に私は彼らに同情する気は無いが。かなり偏見が入っているだろうが、馬鹿で愚かで無知であるから不良になるのである。その理由は上述したと思う。ままならない問題の解決を焦り、誤った判断を実行し、愚行を犯す。精神的に未熟で、知識が足りず、無知である。更に無自覚を付け加えても良い。だから若者にその傾向が多い。ただ普通は精神の成熟とともに卒業することが期待される。

 自由が称揚される時代では、その手の思い込みを是正することは難しくなる。特に親がやっていたから、上司がやっていたからという正当化の理由が身近にあれば手を出しても構わないと考える者が目につく。私の親にしてもばれなければ良いというレベルの考えを持っていたようだ。余談だが私は反感を抱いた。正直者は愚者ならば馬鹿を見るだけだが、本来の意味で自身にモラルを求めるならば、それは間違いでは無いと思う。流石に侍魂とか騎士道とまでいう気は無いが、ばれなければ何でも有りだと思うことは違うと思う。

 ばれなければ良い。法に背いていなければ何をやっても良い。この世は所詮、弱肉強食、正直者が馬鹿を見る。とかその手の言い方はモラルを語ることを忌避しているだけのように感じる。面倒だから避けているという印象である。「正義なんて無い」と言ってそれ以上語ろうとしないのと同列である。法の量刑を決めるように私たちは物事の程度を測っていかなければならない、と私は考える。犬が噛む力の程度を経験から弁えていくのと同じように。

 この根拠付けは私にはまだ難しいと思うが。安易な考えが蔓延することには治安的な意味で危機感を感じる。

 Reゼロのレムの献身なんかは、暴力によって彼女の愛を確信させる構図で、感動的だが、この話の流れに、DVの話を持って来ると台無しである。スバルはレムを疑い試しているが、実害を与えたのは周囲であるため、まだ救いようがあるのかもしれない。自身でカマをかけ出すようだと惨めだと思う。要は自分の人間不信を表明している訳なので。

 それさえも包みこんでくれたらって?例えば「私の愛を試しているんだわ」とか思ってしまう人間も大概である。もしかしたらDVから逃れられない精神性はそういう部分に兆すのかもしれない。それはYさんに対するGさんのようなもので違う類に振れている同類である。Gさんを英雄視した輩がいたように、この手の人物は好意的に解釈されかねないが、違うと思う。あまり容易に善悪を求めようとするべきではない。私が思うに彼にしろ彼女にしろ何かしらの欠落を埋めるためにそういう行為に及んでいるのであってこの場合の相手は利用されているのである。そういう人を聖人やら善人やらと誤解して崇めるべきでは無い。その良し悪しは兎も角、共生状態である可能性があると思う。共生する必要の無い人間は避けた方が良い。利用されるだけなのだから。

 「私の愛を試しているんだわ」とか思うタイプの人間は自分が邪険に扱われる理由を曲解する。嫌いで関わり合いになりたくないから遠ざけているのに、その意図を察することをしない。それはそれで愚者の類である。噛み合う内はそれで良いだろうが生きていれば噛み合わなくなる状況なんて幾らでも訪れよう。何れにせよメンヘラである。

 私が言うのもあれだがメンヘラと関わっても碌なことにはならない。都合上関わらざるを得ない以外に高難易度のゲームに挑むことを生き甲斐とするヘビーゲーマーみたいな特殊な人間でなければスルーした方が賢明である。人は楽な方へ流れるのだから、いらないところで敢えてその流れに逆行することは無い。楽に楽にと考えれば数学のように合理的な発展の仕方が見出せるかもしれない。

 私の考えではマイナスにマイナスを足してもプラスにはならない。メンヘラにメンヘラを足しても受難が増すだけだ。暴走族・ヤクザ・アイシルなんかの集団を考えて貰えれば良い。文殊の知恵の話を以前出したが解答を予め持っていない人間を何人集めても問題の解決にはならない公算が高い。思考の柔軟性に乏しいと予想されるメンヘラを束ねてみてもあまり意味は無いだろう。まともな理性やら柔軟性やらが無いと問題が増えるだけで不安でしかない。

