川崎市の事件で感じたのは、いじめの構図で殺人が起きた、という印象。
主犯格のリーダーが切れたことを周りの二人が止めなかった、という印象。
これは自分に害が及ぶのを恐れた行動で、自分を第三者的な位置にいるのだ、と信じ込ませることで、
目の前の行き過ぎた行為に目を瞑る、ということである。
スマイリーキクチさんが言うように、事件の真相がハッキリしないうちから邪推するのも問題があるが。
そのことは承知した上で、仮にこのブログを読む人がいたとして、単に「そういうことだったのではないか」と妄想しているだけだと考えて欲しい。
私も経験があるが、暴力性のある人に対して、その害を蒙らないために機嫌を取ってしまうことは処世術として十分あり得ることで、モラルを先行させることは蛮勇だと考えられることが多い。だから、いじめを見ているだけの第三者群は空気を読んでそうしているのであり、短気的に自分に害が及ばなければ良いと考える事なかれ主義である。
そして、それは日本では賢明な判断だとされる風潮があると私は考える。学校教育の場で良く露呈しているように思われるが。
自分は見ていただけだからやっていない、責任が無いと言い訳が出来る。オウム真理教の誰かの話だったが、浅原氏に逆らうことが死よりも怖かったということを言っている訳だが、暴力と言って差し支えないだろうか…そうした権力に逆らうことと、その結果の想像からモラルを通せなくなることはある。
言うと自分が損失を蒙るから黙っている訳である。仮にその損失が職を失うとか殺されるとかいう場合にモラルを選べるかどうかという問題にもなり得る。
暴力によって言論統制が敷かれてしまう構図だろう。
この対極は法を侵して実名報道をしてしまうネット民や週刊誌などの恣意的な正義感を言い訳とする人々だろう。対極と呼べるかどうかも怪しいが。中には正当な批判だと考えることにして自分の暗い感情の捌け口にしたいだけ、という人間がいるだろうから。
川崎市の事件にしても貧困の問題と不可分のような気もする。要は教育が十分に働いていないと。この教育は国語・算数・理科・社会というのではなく、モラルの問題である。マナーの問題である。情操教育と言うべきだろうか。義務教育は情操教育を含んではくれないから、産まれた環境のモラルが子供に反映されやすいように思える。
「朱に交われば赤くなる」というのは一利あって、常識をそこに引きずられていく。人は見えるものに反応するから、見えないものについて考えるには知識が必要となる。けれど、それが足りない場合も多い。特に一所に居続ける人はそうなりやすい。
映画などサブカルチャーを通して、色々な視点に立った経験を擬似的に行うというのが良い処方箋だと思うが、どうなのだろうか。知的教育と情操教育は分けて考えられなければならない。義務教育は情操教育が環境に任されているため、躾にはならない場合が含まれるように思う。
周囲に良識的な大人がいなければ、不良が不良を拗らせて、今回のような凄惨な事件を招く気がする。