LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

煙草の話→発達障害者の障害面の自覚的な話

 私は煙草を吸ったことが無いので悪しからず。

 現代日本では喫煙者がとんと見られなくなったが、少し前は駅の灰皿に溜まるスーツ姿の男性…という光景があった。更に遡れば大人社会では煙草の煙が室内に充満している…というのが当たり前だった。刑事もののドラマなんかを見るとよくある風景だったし、ネットでは教員が職員室で喫煙しているのが当たり前と書かれている。また信じられないのは、教室で生徒の前でも喫煙していた、という話である。それが1980年代頃の話。だいたい戦後復興期からバブル崩壊後までにかけて煙草が社会に広まり2000年前後から恐らくは副流煙問題などが出て来て、段々と嫌煙されて行ったように思う。

 要因として「娯楽が少なかったことと、肉体労働者の息抜きに欲された」ことが挙げられ、政治で税金を掛けていたため奨励されたらしい。JT自体が国営である。

 私としては煙草の煙で満ちているオフィスで働くなんてことは自殺ものだと思え、特に警官なんてのは論外だな…と思っていた記憶がある。私にとっての敵は煙草・ビール・カラオケ・飲み会・社員旅行・朝会、等である。煙草は滅ぼされたが、色々とまだ残っている。これらを滅ぼさなければ私の戦いは終わらない(苦笑)

 パワハラにしろ、モラハラにしろ、セクハラにしろ、どうも昭和から持ち越されている日本社会独自の慣習だと思う。体罰なんかも同様。私が体罰を振るわれたこともあるが、当時は今ほど社会問題とされていなかったため、体罰だと反抗する生徒もいない。だから教師にしたら「拳骨で教えること」が教育として当たり前だと考えている人もいた時代である。割と最近までそういう考えを誇示する人が目に付いた。そういう古い記憶を持ち越している人が今でも時折問題を起こすように思われる。それは、その人たちが教育された時代が古いためであるように思う。経験を踏襲した結果「それはもう現在では使われておりません」となっていたという話で。

 どこかの知事が学生に道すがら出会って「碌に挨拶も出来ないのか」と言ったとか言わないとか。昔は通りすがりの人でも擦れ違ったら挨拶するように教育されていたように思う。それは思うに田舎のルールなのだが。極端な例を言えば限界集落では互いに顔見知りが当たり前なので目に付けば声を掛け合うのが普通と言っても良いのだろうが、渋谷の交差点なんかで行き違う人々に一々挨拶をするのは変人である。思うにこの知事というのは、そういう村社会的な常識を持ち出してきてしまったように思う。そう思えば炎上しても同情する余地はある。

 それなりの都市部では礼儀として無関係の他者を無視する。それはそうしないと支障が大きいからである。前例したようなケースでは忙し過ぎる。私のような発達障害者はもしかすると前者の村社会的な教育を受けて声かけ事案を引き起こすかもしれない。田舎ならあり得ることである。私たち(発達障害)は「状況に応じて対応を変えるということが困難だから」そういうことになる。子供時代は私もそのように振る舞っていた時期があったようだ。それは今の私がふり返るとやはり異常に思われる。

 田舎出身の人が電話で家族と話すときに方言で話すようにペルソナを付け替えて対応するのは割と普通である。普通であるのだが、私から見るとそれはとても器用な真似をしていると思う。事実、私は方言を喋ることは出来ない。発達障害者は恐らく、そういう頭の切り替えが酷く難しい。だから、割とそういう不合理(に見えて)が目に付いて反感を抱いたりすることが多い。そこで行われている柔軟性の意味が上手く呑み込めない結果だろう。だから、ついでに言えば「頭を切り替えられないから」要領が悪くなりやすいのである。

 ちなみに未だに私はガラケーを使っている。嫌味な言い方だと思う(苦笑)気のせいかもしれないがスマホに乗り換えさせたいという悪意を感じる。私は料金の差分のメリットが無いと思うので、まだ変える予定はないが。どこで読んだか、今の子供たちは固定電話を取るということが無いので大人との窓口が無い為、目上との関わり方に難があるみたいな話を読んだ。確かに家の固定電話を取って家族の誰かに回すということを今の子はしないんだろうな。だから「キリンさんより象さんの方が好きです」なんてネタも通じないだろう。電話に出て「私5ちゃいだからわかんないの」みたいな(笑)