 その手の連中はどうも覚悟やらけじめやら、そんな言葉で信用させろと言ってくる。カサノバ社長が坊主にしたり、STAPの件などで関係者が自殺して責任とやらを取ったと言ったり、辞職してみせたり、痛みを感受することで信頼して欲しいという腹積りらしいが不良っぽい。私から言わせてもらうと、そういうやり方は古典的でありすぎる。

 先に書いているように、暴力を通じて愛を確かめようとする行為と似ていて気持ち悪い。切腹の文化もそうだが、そうすることで「許す」「認める」というのは要は不信感の表明である。そして、どれだけその手の「誠意」を見せても、恐らく信用されることは無い。死ぬことで初めて信用できるのである。だがそれを信用とは呼ばない。単に追及できなくなっただけなのだから。だから、やはり切腹=自殺も抗議の意味としても用いられる。一方的な関係に追い込み都合の悪い問題を追及できなくさせることが狙いなのだろうと思う。

・対人関係に対する不審

 私は他人に対して臆病である。他人と付き合おうという気がおきない。「友達は選びなさい」と言われて、自分に選ぶ権利があるとは思わない。どうしてわざわざ障害者と付き合う必要があるのか。向こうも選ぶ権利があるとするならば、その人は何ゆえに私を選んだのか。そう考えると実に不愉快な思いをすることになる。

 前述したように欠陥のある人間が集まっても碌な結果にならない。私は欠陥のある人間である。私を支えることは欠陥の無い人間で無ければならない。傲慢な話だが。経験上、私に拠ってくる人間は何かしらの欠陥を持った人で私を利用したい連中だった。これはジンクスだが本当に良い人間と出会いたいなら自分で選ぶ必要がある。待っていても私を利用したい人間が集ってくる可能性が高い。

 友達は無料だろうか?それは否である。私が普通では無いと感じた真っ当な人間は私から離れて行った。じゃあ、それ以外は?それは私から利益を引き出す手段を見出した人たちである。その利益はどうも碌なもののようではないと私は感じた。そして、私から離れる選択は正しいと思う。私と付き合うより欠陥の無い他人と付き合った方がどう考えても良いからである。逆に私を選ぶということの意味が不明だしその判断を信用できないと思う。

 例えば私が仕事が出来る人間だったら、そこに価値を見出した人間が集まってくるだろうし、私も納得できたかもしれない。しかし、私の能力は残念ながら全般的に(まともな)他人より劣っており、選ぶ意味が無い。自閉症者の手記は大概、能力を認められていて他の自閉症者も仕事に精を出すべきだ、というのだが私はあまり良い気持ちがしない。私に能力が無いからではなく「能力がある間だけ人から認められている」という状態に反発を抱く。

 それは恐らく普通の人とは同じでは無い。能力の無いスティーブ・ジョブズ社会的排除を受けるかもしれない。そういう話である。能力の無い自閉症者は社会的排除を受ける。リストラとかそういう話では無く、煙たがられイジメの対象になり、排除され得る。要は理不尽な攻撃に晒される可能性がある。

 能力だけを命綱にすることは、かなり厳しい。なんというのか、その論理で私は自分を説得しきれない。何というのかな…無力な老人が邪魔にしかならない、生きている価値が無い、と言われているような感じと言えば伝わるんだろうか。恐らく、それは多くの引きこもりの心情に他ならないが。

 仕事はかなり限定的なのだ。仕事場から離れれば無価値になるだろう。だから、仕事人間という人たちがいる訳である。仕事以外のアイデンティティが無いから仕事に執着する。自閉症の他の著者が仕事を自己肯定の手段として勧めることには無理を感じる。同時に仕事場の外では自閉症者は付き合うに値しない。私の考えでは発達障害者は会話能力に乏しい。そのことが結構致命的である。プライベートで他人と親しくなれない理由の一つだと思う。会話が出来ないこと。まぁ、他に他人に親密さを感じられないとか、どうも詰んでる気がする。

 このスペックで他人に自分と付き合って欲しいとか言える程、私は傲慢になれない。私も会話の通じない相手と一緒にいたくないし。あ、それって私のことじゃん!ってブーメランなんですよ。私はブーメラン投げ続ける程、面の皮が厚くできていない…。発達障害者同士が一緒にいられるものか私は分からないが恐らく難しいと思う。それは私にとっての負担感になるからである。普通の人が私と付き合うことに難色を示すように私ももう一人自分が増えるなり他の精神障がい者と付き合うことは負担になるし難色を示す。

