LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

縋りつく

・和歌山のN容疑者に関して感想を

 この人は剣道が唯一人から認められていたことで、近所の道場に行って厳しい指導をすることで溜飲を下げていたと思われる。その時だけ「他人から認められている」と思えたのかもしれない。部活のOBなんかはそういう人がいるみたいだけど、私は卒業後も関わってくるのは卒業後の場所に居場所が見いだせないからだと思う。よく母校に遊びにくる卒業生とかそういう感じな気がする。先輩風を吹かす外部者は内部者にとって迷惑であり、日本では空気を読んで、そういうことを指摘しないから増長する。日本では先輩が後輩を「使って」良いことになっている体質があって、これも増長の原因になる。

 後輩は(気を遣って)自分を見下さないから、自身を保っていることが出来る。私は後輩との人間関係は上手く行くところがあったのだが、それは後輩が自分に一歩引いてくれているからである。だから、実は対等な関係では無い。その関係に甘え続ける訳にはいかない。後輩は同輩と対等な関係を繋ぐから、それを見たらやはり彼の負担になっているのだと分かる。

 そういう部分を見ないふりをして権力を最大に行使すれば、それはモラハラやパワハラになってしまうだろう。先輩後輩関係は日本において多少なりともパワーバランスのアンバランスさを含んでいる。要は自重しなければハラスメントになる。Nさんは普通の進路に進退窮まって過去の栄光にしがみ付き、身動きが取れず、壊れて行ったのだろう。他人に命令する立場を振る舞うほど他人に踏み込みやすくなってしまう。それは他人を侵害しやすくなる、ということだ。

 Nさんは小学生を見下していて、侵害しても構わないと思ったのだろう。自分の方が立場が上だから何をしても構わないという感じで枷が緩いのだと思う。だから、もしかすると「からかわれた」から(暴力を振るって)殺したのかもしれない。普通、立場を弁えているから自分より目上の相手に対しては抑制が掛かるが、立場を弁えているから目下の相手に対して抑制が効かなくなる。要は弁えるってのは身勝手な思い込みなのだが。そして、同時に視野狭窄的だから自分と相手との関係を広げて見られないのだろう。

 要は恋人同士のように相手と自分の二人しかそこにいないように感じるということである。結婚における問題には家族や宗教が絡んでくる場合が現実的にある訳だし、同性婚なら法律が関わってくる訳だが、そういう拘束を無視してしまうことができる。駆け落ちみたいなものである。直情的で周囲が見えていないからやった後で後悔する羽目になる。

 JKコンクリート殺人事件だったり、今回の和歌山の殺人だったり常軌を逸しているように見える事件を起こしてしまえるのは、一種の熱気にあてられているからだろう。前者の事件にしてもプライベートな空間で起こっているからこそ引き起こせる。逆に言えば人の目がある場所でなら正気で居られるだろう。だから、逮捕後に正気に戻る者もいるが、それは人の目が及んでいることを自覚して初めて自分の行為を客観的に公的に振り替えって見られるからであって、人情に目覚めたとかそういう話では無いような気がする。それで、その人が更生したとかそういう話ではない。同じ状況になればまた理性を失う可能性は否定できない。

 家での自分と外での自分は違う行動原理に沿って動いている。だから、自分からしても家における自分と外における自分は別人のように感じるし、別人だと言っても差し障りは無い。それは状況に応じて自分のスイッチが切り替わるからである。所謂、ペルソナは自動的に付け替えしている可能性があるので、私たちが常に演技しているにしても、それが自覚的だとは言い難い。割とペルソナというのは無自覚に付け替えられているように思われる。

 大抵、馬鹿な事件を起こすのは家の自分だろうと思う。だけれど、掴まえた後というのは、監視下に置かれるから外の自分になる。外を見て内を判断できるかどうかというと私は分からない。この辺の人間性を一貫しているものと考えてしまうと裁く際に整合性が見えなくなる気がする。その手の話は「心の闇」とかそういう話では無くて単に外面が良かっただけ…みたいな感じだと思う。だから、プライベートな自分にも少しは気を配った方が良い。

 「本当の自分だ」というのではなくて単に「家のルールに縛られた場合の行動様式に則った場合の自分」と考えた方が良いと思う。「何も配慮する必要は無い」などと考えたり「自由」だと考えた結果の行動が計算されアウトプットされているだけ。昨日あたり書いたように、私は「自由」という言葉に身投げせず「少しは配慮しないとダメですよ」と思っている。節度やら規範やらという話だが、自分の中にモラルを設けておかないから外部の秩序の拘束力が無くなった場合に暴走するのだと思う。家庭の中の息苦しさの反発として「自由」を求め、その結果、節度や規範を面倒なものと考え全て遠ざけて投げ捨てようとしてしまうのではないかと思う。「自由」という言葉に逃げ込み思考停止するんじゃないかな。

 「親しき中にも礼儀あり」というのは特に家族に対して言う言葉だが、自分自身に対しても投げ掛けて見た方が良いかもしれない。酒や煙草、食べ物や他の不摂生で身体を壊すのは自由にし過ぎるからである。身体に対する配慮として「親しき中にも礼儀あり」という言葉を投げかけるようにしたい。