 今はLINEで連絡を回すらしいが私からすれば悪夢である気がする。私の頃は黙っていても親が代わりにやってくれたのであった。ミクシィフェイスブックツイッターも関わらないまま気付いたら流行は去っていた(汗)どれもコミュニケーションツールだからね。現実の声や顔を合わせた付き合いがあって、これらを使う訳だと思うので。

 ミクシィとか「紹介制で誰も紹介してくれない」という形式の疎外(無視?)を受けた感じです。知らない内に周囲で「ミクシィで~」っていう話が始まるけど私はその件について一切知らないという。いつの間にそんなものが組織されたんです?これはもしや新しいイジメですかね?いや、新しくても似たやつには幾つか実体験という名の心当たりが…(苦笑)その辺から私が「あなた関わり難い人間ですよ」って態度で示してくれてるんですよね。

 そうして徐々に排除の圧力をかけられていっているのか…。聞いた話によると会社でも窓際社員にされて日蔭干しされ自主退社を促されるという。まぁ被害妄想かどうかはわかりませんが。面倒臭いのはそういう誘いに自分が誘われたら誘われたで私が困惑する訳です。マジで断るし(ぁ)「誘われたいでも誘われたくない(人と関わるの怖いので)」という風に心が矛盾するのがコミュ症というものなんですよ。いや言うほどコミュ症の専門家じゃないですが。自分の話ですよ。あくまでも。勇気出して乗っかって見ても失敗して深手を負うんですよね。そして立ち上がれなくなる。そういう経験から今は断ることにしてます。罪悪感を感じつつね。日本人って一度は断るのが慣習みたいのあるんでそれでしょ?みたいな空気辞めて欲しい。私にはYesかNoしか無いので。「いいえ→はい」って二つ返事形式じゃないんですよ。拒否フラグは折れないのですよ。

 発達障害と気付かない間は、そういうのはかなり辛かったのかなー。コミュニケーションを諦めきれないのがキツイ訳です。社会で生きてくには必須です!とか猛プッシュされるし。それと他人と仲良くしたいから。恋人も欲しいでしょ。親友とかさ。連絡取り合える友人でも良い。長く付き合える友人ね。そういう希望を諦めきれないんですね。

 でも自分の何を直せば良いのか分からない。散々頑張って来ても会話の流れに付いていけないし会話に興味も持てないんだよね。頑張ってみても負担が大きくて「会話自体が苦痛になり早く終わってくれないかな」と思っちゃうんですよ。外国人が日本語を聞くとマシンガントークに聴こえて付いていけないみたいな話があったけど。事務的な話なら何とかなるんだけどね。

 …まぁ、それが私の修練不足や心の壁云々というのじゃなくて「正解はありませんでした!生まれながらの障害でした!って悪魔か!」と思った。「心の壁を打ち破るんだ!」とかずっと思って無駄な心痛を重ねてるよりは、いや「そういう障害です」って知れた分まだ良いかな。

 癌告知されたいかどうかみたいな。それがどうしようもない理由だとしても自分が何によって苦しめられてるのか、くらいは正確に知っときたいかな。私は。特に完全に無駄な努力をしている時は指摘して欲しい。何というかドアを押しても引いても開かないって状況で膠着している時に「そのドア横にスライドするやつですよ」って言われるみたいな感じに。

 まぁ「無駄な努力おつ!」って神様がせせら笑ってる感じだけども。そもそも煙草の話だったような気がするけど。私は自分のことを回避性人格障害だと思うけど、回避性人格障害という障害を取り除いたら天然性コミュ症が残るだけなので、そこをどうにか出来ない限りは態度を撤回できないように思う。赤紙来ても戦争に行くのは拒否る、みたいな感じ。戦争が終わって安全が保証できたら行ってもいいかな…。コミュ症だけ残っても傷つくだけなので。

 ワンピースで壁に体当たりし続けて自分を傷つける鯨がいたけど「この壁を取り除いて向こう側へ行きたいんだけど痛いだけなので体当たりを辞めました」というのが私の回避性なんちゃらの状態なので壁を取り除かない限りは「体当たりをまた敢行することにしました」と言ってもまた傷つくだけだと思うんですよ。「傷つくことを恐れては何も出来ない!」とか健常者っぽい人が口出ししてくるんですけど(苦笑)そこに乗りたくなっちゃうとこまでが発達障害者っぽいと思う。私が普通の人なら場数を踏めば会話にも慣れるんでしょうけどね。