 私はあまり他人と関わり合いになろうとしない方が良いと結論付ける。ある自閉症の著書では「結婚しないことも考えるべきだ」とアドバイスされている。どうもステレオタイプなものを受け取り易いので「結婚=幸福」と考える発達障害者が多いらしいのである。同様に友達がいる=幸福、あるいは友達がいない=不幸という風に考え過ぎるべきではないだろう、というのが私の考えである。

 それが回避性人格障害であるとか、医師から難色を示されたとしても…。淡水魚が海水の中で生きようとするようなものだと思う。見た目は魚だから行けるだろう、と周りの人間の多くが考えてしまうのである。私自身も同じ水なんだから行けるんじゃないの?とか思っている。まぁ、意気地が無いだけなのかもしれないが。少なくとも頑張って人と触れ合おうと宣言した自閉症の著者の一人はその後苦しんでいるように見える。仮に一生苦しみ抜いても人慣れしない場合、その人生は幸福だと言えるだろうか。私は不幸だと思う。

 まぁ、私にやる気が無いのも問題の一つかもしれないが、楽に生きることは少ない信条の一つである。経験則では自閉症者は頑張り過ぎると碌なことにならない。Yさんはその手の人だと思う。あの人の人生の履歴のようになり兼ねない。憶測に過ぎないが。やる気が無いのも家族への愛着が無いのも脳の構造の結果である可能性がある。全て脳の責任で私の責任では無い(苦笑)

 以前に責任とは曖昧な言葉なのだ、と言ったが「全て脳の責任で私の責任では無い」というのは無意味なんじゃないかな(笑)でも責任とはまともな脳味噌を持っている前提が無いと成り立たない言葉だからね。雷に打たれて死んだとしてその責任は誰が取る?だから、ここで私が言っていることは割と大真面目です。言っても意味の無いことだけれど「その通り」であろうという意味を含んでいる。

 例えばアルツハイマーに侵された画家の自画像の推移とかネットで見たのだけれど、あれを見せて「全て脳の責任です」って言ったら真に受けてくれるだろうか?私が人と関われないと思うのと「鬱病は甘えである」というような話と似てると思うんだけどね。発達障害者をそれでも人と関わらせようとする方向性は、単に労働力として活用したいからだと思う。

 その点とコミュニケーションがごっちゃになっていると思われる。私の思うところでは発達障害者というのは機械の代わりくらいにはなるかもしれないが何もかも普通の人間より劣る。その上、会話が出来ない。面倒臭いのである。見た目が健康そうなのでそのフラストレーションをぶつけられる可能性が高くなることも併記しておく。

 そういう人間が競争社会と言われても正直困る。「自転車と自動車でよし競争だと言われているようなもの」なので。その上天性のコミュ障でしょ。「最初から殺してくれれば良かったのに」と普通に考える。しかし、死ぬのは怖いわけである。とても困る。

 その時点で頑張る気など私には皆無である。勿論というべきか、かつて頑張ってみたことはある。結果として、ペンギンが自分は空を飛べないと悟るみたいな感じと言ったら良いのか…。私にはそれでも他人と接触しようとする自閉症者は鳥人間コンテストに出場している人間に見える。

 私の考えだと「会話」は無理である。口話というべきか?メールにした方が良い。チャットは難易度が上がるだろう。耳の聞こえない人が手話や筆記に頼るのと同様、発達障害者も他のツールに頼った方が良いように思える。会話で頑張ろうとすることに労力の割に9割がた意味が無いと思う。そして社会の側も会話で頑張らせようとするべきではない。

 私としては「見た目健康そうだから」という問題に騙されているという見解である。周りがそうだからサポート側も諦めずに無理強いするのである。感覚としては彼らがやっているのは成犬に赤ちゃん言葉で話すようなものだろうか。歩み寄っているつもりなのか知らないが健常者の感覚を押し付けているのに過ぎない。それで得られるのは自己満足である。ボランティアしているという自慰行為に付き合う気は無い。指摘したいのは、それはどうも相手を理解しようという姿勢からは程遠いということである。普通社会に適応できるとは思えないが、かと言って障害者の支援者側にはそういう人物が多い気がする。無自覚なのが気持ち悪い。まぁ問題が無ければ人は頭を働かせて考えたりしない。

