LittleBear Communication Disorder's

発達障害者の趣味と考察と日記を適当に

ハーレム系が嫌いなわけ

思うに、複数人を相手にしたとき、立場が対等じゃないからだろう。

男1女3というハーレムだとして「男が女3人を対等に愛せるか」というと、それは無いと思う。

女3人が揉めた時に誰の肩を持つのか…という話でもある。それで肩入れされなかった女性たちは不満を覚えるだろう。

だから、女性3人が対立することは許されないし、ましてやそこに男性が介入することも許されない気がする。

裁判所じゃないけど、関係を取り持つため、中立性を保たなければならなくなる為、一番微妙な立場だと思う。公平に平等にと常に考え続けて日常生活を送るのはとても疲れるだろう。

兄弟が時に親の愛情の奪い合いをするような形での関係性の悪化が予期される気がする。『FF10』のティーダを思い出すんだけど、ティーダの母はジェクトのことしか見えておらず、ティーダを見なかった。だから、ティーダと父親との関係はギスる訳だったと思うのだが…。

本来、母親を嫌う気もするが。味方というか、「私を見て」という感じのアレである。女性3人がいると、目移りするだろうから、不満が貯まるだろうと思われる。平等に対等に扱うには時間が足りないし、結局一歩も二歩も引くしかないような気がする。

友達100人作ろう!とか最近は死語になったのか聞かないけど、100人友達を作るより1人でも親身になってくれる友がいれば幸いだと思う。100人親しい友人を作るのは時間的に無理だと思う。ちなみにLINEに名前が載ってる人物は私の分類では殆ど「知り合い」か「顔見知り」であって友人ではない。スマホは持ってないが。

「自分に対して親身になってくれる人が親にせよ友人にせよ一人もいない」という状況が多分普通の人の精神衛生上あまり好ましく無い。親が「自分の子供嫌いなんです」とかいう場合その人が子供に対して親身な訳が無いので。要は口で何を言っていても、相手にアクセス出来て無ければどうしようもない。関係性の構築が出来て無いのに、口先だけ何を言っても無駄だと思うし、先に考えるべきは、躾よりその人と向き合うこと自体のような気がする。

ちなみに発達障害者はそういうのは無理なように出来ていると聞いた気がする。なので、そうした物事は推測でしか話すことは出来ない。人には自分に一目置いてくれる他人が必要で、それは愛着である。発達障害者は他人にどうも愛着を持てないらしい。そうなると他人を愛するということは難しいと感じる。愛とは愛着だから。

また、他人を愛せないと言うことは他人から愛されないことでもある。人は愛し愛されて愛し合うものだと思うので、私が他人を愛せないなら他人もまた私を愛せないだろうと推測する。愛を関心と言い換えて見ても良い。私が相手に関心を持たないのに、私が相手に無関心なのに、私に関心を抱いてくれ、私を愛してくれ、というのは無茶振りだろう。それでも寄ってくるのは商売相手か訳アリの人くらいである。

愛には共感が必要なんじゃないだろうか。

私は私が愛されないのは自分が悪いと思うし、だから割と諦めている。だから、類は友を呼ぶというべきか欠陥のある人間が寄ってくる。まぁ、消去法である。私を「おかしい人間」と思って身を引き別の他者と繋がる人は正しい判断力を持っていると言えるし、何故か他の選択肢があるだろうに私ににじり寄ってくる人間は何か問題を抱えていて、寄る辺を探しているのだろうと見る。

経験から考えてみても、妥当だと思う。例えば何もしないのに、メールの返信をしないのに何十件も着信を入てくるような人は異常である。正しくコミュニケーションが図られていないのに、そのまま継続しようというのは、ちょっと引く。そして、割と私は返信する気の無い人間だと思う。返信しないのだから返事が来ない方が正しい。例えば、一度や二度は確認のメールが来るにしても。

そのまま放っておけば、関係は発展しないし、解消するかもしれない。

これは例えだから、もう少し具体的に言えば、発達障害者は会話に付いていくことが出来ないので、的外れな応答をしてしまう。同時に付いて行けないからなのか大抵の場合、関心も持てない。すると適切な返答が得られないので会話は途切れてしまう。キャッチボールが出来ない相手と「キャッチボールしようぜ」という人間はいない。歩けない人に「サッカーしようぜ」という人がいないのと同じである。トランプのルールを知らない人間とゲームすることは出来ない。遊べないから他のやつと遊ぶよ、じゃーね。となるだろうという訳である。私もしかも関心が薄い訳で。混ぜてというならまだしも「遠慮しとくわ」という訳であるから。

そんな私と付き合おうと思う人間は、どこかしらオカシイのだろうと推測できるという話。