LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の適当な日々の考察と日記

トラウマって克服できるのだろうか

 『ワールドティーチャー』81話を読んだ感想。なろうの小説で丁寧に書かれており、読みやすい。81話はエミリアのトラウマ話がメインになっており、それを克服するための話である。

 大学にいた頃、克服という言葉が好きな講師がいたけれど私は彼のことをあまり好きになれなかった。というのも私自身の心が弱くて克服するような力を持たなかったから。その頃は発達障害を知らず「コミュ症を克服するんだ」と努力を重ねたが、度重なる挫折で心が折れてしまった。発達障害と知ってから特にこのブログには記述しているが、他人との付き合いに努力する気は起きない。私が人付き合いの努力を講じるのは駝鳥が空を飛ぶ努力をするようなものだと思う。翼があってもそれは飛ぶ能力を有していないから、それだけで飛ぶことは出来ない。

 直近のブログの内容に書いたように、発達障害者は恐らく会話を上手く熟すことは不可能で、コミュニケーションの手段としては代替的にメールやチャットを利用するのが適当だろう。それは克服とは言わないと思う。代替である。

 当時は『新世紀エヴァンゲリオン』が流行っていて、心の壁が他人との付き合いが上手く出来ない理由みたいな先入観を持ってしまっていた。そのため、心を開かないからダメなんだと思い込んでいた。最近は、心を開くとか閉じるということは対人関係にあまり関係無いだろうと思っている。

 勿論、コミュニケーション上の経験の多寡はコミュニケーション能力に影響を与えるだろうが、知識と同様にコミュニケーションも単一的な能力では無い。例えば、相手の表情から感情を読み取る能力・相手の言葉から感情や意図を読み取る能力・会話に付いていく知的能力など、コミュニケーションには多様な能力が必要になる。

 発達障害はこの内の幾つかが脳の構造上不備になっているため、どうしても会話に付いていけない。だから、心を開こうが閉ざそうがそれで会話が可能になる訳では無い。耳の聴こえない人が口話できないのと同様である。ブルーレイに対応していないハードウェアではブルーレイが観れないのと同じだ。それを克服するには買い替えるか機能を追加してやるしかない。だが、それを克服とは呼ばないと思う。

 私からすれば発達障害者は儚い希望に縋っているように思える。神はいると信じられるのは、存在を誰も証明できないからである。「いないと断言することが出来ないからいるかもしれない」そういう期待である。発達障害のコミュニケーションに掛ける淡い期待も同様だと私は考える。彼らは「出来るかもしれない」と考える訳である。克服できるかもしれない、と。他人もそれを期待してくる。この障害が目に見えないからだ。私にも彼にも見ることはできない。だから、私も彼も「わからない」のである。自分のことでも発達障害というものはよく分からない。膵臓がんとか何か痛みの無い癌が体内で進行しているのだと考えれば良い。そして気付いた時には既に致命傷であるとか。自分のことでも自分には認識できない問題はある。脳の問題なんてのは特にそうである。身体と魂が別だと考えているから質が悪い。それは神の存在を信じることに似ている。それは信仰に過ぎない。魂の存在が証明できないから。

 克服というのは難しい言葉である。感情的なものが入ってしまうので、ある特定の問題の解決と置き換えた方が良い。PTSDを乗り越えるために過去の場面を思い出させた場合、憎悪する危険があるらしい。克服=暴露すること=慣れという風に考えるのだろう。問題はそれが恐れを増幅させる結果を生む場合があるということである。左利きを右利きに是正しようとする行為が問題行動に繋がる危険性が指摘されている。同様に自然な状況から曲げることは問題を拗らせる可能性がある。私は多くのPTSDに関しては忘れることが懸命だと思う。10年20年思い出さないことで記憶は薄れ、苦しめられる機会も減る。乗り越えようと思うほど、それは記憶に刻まれることになる。

 アイシルの人質画像を子供に見せる危険性や、裁判員制度で死体の画像を裁判員に見せる問題に関わる。ショッキングな画像を見せた場合、それを何でも無いものであると受け入れるために、逆にグロテスクなものに無感情になり、倫理的な忌避感自体失う可能性がある。所謂、サイコパスという精神環境を後天的に作り出してしまうのではないか、というような話である。後者は後者でPTSDになったり、気絶したりしている。克服する必要があるのか私は猜疑的である。

 死体を見慣れる必要も、虫を食べる必要も、命を自分が奪う必要も無いのだから、慣れる必要性が無い。克服する必要があるのは日常的に関わらねばならない人だけである。慣れなければ生きていくことに支障があるから慣れなくてはいけなかった…というだけで、慣れることができない人間は脱落していったはずである。要するに「全員克服できるのだ」となぜ信じようとするのだろう、と私は思う。逆上がりでさえ出来ない人は永遠に出来ないだろう。