 かと思えば私を一人前扱いしようとする者もいるが、それも間違っている。恐らくはこれは克服できない厳しい障害に違いないのだから。やはり自分(健常者)と同列に扱うことにも無理があるのだ、と自覚して欲しい。だから明らかに競争社会にはそぐわない。ハッキリ言って私は健常者より劣っていて対等では無い。自分でいうと傲慢にしか聞こえないが(苦笑)こういうのは当事者が言わないと気付かない癖に当事者が言うと物凄く言い訳くさくて格好悪いと思う。

 まぁ、改めて言うが私にやる気は無い。鬱病のせいか発達障害のせいか知らないが生きる気力もそんなに無い。かと言って死ぬ気力も無いのだが。死にたいと思ってやおらテンションを下げるというのも疲れるだろう。私は疲労に弱い(苦笑)Yさんがいうように堕落しているのかもしれないな(苦笑)けれど発達障害者は変にやる気を出すよりはやる気が無い方が良いだろうと私は思う。経験上、やる気を出して盛大に場違いであったり的外れなことをしがちだから。周囲から浮くこと必至だろう。やる気を出すたびに黒歴史が増えていくことになる。それらに収集が付いたことは単純に運が良かっただけなのだろう。

 消極的な方が社会の側にとって都合が良い。例えばの話、名大の女学生は非定型の自閉症と診断されていたようだ。天才と馬鹿は紙一重というように犯罪者と天才も紙一重である。アインシュタインが良い例だろう。フォン・ノイマンでも良い。エジソンでも良いが。ちなみにエジソンは息子の教育に失敗しているという意味で。障害の良いところだけを得ようなどと都合よくいくことばかりではない。障害者の内、成功者はほんの一握りだろう。その上で凡庸なのだから控え目にしていた方が良いと私が思うに過ぎない。

 発達障害者の性格は正直、積極的か消極的かに別れるだけだと思う。根は割と一つなのでは無いだろうか。思考の分裂の仕方の問題である。基本的には処理能力の低いPCみたいなもので、大量にオブジェクトを表示することが出来ない。それ故に会話など高度の情報処理に付いていけなかったり、行動が冗長になり、想像力に支障を来たす、などの問題が生じると感じる。

 FF14でPS3ユーザーがお荷物になり非難され、PS4やPCに乗り換えろと言われているように、発達障害者も同じゲームを遊びながらお荷物だから辞めてしまえと言われる立場だと比喩できるかもしれない。風当たりは強い。とは言え脳を挿げ替える訳にもいかない。薬で…というのはロボトミーみたいなことになり兼ねない予感しかしない。穴を塞いだら別の穴が開いたみたいな…。今の穴の開いた状態に慣れるのに頑張って来たのに、そうなってまた対応できる気がしないんですけど。致死率を増やす気がする。

 私見に過ぎないが性格の差異は単にテンションの違い。テンションが高ければ奇異型に分類されテンションが低ければ受動型に分けられる。で奇異型は迷惑なので受動型の方が良いとされる。要するに「空気読めないんだから話しかけてくるな。大人しくしていろ」ってことである。ある本ではそれが「社会にとって都合が良い」とされる。私見である。

 じゃあテンション上げない方が良いよね…というのが私の見解。どうも自閉症者は極端に動きやすい。あまり発破をかけるべきではない。とりあえず今まで人生で碌なことをしてこなかった自覚のある人間は本気を出すべきじゃない。転生系主人公が一念発起しようとする訳だが私には死亡フラグにしか見えない。主人公補正で救済措置が取られるだけだ。

 地味にできることを地道にやれば良いと思う。私はある程度確信を持って動きたいと思う。何というか、受験するにも滑り止めを受けるでしょ?って話で。SAO(小説)でも死が現実の死に繋がるんで安全マージンを取って戦うのがセオリーな訳ですよ。リスクはなるべく取らない方が良いし保険もかけとくべきだと思う。

 まぁ「それを考えるだけの想像力が足りない」って話になるんだろうけど(苦笑)ほんとバカッターを馬鹿に出来ないからね…(汗)今のところ日本では生きるだけなら何とかなる可能性が高いので牛歩の如くやってくしかないんじゃないかね。発達障害者は「短気は損気」だと弁えた方が良いと思う。

