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LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

心の式と人の二面性の捉え方

 以前にも書いた気がする。

 人は二面性を持っている。普段は化けの皮を被っている。そう思っていた時期が僕にもありました…というやつですね。友達から裏切られたとか両親から裏切られたとかそういう経験を示して人には二面性があると主張する。まぁ、私の話ですが。それが違うんじゃないかな、と最近の私は思っている。自分の一面やら側面やらというので、言葉に引きずられて自分が多面的だと勘違いするだけである。

 例えばの話、普段は温厚な人がちょっと失敗したくらいで烈火の如く怒り狂う。それを二面性と評するか、という話で。私は化けの皮を剥いだらこうなるんだと考えてましたが。ただ、それが本性で、普段が化粧という訳では無い。同じ状況に置かれたら、その時のその人は必ず同じ反応を返すだろう。それを変数として、式を人格とする。

 @かけるX=Aという感じで、Xの変数を入れた時には@の人格を持つその人は必ずAの行動を返す。ここからかなり偏見が入るが「あの時はどうかしていた。俺が悪かった」という人は、大抵の場合、再び同じ状況に置かれるとまた同じことを繰り返す。人格=@は変化させることが難しい。変化しない訳では無いが自覚的に変えなければならない。「どうかしていた」のではなく、一貫してそういう人格なのである。

 人格というのに抵抗があるのなら、行動式とか行動様式とか呼んでも良い。したがって化けの皮があるのではなく、その人はそういう人間だということである。少なくともその時点においては。あの時という状況に言い訳をしている人は恐らく再び同じ状況に置かれれば同じ過ちを犯す。それが自分の行動だと認めず反省していないからである。

 例えば痴漢など「魔がさした」という訳である。小学校か中学校の教師が痴漢をしてしまう。『鈴木先生』なんかで描かれる訳だが、魔がさすのは普段からそういう意識を持っているからである。それがいけないというつもりはない。だが、状況が許せば事に及んでしまうのは普段のその人の行動様式の結果である。それを「魔がさした」という言い訳で隠すことは出来ない。ようは普段からそういうことを自分が考えていると暴露しているようなものである。下心と呼ぶそれを否定する気は無い。無いが人間というものはそれらが一貫しているものだと考えた方が良い。公私というものがそうであるように、明確に物理的に区分されているものではないと心得無ければならない。

 上手く隠せという話では無い。上手く分けろという訳でも無い。自分がそういう自分自身とどう付き合い向き合うのかという話である。他人は容易に変えられないのだから嫌な相手とは付き合わないようにすることが無難である。

 ネットの日本人の民度は低い傾向にある。それに付和雷同するのか付き合っていられないと思うのかは自分次第だろう。炎上というのがあるが要は自分もそのリンチに参加するのか、しないのかという程度のことを決めるという話である。何をしてもバレなきゃ良いと考えている人は自分自身の中にモラルを築く気が無いのだと思う。表面だけ着飾っていれば良いと考える人が増えるのを私は快く思わない。最初の話に戻るが、そんなだから人間の二面性なんてものを疑わなければならなくなる。

 無宗教だから何をやってもよく他人に迷惑をかけなければバレなければどう振る舞ったところで問題無い、というレベルのモラルは愚かだと思う。何が良くて何が悪いのかなんて中々分からないというのでそんなことになるのだろうが…。モラルというのは他人の問題では無く、あくまでも自分の問題だと思う。私は私のモラルを他人に付き付けてやれる程、自信が無い。まぁ、だからこそ他人にそれを押し付ける気にはならない。けれど、自分の中で常に線引きはし続けるし更新はし続けるだろう。そういう問題だと思っている。

 私はそもそも悲観主義から虚無主義に移行し人生なんてケースバイケースだとか言ってた人だし、いわば優柔不断も大概である。そんな人が他人に何を言えるというのか…という話だ。私が他人に言うことなど何も無い。ただこのブログにしても私が思ったことを書いているだけである。読む人がどう思おうと勝手だと思う。それこそ他人に私が求めるところは「私に迷惑をかけるな」とかいう話である(苦笑)

 それ以上の善性(モラル)の話は少なくとも私にとっては自分の中で突き詰めるものである。そういう個人的な宗教みたいなものだ。神は自分自身であり、崇めるものもその他にいやしない。よく理解できているとは言えないがウィトゲンシュタインが言うには、痛みというものは自己にしか分からないので主体がいらないのだと言う。私にとっての自意識も自分にしか分からないので主体は要らない。主体は無いのだから神もいない。少なくとも他人にとって神の存在を証明することは出来ないということである。ならば、神とは自分の中にしか居らず、他人に示すことは出来ない。独我論的な見解であり、哲学的ゾンビみたいな話だろう。それは自己完結的な概念であると思う。

 ちなみに人格は私では無い。仮に脳味噌の記憶を書き換えられたとして、自意識があったとすればそれが私であり神である。神が大仰なら「私にとっての唯一のもの」だと言っても良い。だから他人にとって価値はあまり無いかもしれない。私はそれを存在のコアだと思う。記憶や人格は脳の機能であり私という自覚の本質では無い。神=私を奉るというのは記憶や人格の話では無い。自分が一番偉いから増長しろと言っているのではなく、要は身体は一つしか無いのだから自分の身体を大切にしろということである。

 まぁ、ぶっちゃけ中身をマシにしたいと思うのは、整形するのと似ている。外見は変えられないから仕方ないと思うけど、中身は何とかなるからマシにしようとか、そういう話である。逆に産まれたまま・あるがままが一番良いという考え方もある。それも分かる話である。整形に対する反発と同じものが、内面に対してもあるのかもしれない。特に私たちは人格否定に対しては酷く反発するだろう。それもやはり「あるがままで良いのだ」と思う訳である。

 けれど、整えられるものなら整えたいというのもまた事実である。程度の問題だと言って差し支えないだろうが。特に内面的なものは外見と違って成熟するだけ良いと考えられるのだから。内面の「あるがまま」なんてものはソフトの無いハードなんだからしょうもない。良いアプリ入れときたいと思うだろう。重要なのは、ソフトを入れたいのは私の都合であって他人に強要することじゃ無いということである。

 まぁ、自分の内面に気を付けたいという動機は概ねそんな感じだろう。

 自分に迷惑が掛からない限りにおいて、他人の外見や内面にどうこういうつもりは無い。