 最近、話せば分かり合える→話しても分かり合えない、という風に世論で言われてきだした気がするのだが、それは人間がそこまで合理的に出来ていないからだろう。例えば猫が車に引かれてしまうみたいに、咄嗟に足が竦んでしまう、とか。合理的なら反射的に避けるべきなのだが、恐怖に身が竦んだり、判断しようと身を竦ませるのは不合理である。

 克服というのも合理的であることを人間に前提条件として期待しているように思える。

 エミリアが自分の問題を克服できなければ脱落するだけだろう。物語的にはそれじゃダメなので恐らく克服する(させる)わけである。ただ書き方は慎重だと思う。「本来なら親の敵になど会わないか弱っているところを仕留められれば」と主人公は期待していて状況に裏切られる。だから私はこの小説を特段非難している訳では無く寧ろ評価している。愛と勇気があれば世界の滅亡も悪の側の言い訳もワンパンチで蹴散らせるというテンプレチート小説は私の年齢になるとキツイので(苦笑)あ、『ワンパンマン』は好きですけどね。でも「キング」とかが好きかな。そういう実は現実的でシュールに見える物語がこの頃は流行ってると思うんだけど。

 この克服できなければ脱落するだけ…って最近話題になったテイルズの最新作の話だよな…とふと思った。アリーシャという少女が役に立たないお荷物だから捨てられて仲間にも散々に陰口を叩かれる…という(苦笑)シュールだな、と思った。そういう展開が散々に炎上している訳だから、別に現実的でシュールだから評価される訳でも無いね(苦笑)

 期待しているのは、それでも何とか希望を見出して活路を見出すという方向性だったのだろう。「使えない無能は死んで当然」とかユーザーは望んでない(苦笑)ダークファンタジーなら兎も角。だって転生系主人公がこんなに流行ってるのにさ…。現実にしてもイジメ側に立ちたいと思う人がそんなにいるわけないだろう。凌辱系なら兎も角。ましてやファンタジーでそんな人間に感情移入させられることを望む人はいない(笑)テイルズに求める方向性では無いと思う(苦笑)

 転生系のテンプレは「ダメ人間が異世界で人生やり直す」って話で「やっぱりダメで転がり落ちる」っていうのは期待されて無いんですよね。私的にはチート転生したのに何か苦境に立たされまくってるんですけど…っていう方が好きですが。その手の話では『用務員さんは勇者じゃありません』っていうのが一番好きかな。逆だと元の世界でダメだった理由が分からなくなるんですよね…(汗)用務員さんは安定して人間嫌いなので好感が持てる(苦笑)私自身が他人との交流が儚いので正直、社交的な生活ってのが想像できないんですよ。だから周りからチヤホヤされて何でも上手く行ってる主人公を批判的に見るのが難しい。現実世界で孤独ニートあるいは平凡平社員→幻想世界で王侯貴族有能美女勇者に好かれるとか、ちょっと感情移入しずらいんですね。あまりに都合が良過ぎて萎えるというか。ましてやハーレムとか。現代知識チートとかもその世界を下げて主人公側を上げるのがちょっとあからさまで引くかな。幻想世界なら魅力的であって欲しいので。Re.ゼロとか主人公が「足りない人間」である方が周りを立てて描きやすいので読んでて面白くなるのかな?

 大分話がずれてきたけど;転生系はクズニートを送り込むより、元の世界でも高性能だった人を送り込んだ方が好きです。整合性があるので。『ナルト』でも言われていたけど最終的に結局「血筋」なんですね…ってツッコまれるよりは、最初から「血筋」ですよ、って宣言しといた方が良い。クズニートを異世界に送り込んで難しいのは立ち直らせ方なので。上手く行ってるのは『Re.ゼロから始める異世界生活』とかかな。あっさり「普通」の次元に戻っちゃうのはあり得ないし人格が全く変わるってのも無いと思うので。そういう主人公は読者に納得させるものを書くのはかなり難しいと思う。

 主人公の周りに王侯貴族有能美女勇者が群れてくるのも結局は主人公の「血筋」に他ならない。結局、世の中って伝手が全てですよね…っていうのは日本的なアレです(苦笑)現実に戻っちゃうので萎える素かも。だから、主人公以外がスペック高くても結局、言いたいこと同じになっちゃうのかなー…って思うし。

 あんまり有能な王様とか個人的に絡ませない方が良いと思うな(苦笑)じゃなけりゃホント平民みたいな人が王様やってるみたいな話になりかねないので(苦笑)そういうのは「王様(笑)」と名付けようかと…(´・ω・`)ホント、自分が想像できない立場の人物を自分の感覚で描こうとすると一気にお遊戯になりかねないから…。

 そういう意味では、全キャラ、プレイヤーって括りでSAOやログホライズンみたいに書いた方が各キャラに感情移入しやすい。