 ダウン症児と同じで本来なら死んでると思うんだよね。社会が豊かだから、あるいは宗教上の理由で偶然生かされてるだけで。ある意味ではそのことを忘れるべきでは無い。場所によっては今の時代でも十分死に得るポテンシャルしか持っていない訳だし。だから頑張れとかいう気は無いけど。気力無いって自称してる私が他人にいう言葉では無い。私の場合、だから道半ばで死んでも割と今まで運が良かっただけだと割り切れそうだし、じゃあ程々に生きりゃ良いんじゃないのかねという感じだろうか。幸福とかも生きるのがあまりに苦痛じゃなけりゃ良い。本音を言うと、頑張りたくないだけなのだろうが(笑)

 人間も他の生物もそうだけど、死ぬより死ぬほど苦しむ方が苦痛なんですよ。だから、そうでなければまだ慈悲があると思う。だからヨルダンの人とか生きながら焼き殺されたとか無いわ~と思うし。ならせめて即死させてから焼けよと。勿論、そういう問題じゃないんだけどね。けど生き死にに関わる場面ではせめて楽に死にたいと思うんですよね。それと同じくらい楽に生きたい訳で。

 私の場合、喜びはそんなに要らないので苦痛もそんなに欲しく無いな。そもそも感受性が低いらしいので苦痛ばかり大きい設定なんだよね。特に人間関係で得られる喜びより苦しみの方が明らかに大きい訳で。アルノ・メルッチが多分、人間関係は天国と地獄だと言ってるけど、同時に人間の生きる意味そのものにもなってるみたいなことを言ってた気がするんだけど、その大半を生まれながらに奪われてる私はどないせいっちゅーねん、と。まぁ、そう思うわけですね。生きてて得られる喜びが少ないから苦しみもそんないらない、という話。不公平だし(苦笑)

 まぁ、何も感じなくなってしまって意識だけが残されたとしたら人間は苦痛でさえ愛しく思えるだろうけどね。そうでもないかな(苦笑)

 まぁ、入浴とか睡眠とか食事とかで得られる幸福が減るのは断るけど。まぁね…人間関係に関してはある意味悟ってるんで老後に孤独になって寂しいとか言い出す気は全くしないんだけど。今更だし。勿論、寂しさとかは多分、普通の人と同じように感じてるんだろうけど(?)ただ他人と触れ合える気がしないんですよね。寧ろ、自分のせいで困惑させてしまう感じに耐えられなくなる。何とか感とか言うんだけど(笑)奇妙な感じを覚えるらしい。コミュニケーション上の齟齬が原因で不快感を覚えるその齟齬の原因が絶対に自分にあるというのは私としては負い目を感じるし厳しい。関係が破綻する原因を考える時、自分にあると断言してしまえる。

 そういう引け目の苦痛を享受するより、いっそ関わらない方が自分が楽だと思う。他人と関わるのは自分がそこから利益を得るからであって、損失が大きければそもそも関わろうとは思わない。私はどうやっても損失が大きくなるように感じられるので関わらないってだけで。普通、寂しさやら何やらと天秤に掛けて関わり合いたいと思うのだろうけど、私は無理かな。自分がまともではないってことが分かってるから相手を自分と関わらせる気になれない。貧乏神の心境だな(苦笑)

 それも私が優しいって綺麗事じゃなくて、私が傷つきたく無いだけの話ですよ。自分が他人と関わるたびに惨めになっていくことに耐えきれない。普通の人であることを期待して私に接触して段々と相手が私に同情して気遣ってくれていく過程に傷つけられて耐えられない。そしてその障害は乗り越えられない。実のところ、今更乗り越える意味も無い。自我が形成されてしまっている都合上、多分、脳の構造が変わってもどうにもならないと思う。表面の対応を変えても無理をし続けるだけ。演技が出来る程器用な脳みそじゃない。他人と関わるだけ自分が擦り切れていく。で、どこかでまた破綻する。脳の問題っていうのは人格と不可分なんですよね。だから例えば鬱病をやったらその変質に人格が引き摺られるから完治ってことは難しいと思う。