 正直な話、自閉症のコミュ症というのと普通の人のコミュ症の違いがどこで出るのかが良く分からないんですよね。ただ経験上の話をするなら私と同様かそれ以上に対人関係を嫌がってる風な人でもゼミなんかの普通の飲み会で楽しめたり普通に何気なく人と交流してたりするんですよ。「付いていける」ってことですよね。失敗経験が積み重なってるだけで、その原因が外部の環境にあった場合なら多分、成功体験を積めば苦手が払拭できると思うんですが。

 原因が内部にある場合にはそれを取り除かないといけないし、私の場合、取り除けないものなので健常者と同様の条件を目指そうとする限り失敗する他無いです。同じゴールを設定して成功体験を積める余地が初めから無いんですよ。後輩との関係とかのように初めから自分に対する気配りを要求しない限り難しいと思う。それは対等な関係にならないし相手にとって負担になるから続かないだろうと思うんですよね。

 友人・親友・恋人とかで健全な形になり得ないと思う。相手が「依存する相手」として私を選ばない限り、その負担を進んで負うことは考えないと思うんですよ。そうなると相手はどうしても「自分が付き合ってあげてる」という心理になる。私はそう思われてまで(プライベートで)人と付き合いたくは無いんですよね。自分が惨めになるので。例えば、認知症の人なんかも結構友人との交流を辞めてしまったりするようです。コミュニケーションに自信が無いとか、色々と能力的に自信が持てず気後れして。私なんかは、そういうのが人生の初めからオプションサービスされてると思ってくれれば良い訳ですね。要らないオプションとか、まぁ断ってもついてくることってあるんですよね。割り箸についてくる爪楊枝みたいに(笑)

 プライベートで人と関わるというのは、その人と付き合うことが楽しかったり喜ばしいからであって苦痛を感じてまでやることじゃないと私は思っているので。マゾとかじゃないので。その先に「対等な関係の構築が可能になったりとか人付き合いが好ましいものになる」という報酬があるならやる気も出るでしょうが、そんなものが望めない以上苦痛(苦しみ)だけを得るために付き合っても仕方ないです。

 前に書いたように、チャットかメールのような形であれば、恐らくある程度、コミュニケーションは可能だと思うんですが、顔と顔を向き合わせて付き合うなり電話なりという「普通」の関係を求められた場合はやはり無理なのでは無いかと私は思っています。チャットもやはり限界が見えます。だから例えば文通相手などなら可能でしょうが言葉を交わす交流手段としては、その辺が限度でしょう。逆に言うとそういう相手を探せばプライベートでも付き合っていけるかもしれないですね。と言いつつ、やはり思ったんですが、このブログの文章量や文章の展開の仕方を見て感じて欲しいのですが、それもやはり普通じゃないし空気読めてないはずです(苦笑)

 まぁ、それ以上の距離感に踏み込むと違和感に晒されて、どこか関係に違和感を感じなければならなくなり、そこから関係に亀裂が入ると思うので。遠距離戦専用なんですよ。きっと。別にそれさえも優れてないんだけど(苦笑)まぁ、どこか優れていることを期待している時点でナンセンスですね。耳が聴こえない人や目が見えない人、四肢が欠損している人に他人より優れた何を期待しようというんです?彼らが何か平均的に何かしらに優れているのだとしても、それは普通の生活に必要なレベルで自分に足りないものを補ってるだけです。手話や白杖、車椅子などを想定して言うのですが。発達障害も障害なので単純に劣るのが普通だろうと思った方が良いです。基本的には何かで補わないと足りないのです。

 顔と顔を合わせてっていう付き合いだと、互いと息が合うとか一緒にいることが当たり前みたいな「違和感が無い」ことが重要だと思います。だとするなら相手に「違和感を覚えさせる」のはナンセンスです。自分でも同じですが。なぜかというと気を遣って息が詰まっちゃうので忌避感を持つわけです。嫌厭感というか。そこまでいかなくても疲れるというか。そういう微妙な負担が続くと関係そのものに嫌気がさして耐えられなくなってくる。大抵の場合徐々に関係がダメになる気がします。

 そういうのを背負うのはもう「仕事の領域」でプライベートでやることじゃないでしょ。だから相手にそういう関係を無理強いできないし私も遠慮したいと思うんですね。私が先に耐えられなくなることもある気がします。相手も同じように感じてる気がする。私の私見じゃ眉唾かもしれませんが。