 私に発達障害を直せっていうのは人格を取り換えろって要請なんだって話で。それはもう私じゃ無くて良く無い?私の障害の否定っていうのは多分この人格の否定なので…。それは最早どう自己肯定して良いのか分からないんですよね。じゃあ、いっそ殺して欲しいかな?と思ってしまう。じゃあいっそ施設に収容して個室でそれなりの自由を認めて飼って欲しいかな?と。

 そういう諦念があるので、孤独や寂しさや普通の人のコミュニケーション上得られる満足感やら友人やら何やらはバッサリ諦められる訳ですよ。というより諦めないと多分精神衛生上もたないので。こうソウルジェムが濁って魔女化するんじゃないか、というね(苦笑)諦めないと意識高いっぽい自閉症の著者みたいに人間関係でエンドレスに苦しみ続ける結果になるんだろうなと思うんですね。彼らってなぜか自分の生き方を正しいみたいに押し売りしてくるけどさ。そう思い込みたいんじゃないかと私は勘ぐる。私から見るとその頑張りは痛々しい。

 それは私としては何ていう生き地獄なのかな?と思っている訳で楽に生きたい私としては丁重にそのルートはお断りしたい。そこまでするくらいなら死ぬかなっていう。死ぬ勇気とか無いけど死ぬかなと思う。実感の籠らない軽い言葉ですけどね。例の死ぬほどの苦痛の方が嫌っていう話です。地獄ってのは死後にあるもんじゃないと思ってるんで。現世にあるんですよ。間違いなく。特に歴史を紐解けば分かるけど。生き地獄ってのが地獄ですよ。だから割と現世でみんな椅子取りゲームから脱落しないようにってあくせくしてるんだろうなー、とか思う訳で。私はもう何か最初からレールから外れてたのでどうしようもない感じですが(汗)

 それでも日本にいるのでまだ生き地獄とまではなっていないと思うんですね。それよりは今で言えば中東の方がヤバいだろうな、と思う。自爆テロとかやっちゃうのは現世が地獄だと思ってるからでしょう。多分ね。障害が無くても例えばアフリカの貧困な地域に生まれただけで私たちの感覚から言えばかなり悲惨ですよね。それが生き地獄と感じるかどうかはさておき。人によっては私の境遇を地獄だと思うかもしれないし。上を見れば限が無いし下を見ても限が無いですよね。どちらかと言えば幸福な状況から突き落とされる方が体感的に厳しいと思いますが。

 リア充が果たして人生の勝ち組で幸福かと言われると疑問でもあるんですね。例えば医者なんかは私から言うとかなりキツイ仕事をしている。私は血を見るのがダメだし、グロ耐性も無いし、向上心も無いので、彼らの努力とか感心するんですよね。私には無理だから。酷い医者もいるみたいだけど、それでも大抵は尊敬に値するかなと思っている。

 何というかね、リア充というか他人とのコミュニケーションを円滑に行えているように見える人っていうのは、それなりに労力を割いているんですね。自分の頭で考えて他人との距離感を測って、事がスムーズに進行するように気を遣う訳です。そういうことが楽なわけないじゃないですか。結構、苦労している訳ですね。それをリア充爆発しろ!って何の苦労もしていないように見るのは不当なんですよ。やっぱり。環境に恵まれているとか、そういうことはあるかもしれないし、努力だって結局は周囲の環境に恵まれてそういう習慣や自意識が育まれたと考えるのが妥当だけれども、やはり頑張ってること自体は否定できないと思うんですよね。

 まぁ、だから何の努力もしていない人間を見下して良いとは思いませんが。この言い方は癪に障るかもしれない。けど、私のような障害を負ってる境遇とか、中東の生まれ、アフリカの難民の生まれとか、黒人に生まれたとか、そもそも生まれ持ったキャパシティを勘定に入れないで努力だけで評価しようってのは不当です。グーグルでも白人と黒人の雇用者数が問題視されてたけどさ。努力は誰しもが出来る訳では無い。例えば、その辺の一般人が努力したからといって室伏広治ハンマー投げで勝てる可能性は限りなく低いと言わざるを得ない。

 私はまぁ結局のところ日本という場所で限定して発言して良いとするなら「自分との戦い」だろうと思うんですよ。自分を省察して理解して如何に平穏や安定を保つか…というかね。まぁ、私の場合、他人と言う介入がほぼ無い前提なのですが。そういう異物が入ると私は間違いなく混乱の坩堝に堕ちるので(笑)